中世の漂泊

中世の無常感を、身体論として考えてみたいと思っています。
われわれのこの身体こそもっとも常ならざるものであるのは当然のことだが、西洋では心身二元論というかたちで、それを実感することから免れていた。キリスト教は、観念(心)の永遠を説く宗教です。
しかし日本列島では、心と体はひとつのものだという認識だった。だから、身体の無常はそのまま命のはかなさとして受け止められていたし、永遠とか不変という認識が育たなかった。というか、無常こそが永遠であるという認識で生きていた。
地平線の向こうから人がやってきていた大陸では、そこにももうひとつの世界があることをあたりまえのように認識していた。だから、この世界が果てしなく広がっていることを了解できたし、見えない地平線の向こうがわにももうひとつの世界があるという認識は、そのまま、この命は身体とその外の観念世界(心)との二元論として成り立っている、という認識になる。
しかし、水平線の向こうがわを知ることができない日本列島では、見えないものを類推してゆく意識が育たなかった。したがって、西洋のように、見えない意識をひとつの存在であるかのように認識することはできなかった。それはあくまでこの身体のはたらきの一部である、と了解していた。
この世界はこの日本列島で完結しているのだと認識することは、この生はこの身体で完結しているのだという認識でもあった。
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幕末のころの逸話です。ある父と子が地元の山に登り、町を見下ろしていた。
感激した息子が言った。
「とうちゃん、おらたちの町は、広いんだねえ」
満足そうにうなずいて父は、こう答えた。
「そうだ、息子よ。しかし、日本はもっと広いぞ。この十倍はある」
日本列島に住む人間の世界観のスケールは、江戸時代になってさえ、このていどだったのです。
それは、地理認識だけのことではない。それほどに、みずからの身体を、この生のすべてだと認識していた、ということです。
江戸時代でさえそうなら、古代や縄文時代の人たちなら、なおさらそんな認識を深く疑うことなく生きていたはずです。
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現在の研究者は、弥生時代後期からすでに大陸とさかんに行き来し、大陸の政治情勢と関係しながら、誰もが「日本」という意識で生きていたのだ、といいます。くだらない歴史認識ですよね。そんなふうに生きていた人々の末裔が、「日本はこの十倍も広いんだぞ」とは言わないでしょう。
日本列島で暮らすものたちは、縄文時代以来、いつだって日本列島をこの世界のすべてだと了解し、この身体をこの生のすべてだと納得して生きてきたのです。やまとことばが身体的な言語であるということも、つまりはそういう伝統の中で育っていったからでしょう。
中世に無常という言葉が流行したということは、すなわち身体にたいする意識が強くなってきた、ということを意味する。
古代の日本列島の人間は、仏教伝来によって観念として生きることを教えられた。しかしその矛盾が時代とともに露呈してきて、しだいに縄文以来の身体として生きる世界観に回帰していった。中世とは、そういう時代なのではないでしょうか。
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むかしの山伏は、奈良の吉野と東北の出羽三山のあいだを平気で行き来していたらしい。だから吉野のある地方は、ただの奈良弁とはちょっとちがうのだそうです。そういう脚力や、それをあたりまえのように考えてしまう意識は、おそらく縄文時代から受け継いだ伝統でしょう。
すでに日本人が定住するようになった中世においては、漂泊者は、ほとんどがそうした山伏や僧侶といった階層の人たちだったが、彼らはみな山歩きの達人だった。
中世になってもまだ、漂泊するとは、山に分け入ってゆくことであって、海岸をさまようことではなかった。やまと文化の原型は、山を漂泊することにあった。日本列島には、山歩きの長い歴史と伝統があった。
ナンバ歩き」という言葉が、一時期流行しました。歩くときに、手を強く振らない、そして右手と右足が同時に前に出てゆく、という江戸時代まで続いていた日本人独特の歩きかたのことだそうです。これなど、まさに、山歩きの伝統によって洗練されてきたのではないでしょうか。そこは、平坦ではなく、予測のつかない起伏が待っている地面です。であれば、バランスをとるための腕は、つねにニュートラルにしておく必要がある。そうすれば、どんな起伏にもふらつかないでさっさと歩ける。
これは、身体だけのことではありません。その歩き方は、「予測がつかない」ことと和解している心性の上に成り立っているのであり、それこそが漂泊の心性にほかならない。
運動神経とは、予定調和的にみずからの意志で体を動かす能力ではなく、体のことは体に任せて予測がつかない事態にどれだけ反応してゆけるか、という能力です。すなわち運動神経とは、漂泊の心性の別名である、といえるのかもしれない。
それは、歩く技術だけの問題ではない。縄文時代以来受け継がれてきたそういう心性(感性)の問題でもあるはずです。
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つまり、「歩く」ということの醍醐味を忘れかけていた日本人が、それに気づき取り戻そうとしていった時代だった、ということでしょうか。中世の「無常」の流行とは、すなわち「歩く」ことの流行だったのだ。
われわれは、歩いているときにこそ、もっとも確かに、この身体がこの生のすべてだという感慨(認識)を持つことができる。意識と身体の一体感、それが、歩くという行為の醍醐味です。そして、うまく歩けているときは、身体のことなど忘れて意識だけになっている。しかしそれは、意識が身体そのものになっている感覚でもある。そういう意識と身体の合一感とともに意識も身体も消えてゆくということが、日本列島における伝統的な死のイメージであり、救済のイメージだった。
そのようにして身体が消えてゆくタッチを、日本列島で暮らす人間は持っているのであり、それこそが「無常」という世界観にほかならない。
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海に出れば人は、茫漠とした気持になり、さすらうことができなくなってしまう。人は、世界には果てがないという気分でさすらうのではない。この景色が世界のすべてだという気分を携えてさすらっているのだ。さすらうとは、「出てゆく」ことではなく、「入って」ゆくこと。山に分け入ったからこそ、漂泊の文化が生まれてきたのだ。それが日本人の出自であり、どこにも行けない盆栽じじいだって、その小さな鉢に「深山幽谷の趣」をつくって、自分を慰めている。
その小さな世界を、これが世界のすべてだと感慨する。小さな世界は、小さければ小さいほど価値があって、小さければ小さいほど、これが世界のすべてだという感慨も深くなる。それは、この身体がこの生のすべてだという感慨であり、日本列島で暮らす人間にとっては、そうやってこの世界のもっとも小さく私的な単位である「身体」と和解してゆくことが救済であったのだ。
西洋的な救済(死のイメージ)が、世界を無限に拡張してゆくことにあるとすれば、日本列島では、無限に収縮してゆく世界がイメージされていた。意識の根源的な世界観は、胎児の段階における、この身体を世界のすべてとして捉えている状態にあるはずです。死んでゆくとは、そういう世界観に還ってゆくことだ、という認識が日本人の中にあるらしい。死んだら土に還ってゆく、という認識です。そういう感慨で、盆栽じじいは「深山幽谷の趣」に耽溺してゆくのではないでしょうか。
身体も意識もともに消えてなくなってしまうこと、それが「無常」であり、それこそが日本列島で暮らす者たちの救済のイメージだった。