一遍・中世の漂泊

弥生時代以降の定住していった日本人に、漂泊する心性がなくなったわけではない。彼らは、漂泊する心性で定住していったのだ。
中世においては、空也とか一遍上人とかの遊行念仏が、一般庶民を巻き込んで日本中をさすらってゆくというムーブメントが起きている。それはつまり、日本人が、さすらう心で住み着いていたことを意味する。
これは、じつにいいかげんな運動です。社会をどうしようとか、そんな思想も情熱もない。ただ、みんな屈託なく浮かれていた、というだけです。彼らの目的は、村を出ることだけであり、出れば、それだけでもう何もいらないと思えるカタルシスがあった。
漂泊とは、目的地を持たない旅のことです。目的がないということは、欲望がないということです。漂泊すれば、欲望がなくなってゆく。だから、社会をどうしようというような思想や情熱も生まれてこない。一遍は「一切を捨てる」といったが、漂泊しなければ捨てることことはできないし、それは、捨てるべき欲望がなくなってゆくことでもあった。
たぶん、けっこう悲惨な旅だったはずです。食い物はろくにないし、寝るところだってままならない。それでも、旅をすることと、「なむあみだぶつ」と念仏の声を出すことだけで、これがこの生のすべてだ、と納得できるカタルシスがあった。
彼らの信仰や世界観は、観念ではなく、あくまで体感であった。観念として、目指すべき世界像など何もなく、ひたすら体感として、「これがこの世界(この生)のすべてだ」と深く納得することにあった。
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「すべてを捨ててしまおう」、と一遍は言う。しかし、すべての観念行為を捨てても、体だけは残る。いや、体さえも捨ててしまえ、今すぐ死んでしまえるならこんなうれしいことはない、生きてあること(=衣食住)は悪なのだ、「なむあみだぶつ」がすべてだ、という。
しかし「なむあみだぶつ」という言葉は、もともと声として発生してきたのだから、体(=生きてあること)を捨てることは、体(=生きてあること)を止揚してゆくことでもあった。そういう逆説的なダイナミズムが、そのムーブメントだった。それは、体を支配している観念をぜんぶ捨てて、体じしんの自発的なはたらきにしたがう、という方向だったのだろうと思えます。
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それは、いったん定着した仏教の観念が、縄文的な漂泊の心性に回帰していったかたちであった。
仏教では、極楽浄土と現世という二つの世界が説かれる。しかし日本列島的な世界観においては、現世だけしかない。もともと仏教が入ってきた当時は、この二つの世界がつながっていて、信心してよいことをすればそのまま行けることになっていた。だから支配者は、すすんで仏教のモニュメントをつくり、それが白鳳・天平の文化として花開いていった。しかしやがて、極楽浄土は現世とは隔絶した世界であり、出家した者でなければ行くことができないと考えられるようになってゆき、寺院内の退廃したエリート意識が生まれていった。で、その反動として、誰も自分から極楽浄土に行くことはできない、もうひたすら阿弥陀如来の慈悲を信じすがるしかないのだという思想が現れてきた。それが、空也法然親鸞に代表される浄土門念仏宗教であり、ついには一遍のように、死んでから極楽浄土に行くのではない、今ここの「なむあみだぶつ」こそ極楽浄土なのだ、という踊念仏になっていった。
この歴史の推移は、すなわち仏教が持ち込んだ極楽浄土という観念世界が次第に遠ざかり、最後に切り離されてしまう過程であったのではないでしょうか。それは、大陸的な観念世界から日本列島的な身体意識に回帰していった歴史であり、同時に、1万3千年前に氷河期が明け、大陸と陸続きだった部分がしだいに切り離されていった縄文時代の始まりを思い起こさせます。そして縄文人は、そこから山野をさすらう習性を身につけていったし、中世には、踊念仏だけでなく、たくさんの漂泊する僧侶があらわれてきた。
直立二足歩行する人間にとって、歩くことは、身体が消えてゆく感覚です。それは、身体が消えてゆくというかたちで身体を止揚してゆく行為です。漂泊とは、ようするに歩き回ることだ。そして、歩き回ることの救済に気づく。
心身二元論としての「心」は、対象としての「身体」に気づく。しかし心が身体そのものになれば、とうぜん身体はもはや対象でないのだから、気づくこともない。これが、歩いているときの身体感覚です。無常即涅槃、消えてしまうことこそ救済であり、それは、消えてしまうというかたちで身体の存在をより確かに認識することでもあった。
無常のパラドックス
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出家して山(=寺)にはいり、そこの退廃から逃れてもういちど出家して山を下りてくる、それが一遍であり、そのころそうやって漂泊の旅を続ける僧侶がたくさんいて、それらを「聖(ひじり)」といったのだそうです。
「無常」については、語られすぎるほど語られている。唐木順三氏によれば、このころの知識人が無常を語ると、とたんに饒舌な詠嘆的美文調になるのだとか。それはつまり、それ以前からずっとこの国に住む人間の無意識に息づいていたものだったからだ、ということを意味するのではないでしょうか。
海に囲まれた日本列島には、「常なるもの」としての永遠という概念がなかった。見える範囲の水平線の向こうは「ない」と認識していた。死後の世界も「ない」と認識していた。げんみつにいえば「あるでもない、ないでもない」すなわち「わからない」と認識していたのだが、とにかく水平線の向こうが死後の世界であり、そこを「ある」と認識できなければ、常なるものとしての永遠も信じられるものではない。
日本列島で暮らす人間は、縄文時代からすでに「無常観」を抱いていた。ただ縄文人は、それをあたりまえのこととして受け入れていた。しかしいったん大陸の仏教的世界観を受け入れてしまったあとの歴史においては、あたりまえではなく嘆くべき事態として認識するほかなかった。というか、縄文人の嘆きに、さらに嘆きを付け加えて認識していった。だから、つい饒舌な詠嘆的美文調になってしまう。
しかしそれは、もともと血の中に流れている認識だったのだから、それだけでは終わらない。ひとしきり嘆けば、やがては縄文時代に戻って、無常をあたりまえのこととして徹底してゆこうとするムーブメントも起きてくる。それが、一遍の踊念仏だった。彼は、衣食住=生きてあることじたいが悪だというレベルまで徹底させた。まあ、そのために、それ以後の運動に投げやりな停滞を生むこともあったのだが、すくなくとも一遍において縄文的な漂泊の詩精神がよみがえったこともたしかだった。
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けっきょく、観念のはたらきをすべて否定して、身体に還っていくしかない、ということ。
で、一遍は、体さえも捨てよといったが、それは観念としての身体、あるいは身体に執着する観念のことであって、念仏を唱え踊るということは、つまるところ身体が消えてゆくというかたちで身体を止揚してゆく運動だった。
一遍の先達である法然親鸞は、「極楽浄土」という観念が、希望であると同時に、大きな枷になっていた。無常と、永遠としての浄土は、相反する概念です。死んだら黄泉の国に行くだけだ、という意識が頭にこびりついている日本列島の人間には、どうしても浄土という概念になじみきれない何かがある。彼らの教義はそこで苦心した。
したがってここまで来ればもう、浄土ではなく、無常それじたいが救済であるというところまで行くしかない。そしてそこまで行ったのが一遍や道元だったらしいのだが、すでに縄文人は、そういう世界観で生きていた。目の前に見える景観だけが、この世界のすべてだ、という認識。彼らは、身体がとらえることのできる世界だけをすべてだと信じていた。彼らが山野を棲家として生きていたということは、見えない山の向こうがわにたいして、不安も好奇心もなかった、ということを意味する。かれらは、山の向こうがわにもうひとつの世界が「ある」と認識する好奇心も、「ない」と認識する不安もなかった。それは、色即是空、世界は、あるでもない、ないでもない、という認識であり、それこそがすなわち、「無常」という感慨=世界観であるはずです。
縄文人は、30数年しか生きられなかった。しかもその生涯のほとんどを、狭い山の中に閉じ込められて生きた。こんなことは、NOTHINNG・IS・ALLという、深い体ごとの認識がなければできることではない。そしてそういう認識が、今なおわれわれの無意識のどこかで息づいている。