漂泊論のまとめ

今でこそ海は、人々の遊び場になり、世界中を結ぶ交通路になっているが、原初の、氷河期が明けて大陸から切り離されてしまったことを悟った日本列島の人々が体験した絶望や悲しみは、並大抵ではなかったはずです。縄文時代は、そこから始まり、その体験の上に日本列島の歴史がつくられてきた。
海を畏れた縄文人は、山に逃げ込み、山野をさすらっていった。
日本人は、海に親しんできた民族なのではなく、海に閉じ込められ、海を畏れて生きてきたのだ。 
現代人であれ古代人であれ、日本列島で暮らす者は、海にたいするそういうトラウマを抱えている。
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よく、「地球上の生命はすべて、海から生まれてきた。だから人は、海にたいして根源的な記憶と親しみを抱いている」などといわれるが、こんなものは、共同幻想から生み出された、ただの制度的な物語です。つまり、現代人が寄ってたかってつくり出した、ただの迷信だということ。
だって、われわれが海の中の一生命だったころ、陸地に立って海を眺めたことなどなかったのですよ。かつてわれわれが海の中に生息していたころ、「海」などというものは知らなかったのです。記憶も親しみも、あるはずないじゃないですか。
「海」などというものは、ただの「言葉」であって、「実体」ではないのです。
まあ、生まれてくる前は胎内の羊水の中にいたのだから、水に順応できるいくぶんかの体の機能は残っているだろう。いえるのは、それだけです。
「本能」という言葉の問題にしてもそうだが、現代人は、そうやって科学の名を借りて「歴史」や「自然」を平気で拡大解釈してしまっている。科学とは、迷信のことらしい。
我々人類がはじめて海をみたのは、森の中で暮らすチンパンジーのごとき猿から進化して人間になり、やがて森を追われて地球上に拡散していってからのことでしょう。そう遠いことではない。
そしてはじめて海を見たとき、なんだこれは、という驚きと畏れは、とうぜん抱いたにちがいない。人間と海との関わりは、そこから出発しているのです。
で、水辺で魚や貝をとって暮らすようになればそういう「慣れ」は生まれてくるが、水平線にたいする茫漠とした畏れが消えるわけでもない。
日本人が沖まで漕ぎ出して漁をするようになったのは、おそらく弥生時代以降でしょう。そうなれば、ときどき海難事故が起きて戻れなくなる者も出てくる。そうして、水平線や海の底への畏れは、ますます深くなってくる。
古事記の「海幸(うみさち)彦・山幸(やまさち)彦」の話も、そういう畏れから出てきた話であるはずです。山幸彦が海の底に行って子供を産ませた海のお姫様は、じつは鰐(=鮫)だった、という話なのです。
人々が沖に出るようになれば畏れは解消されるとか、そんな単純なものではない。海が好きだ、という人たちにたいして、ほんものの漁師や遠洋漁業の人たちはよく、「それは、海の怖さを知らないやつらの言うせりふだ」といいます。
日本列島の人々は、海に囲まれた島国に住んでいるからこそ、より深く海にたいする畏れが体にしみ込んでいる。内陸部の神社なら豊作だけを祈願していればいいが、海の神様には、大漁と同時に「海の無事」も祈らなければならない。水平線のむこうはすなわち「死」の世界であり、日本列島の人々は、そういう感慨で海を眺めて生きてきたのです。
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縄文人の多くは、海の見えない内陸部の山間地で暮らしていた。彼らは、海を知らなかったのではない。海を畏れていたのだ。げんみつにいえば、海そのものではなく、海=水平線の向こうを畏れたのだ。
山野をさすらっていれば、いつかはきっと海=水平線が見えるところに出てしまう。それを畏れて、また山の中にもぐりこんでゆく。そういう繰り返しが、8千年続いた。彼らは、あくまで、山という壁を「世界の果て」として眺めながら暮らしてゆくことを選んだ。
彼らは、水平線=死の向こうがわに何があるのか知らなかったし、知らないから、なにか天国とか極楽浄土のようなものをでっち上げても信じることができなかった。あくまでこの生において、この生が完結することを願った。
死んだら、それでおしまいなのです。本当におしまいなのかどうかということはわからない。わからないから、おしまいじゃないといわれても、信じることができないのです。
そりゃあ、大陸のように地平線のむこうから人がやってくるところに住んでいれば、そういうかたちで天国や極楽浄土を信じることもできるでしょう。しかし海に閉じ込められた日本列島では、信じることができない与件が、先験的に存在していた。
どうあっても、信じることができない。そこから、日本列島的な言葉や文化が育ってきた。信じることができない不幸を先験的に負っているから、「嘆き」の文化が生まれてくる。
誰も、死から目をそむけて生きることはできない。気にしていないつもりでも、われわれの行動原理は、無意識のうちのそういう自覚の上に成り立っている。人間は死を自覚する生きものである、ということ、そういう与件からは、誰も逃れられない。
なのに日本列島で暮らすわれわれは、ことさら死がわからない。わかったつもりで生きてゆくことができない。だったらもう、「わからない」ということそれじたいと和解するしかない。
わからないと嘆くことは、わからないことと和解していることであって、べつに愚かなのではない。この日本列島では、わからないと嘆くことこそ、死と向き合い和解していることなのだ。
べつに、嘆くことの「あはれ」が美しいのではない。「わからない」と自覚すること、そのように「あはれを知る」ことが、この国で生きることの心のかたちであり行動原理であり、そういう言葉であり文化なのだ、ということです。
日本列島は、死のことがわかったつもりになって安心していられるような構造にはなっていない。だから人々は、わからないと嘆きながら漂泊していた。定住しても、誰もがわからないと嘆いていた。
だから、古事記のようなわけのわからない物語を紡ぎだした。それは、その荒唐無稽な内容のわからなさと和解し、わからないということそれじたいを深く腑に落ちて納得すること、そういう混沌とした心模様から生まれてきた。
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漂泊するとは、この生をこの生において完結させることによって、死んだらそれでおしまいだという絶望を救い出すことです。ようするに、いつどこで死んでもかまわない、という心の状態であり続けようとすることです。いつどこで死のうと、死そのものにおいてこの生は完結するのだ、という思想。死のことがわからなければ、わからないと深く納得できれば、この生は、「今ここ」で完結する。けっしてわかったつもりになって安心しない、安心することなんかできない、安心しないことそれじたいが救済である状態、死のわからなさを前にしてわななきふるえながら生きてゆくこと、それが漂泊の旅です。
われわれは、天国も極楽浄土も知らない。そういう観念世界など、生死とは関係ないのだ。生死は、身体において完結している。深くそう納得すれば、観念世界など、あってなきがごときものだ。そしてそれはもう、海に囲まれた日本列島で、この世界は自分が立っているこの大地で完結している、と悟った縄文人いらいの伝統であったはずです。
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長々と書き継いできたけど、「漂泊論」は、ひとまずこれで終わりにします。どうもちゃんとした結論が浮かばない。けっきょく縄文時代を検討し直すしかないのかな、と思うばかりです。
いずれまた、出直します。