閑話休題・お母さんの生首

バラバラ殺人事件なんかいくつも起きているご時世だからそういうこともあるだろうし、なんだか寺山修司の詩や劇の世界みたいだなあ、というのが、その事件を知ったときの最初の印象でした。
先日、会津若松の少年がお母さんを殺し、その生首をバッグに入れて自首していった、という事件のことです。
強姦やストーカーやいじめはただの「わる」で、お母さんの生首を持ち歩けば「異常」なのか。僕は、ちっともそうは思わない。ある意味で、強姦やストーカーやいじめのほうがずっと気味悪い面もある。
死体なんか、ただの「もの」だ・・・・・・そういう世の中なんだもの、そういうふうに思ってしまうこともあるでしょう。
人間は、観念や霊魂(スピリチュアル)で生きている存在なのだから、死んでしまった体なんか、何の意味もない。だから、死体は、さっさと臓器移植して再利用するのが理想の正義だ、という。
臓器移植するのが正義で、生首持ち歩くのが異常だなんて、わけがわからない。どちらも、人間は観念や霊魂で生きている、という認識のうえに成り立った行為じゃないですか。臓器移植を正義だと主張する人間の心だって、僕からすれば、そうとう気味悪い。
生首を持ち歩くなんてふつうの人にはできない、というのなら、それは、霊魂のたたりがあるという意識が、どこかにあるからでしょう。しかし、そうやって怖がることじたい、死体をただの「もの」と見ている証拠なのだ。霊魂は別のところにいて、死体には霊魂がともなっていないと思うから、薄気味悪いのでしょう。
彼にとって、お母さんの生首を持って町を歩くことは、お母さんのサンダルを突っかけて散歩に出ることと、そう変わりがなかったのかもしれない。死体はもう、お母さんではない。かつてお母さんが所有していた「もの」に過ぎない。
殺すときや殺した直後は、よくわからないけど、そりゃあぞくぞくする興奮があったのかもしれない。しかし、そのあとお母さんの首を切断しているときは、そんな興奮もすっかり冷めていたにちがいない。それはもう、ただの「もの」なのだから。
「もの」だと思ったから、切断し、持ち歩くことができた。
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お母さんはお母さん、死体はかつてお母さんであった「もの」、もはやお母さんではない・・・・・・そういう気持は、わからなくもない。
われわれは今、死体が「もの」に見えてしまうような世の中に生きているのだ。僕だって、もし人を殺してしまったら、ただの「もの」に見えてくるかもしれない。あくまで人格を持った人間の姿だと見続け接し続けられる自信はない。
葬式のあとや通夜で、さんざん飲んだり食ったりしてろくでもないことを喋りまくっている人々。それが、まっとうな死者を偲ぶ姿だろうか。人格だけが死者なのではない。いやむしろ、死体こそ死者そのものだ。その死体が消えてなくなったことを、われわれは、どう受け止めればいいのか。死者をさかなにして、生きている者どうしの絆(仲間意識)を確かめあっていればそれでいいというものでもないでしょう。なんだかしらないが、そういう光景は、醜い。そんなことをするくらいなら、きれいさっぱり忘れてしまうほうが、よほど清潔な態度かもしれない。どうせ人間なんてみんな死んでしまうのだし、人が生きてあることじたい、確かなことかどうかわからないのだから。
目の前にいない人間は「存在しない」、かつて存在したかどうかもわからない。「異邦人」の主人公ムルソーが、「ママンの死を悲しむ権利など、誰にもない」と言った言葉は、正当なのだ。
お母さんを殺した少年が、その死を悲しいとも申し訳ないとも思わないのは、異常とか残虐とか、そういうレベルの心ではない。彼が事件直後に味わっていたであろう、お母さんの「不在感」、それがまず「さっぱりした気分」としてやってくるのは、なんとなく想像がつく。
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取調べで、彼は、お母さんを恨む気持ちがあった、というようなことはとくに語っていない。
彼にとって、お母さんは、あくまで「お母さん」だったのだ。やさしかったのかどうかは知らない。しかし、たぶん、この世でもっとも親しい人のひとりだったのだ。
殺してしまってもいいと思えるくらい、近い存在だったのだ。
寺山修司の歌に、こんなのがあります。
大工町寺町米町仏町 老母買う町あらずや つばめよ
一般的には、「姥捨て山」のイメージの変奏である、と解釈されているが、たぶん、それだけじゃない。これは、とてもモダンな歌なのだ。ただ、貧乏で養いきれないから誰か買ってくれないか、というのではない。
いいとしこいて、まだ「女」の顔して生きてやがる。だったら、こんなのでも相手にしようという物好きですけべなじじいのひとりやふたりはどこかにいるだろう、なあつばめよ・・・・・・そういう感慨の歌なのだと思います。この歌が、なぜみずみずしい感傷性を漂わせているかといえば、それが、大人になりかけている「少年」の普遍的な感慨だからでしょう。
僕だって、17歳のとき、風呂上りにスリップ一枚で台所に立っていた母親を蹴飛ばしてしまったことがある。まあ、むかしのお母さんは、どこでもそれくらいのことはしていたし、僕の母親は小柄で痩せた人だったから、そう色気むんむんという姿でもなかったが、それでも、無性に気に食わなかった。
これから恋をし世の中にも出てゆこうとしている17歳の少年にとって、母親が、女であることも、近しい存在であることも、目障りなのです。女も、近しい存在も、家の外にいるべきだ、と彼は思う。
だったらお母さんなんて、この世から消えてしまってくれるのがいちばん。そんなに僕にやさしいのなら、消えてしまうことだって引き受けてくれてもいいだろう。いや、引き受けてくれるべきだし、引き受けてくれそうだ・・・・・・彼は、そう思ったのかもしれない。
自分はやさしい母親だから、子供との絆は確かで、子供にとって大切な存在であるにきまっている、と考えるのは、正解だとはいえない。やさしいお母さんだからこそ、さっさと消えてしまうことも引き受けてくれてとうぜんだ・・・・・・17鎖の少年がそう思うことは、けっして異常ではない。母親を、さっさと売り飛ばしてしまいたい、殺してしまいたい、という衝動は、これから恋をし世の中に出て行こうとしている少年の誰のなかにも、多かれ少なかれ、潜在的にか顕在的にか、きっとある。
いい母親だから、子供にとって自分は存在価値があって正義だ、と思っているお母さんはおそらく世の中にたくさんいるのだろうが、それはあつかましいというものです。
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彼は、その犯罪行為を、「自己表現」だといった。
では、そこに表現された自己とは、どんな自己だったのか。
家の中では、表現しなくても自己は守られている。しかし、いったん家を出て、友達や恋人をつくったり、働いて金を稼いだりしてゆくためには、自己は表現してゆかねばならない。
その「自己表現」の衝動は、思春期を迎えた少年が、家族の外の世界を目指したときに起きてくる。しかし、人を殺すことでしか叶えられない「自己表現」の衝動とは、いったいなんだろう。
まず、もともといい家族だったから自己表現しなくてもよかったし、彼は長男で学業も優秀だったのだろうから、自己表現しなくてもまわりが認めてくれた、ということもあったかもしれない。おそらく彼は、頭はよかったが、ひといちばい自己表現することがへたな少年だった。そしてその傾向は、家族から離れて見ず知らずの町に寄宿しているというとまどいが、さらに拍車をかけた。
彼の遊び友達は、学校の同級生ではなく、町で知り合った相手だった。自己表現ができない彼は、それほどに、学校では孤立してしまっていた。
家族も、子供のころの友達も知り合いもいない町で、ほかの同級生以上に自己表現しなければならない環境に置かれながら、自己表現しようとする衝動だけが、出口を塞がれたまま成長していった。もう限界だった。なんとしても、出口をこじ開けなければならない。
彼にとって人を殺すことは、自己表現の衝動を解放することだった。
そうして、解放されたその衝動が、お母さんの生首をバッグに詰めさせた。
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彼は、殺人を研究していた。人を殺すということは、それによってもう自己表現しなくてもすむということであり、自己表現できない自分の、唯一で究極の自己表現でもあった。彼は、ひといちばい自己表現の衝動が強く、ひといちばいその必要にも迫られていたのに、ひといちばいそれが下手だった。
家族と離れ、生まれ育った町とも離れ、学校だけが唯一のアイデンティティを確認できる場所のはずなのに、その学校で彼はひとりぼっちだった。
そういう気持、あなたはわかりますか。
それは、のうてんきなテレビのコメンテーター学者や取調べの警察官にはうかがいできない心模様なのだ。
殺す相手は誰でもよかった、と彼は言う。
しかし、殺すことができて、殺してもいいと思える相手は、お母さんしかいなかった。
異常でもなんでもない、17歳らしいなあ、と僕なんかは思ってしまう。
もちろん彼のお母さんだって、きっといいお母さんだったのでしょう。しかし、お母さんという存在は、17歳の少年に殺されるかもしれない存在である、という自覚が足りなかった。現代社会の、家族こそ正義だという幻想は、そういう自覚を希薄にさせる。よい家族であろうとあるまいと、家族なんて正義でもなんでもない。不安に浸された17歳の少年が、お母さんを売り飛ばしたいと思ったり殺意を抱いたりすることは、人間社会の普遍的な構造です。
そりゃあ彼には、ひといちばい傷つきやすいとかこらえ性がないとか、そういう性格的なことはあったでしょう。しかしそれは、異常かどうかというようなこととは、また別の問題です。
人間の脳みその中身なんて、ただの蛋白質です。天才だろうと殺人犯だろうとわれわれ凡人だろうと、そうたいした違いはない。
人間の行為は、時代(状況)との合作です。そういうことをしてしまう状況が彼にはあった、ということです。彼と同じ状況が与えられれば、僕だってしてしまうし、あなただってしてしまう。彼の人生と人格、これまで生きてきた中での人との出会いと体験、そして時代の様相、そういうさまざまな要素が組み合わさった「状況」が、そこに発生したのです。