無常と漂泊Ⅱ

日本列島に住む人間にとっての「無常」とは、単純にこの世界の栄枯盛衰や命のはかなさだけをいうのではない。それは、思想ではなく、生きてある今ここの実存の意識です。身体や、時間にたいする意識(感覚)です。
弥生時代奈良盆地に住み着いていった人々は、四方をたおやかな姿をした山なみに囲まれた景観に惹かれつつ、そこがまだ湿地帯であるという住みにくさを受け入れていった。そのとき彼らは、住みやすい山の中腹を捨てて、住みにくいが四方の山を見渡せる平地に下りていった。つまり、生活(経済)の問題よりも、実存の問題を選んだ、ということです。俗世間の生活を捨てて出家したようなものです。明日の食い物の心配をしたり、未来の快適な生活を設計したりすることよりも、今ここの生きた心地のほうが大事だったのです。
明日も来年もないのだ、今ここに生きてあること、これがすべてだ・・・・・・という気分で彼らは生きていた。そうでなければわざわざ住みにくい湿地帯になんか下りてこない。
弥生時代奈良盆地は、おそらく、われわれが想像するよりもずっと住みにくい土地だったのです。住みにくかったが、しかし列島中のどこよりもたくさんの人々が寄り集まって住みついていった地域だった。それは、彼らが、この生この世界の「無常」をあたりまえのように深く認識し、明日など当てにしない生き方をしていたからでしょう。
彼らは、うまいものを食うとか安楽な住処を得るとか、そんな未来的経済的なことよりも、今ここのこの身体がこの世界にぴったりとはめ込まれてあるかどうかという実存の問題、そういう生きた心地を優先していた。今ここのこの世界がすべてだ、という深い感慨とともに奈良盆地に住み着いていったのであり、それこそが住み着く理由だった。
もちろん彼らが、そういう実存の問題を自覚していた、というのではない。しかし弥生時代奈良盆地は、そういうかたちの意識で住みにくさを受け入れてゆくことでしか、住みつくことのできない土地だったはずです。また、住みにくさを受け入れる文化を持たなければたくさんの人が寄り集まって住み着いてゆくことなんかできない時代だったし、完全に干上がっているスペースの少ない弥生時代奈良盆地は、寄り集まって暮らすほかない土地柄でもあったのです。
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今ここのこの身体が世界にぴったりはめこまれてあるか、という問題。おそらくこれこそが、生き物としての根源的な問題であろうと思えます。つまり、自然の一部として、自然と調和してこの身体が存在することができているか・・・・・・その状態を獲得しようとすることが、身体のはたらきであるはずです。そして奈良盆地の人々にとってのそういう状態とは、うまいものが食えるとか、安楽な寝床が約束されているとかということではなく、何はさておいても、四方をたおやかな姿の山なみに囲まれている景観の中に身を置くことだった。
また、他者と体がぶつからないでいられるかということも、群れをつくる生き物にとっては大切な問題です。他者との関係を平和に保って仲良くするとは、けっきょくそういう問題であり、その状態において、はじめて自然の一部として自然と調和して存在しているという自覚が持てる。
で、そのための方法として、さしあたってふたとおりあります。ひとつは、お互いが必要以上に寄っていかないと約束をすること。そしてもうひとつは、それぞれが寄っていかないと自覚すること。前者が「政治的合意」だとすれば、後者はひとつの「文化」です。奈良盆地の人々は、世の無常を知っていたから、そんな約束が守られることなど誰も当てにしなかった。だからもう、それぞれが、寄っていかないと自覚する文化を育ててゆくしかなかった。
彼らは、他者がそばにいる鬱陶しさを受け入れた。なぜなら彼らは、住みにくさを受け入れ、嘆きながら住み着いていった人々だったからです。住みにくさを嘆くことのカタルシスで住み着いていったのです。他者との関係も同じです。自分が他者のそばにいてしまうことを嘆き、嘆くことのカタルシスがあった。他者の存在を受け入れ、みずからを嘆いた。デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」といったが、奈良盆地の人々は、嘆くことによってみずからの存在を確かめていた。嘆いたり泣いたりすることこそ、もっとも深くみずからの存在を確かめることであるし、もともと日本列島の歴史は、縄文人が、大陸から切り離されてしまった水平線を眺めながら、もうどこにもいけないと嘆いたところから始まっているのです。
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嘆くことの実存、それが、日本列島の歴史だった。
日本列島の人間は、けっして嘆くことを手放さない。
無常を知ったものは、無常を嘆くしかない。なぜなら生きることは、みずからの無常としての存在を、確かな存在と信じてしまう行為にほかならないからです。確かな存在と信じてしまっているから、無常に気づき、それを嘆くしかない。無常に気づくことは、確かな存在と信じてしまうことです。みずからを確かな存在と信じてしまっている心が、無常に気づくのです。
無常が無常に気づくことはない。みずからを確かな存在と信じてしまうことがなければ、無常もまたないのです。ほんらいすべてが無常なのだから、無常を意識することなどないはずなのに、人は、みずからを確かな存在と信じているから、どうしても無常に気づかされてしまう。
無常に気づかないくらい無常の存在になりきること、それが、嘆くことです。嘆くことは、ひとつの消失感覚です。消失感覚が、カタルシスです。
無常に気づいてしまった者は、消失感覚というカタルシスを体験する。
すなわち古代の奈良盆地の人々は、消失感覚というカタルシスを体験していたから、他者と寄り集まって暮らす文化を育ててゆくことができたのであり、大きな共同体のなることができた。
大きな共同体になるということは、さまざまなわけのわからない人間と一緒に暮らすということです。わけのわからない他者を受け入れるということです。そういうことができるのは、無常を知っているからであり、みずからを嘆いてみずからが消えてゆく心的なタッチを持っているからです。
消えてゆくということは、それが存在する、ということです。存在しなければ、消えてゆくことはできない。消失感覚こそが、もっとも確かで深い実存の自覚なのです。
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人類の直立二足歩行は、密集しすぎて他者の身体との距離に余裕がなくなっている状況で、それでもその居心地の悪さを受け入れた結果として実現した姿勢です。二本の足で立っていれば、4本足で這いつくばっているより、おたがい狭いスペースですみますからね。もっとあっちに行けよ、と追い払うのではなく、二本の足で立って、おたがいがその居心地の悪さを受け入れている。それは、快適な「未来」を目指すのではなく、居心地の悪い「今ここ」を受け入れる姿勢です。
無常に気づいてしまったものには、目指すべき「未来」などというものはない。もう「今ここ」の居心地の悪さを嘆きつつ受け入れてゆくしかないのだ。そして、二本足で立ってゆくことは、みずからの身体が占める空間を半分に消してしまう行為であり、すなわちそこに消失感覚としてのカタルシスがあったからその姿勢が実現したのだ、ということです。嘆いたから実現したのであり、直立二足歩行は、消失感覚なのです。
未来を目指すこと(知能)が人類の進歩をもたらした、なんて、低脳歴史学者の考えることです。人類の進歩は、無常を感じて「今ここ」に立ち止まることのカタルシスを体験してしまったところから始まっているのです。
そして奈良盆地の人々もまた、「今ここ」の居心地の悪さを受け入れながらその住みにくい湿地帯に住み着き、そうやって「今ここ」に立ち止まってしまうことの嘆きとカタルシスを体験していたからこそ、どこよりも大きな共同体を形成してゆくことができたのです。
大和朝廷は、研究者の言うような、未来を目指す「政治的合意」でつくられた共同体ではないのだ。お願いだから、そんな安っぽい論理で歴史をかたづけてしまわないでいただきたい。
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われわれの意識であれ命であれ時間であれ、「今ここ」の一瞬に生まれ、一瞬に消えてしまうことの繰り返しとして流れていっている。それが「無常」です。「未来」なんか、ないのです。自分は、一瞬一瞬消えていっているのだ。そして、一瞬一瞬生まれているのだ。
いずれにせよ、無常感は、たんなる気分なのだけれど、しかし人間存在の根源と関わっている気分でもある。それは、中世という時代のたんなる流行でもなければ、日本人だけの民族感情としてかたづけられることでもない。
「無常」は、やっぱり「身体論」なのですかね。どうも、そこに戻ってゆくような気がします。