「まれびと」の原像

「まれびと」という概念は、折口信夫によって提出されたのがはじめらしいが、その詳しい定義はよく知らない。ただ、僕には僕の「まれびと」のイメージがある。あるとき、その言葉で、たくさんのことが一挙に腑に落ちたような気がした。
「まれびと」は、はじめは訪れ祝福する神のことであったのが、歴史とともにやがて「ほかいびと」のような神の使いとして訪れる人を呼ぶようにもなっていった。これが、一般的な解釈であるのだとか。
「まれびと」の歴史は、たぶん、縄文時代から始まっている。
縄文時代の男女の関係は、「ツマドイ婚」だったらしい。男たちは山野を駆け巡り、定住する女たちの集落を訪ね歩いた。一生訪ね歩く者も入れば、ひとりの女のところに落ち着いてしまう者もいたでしょう。あるいは、暖かい季節は漂泊していろんな集落を訪ね歩き、雪の季節にはひとりの女と一緒に春を待つ。そんな暮らしだったのかもしれない。
女の情念そのものであるような縄文土器の様式とか、集落のまわりに落とし穴をつくって猟をしていたこととか、あらゆる野草を食べていたこととか、ほとんど人口の増えない小さな集落が多かったこととか、縄文時代の集落が女と子供ばかりだったらしいと考えるほかない要素はいくらでもあります。
縄文時代は、男と女で集団をつくりながら平地に定住するという生態がなかった。多くの集落は、ほとんど山の斜面や峠のようなところにあった。そこが、山野をさすらう男たちを迎えるのに具合のいい場所だったからです。
縄文人はすでに稲作農耕を知っていたが、それが本格的に実施されることはなかった。それは、集落がそういう場所にあったことと、男と女が共同作業をして集落=共同体を維持するということをしていなかったからでしょう。
集落の女にとって、男は、どこからかたずねてくる「まれびと」だった。彼女たちは、まれびとの訪れを待ち焦がれていた。縄文社会の構造は、まれびと信仰の上に成り立っていた。
男たちは、鹿や熊などの山奥での猟の獲物や、珍しいヒスイの玉や、女たちの知らない土地の話や、そして何より性のよろこびを運んできてくれる、まさに「まれびと」であり、神のような存在だった。
また男たちも、彼女らによってこそ、自分たちの山の暮らしが守られていたのだ。
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日本列島は、氷河期が明けたことによる海面上昇とともに、大陸から切り離された。まれびとを迎える文化は、そのときからはじまっている。
彼らは、水平線の向こう側に何があるか、わからなかった。遠い地平線の向こうから人がやってくることもある大陸の人々と、水平線の向こうを知る手がかりを失ってしまった縄文人とでは、「視界の向こうがわ」に対する感性は、ずいぶん違ったものになるはずです。水平線のことだけではない。彼らは、今立っている視界の向こうがわは何もないのだという茫漠とした感覚が、いつもどこかで疼いていた。
どんなに広々とした景色を眺めても、その向こうに世界があり人がいるということがわかっていれば、不安は少ない。しかし、視界の向こう側を知らない意識は、山に囲まれた狭いところにいても、山の向こう側をイメージする感覚をもてない。縄文人は、つねに、視界の向こうがわをイメージできない茫漠とした気分があった。
だから、視界の向こうがわからやってきた人を見れば、驚きときめく。しかもその相手が、さまざまなものを運んできてくれる男たちであれば、女たちは夢のような心地になる。
男たちもまた、そのとき視界の向こうがわに人がいたことを発見した驚きとときめきから逃れられない。
日本人ほど、男と女の非対称性を強く意識する人種もそうはいないだろう。だから、恥らったり戸惑ったり、両者の関係がとてもぎこちない文化になっていった。
とくに縄文時代の女にとっての山の奥や向こうからやってくる男は、まさに「まれびと」だった。そういう言葉があったかどうかは知らないが、そういう気分は、きっとあった。
「まれびと」とは、山の向こうや奥からやってくる人々のことであった。
また、縄文時代においては、いや、いつの時代においても、太陽という神こそがもっとも確かに海(水平線)の向こうや山の向こうからやってくる対象であったわけで、そういう感慨とともにまれびとを迎える心が育っていったのなら、もしかしたら神にたいする気持も人に対するそれも、同時にというか不可分のかたちで生まれてきたのかもしれない。
いずれにせよ日本列島においては、古来から、訪れ来たる人は、祝福する「まれびと」だった。だから、古代の人々は、城塞という防御施設のない共同体づくりをしていたのでしょう。日本列島には、大陸のように「異人に対する恐怖心と排除の思想」によって城塞都市をつくるような「市民社会」の伝統はないのです。
日本列島の「民俗社会」を考えるなら、そういう「異人にたいする恐怖心と排除の思想」が希薄であったことこそ問われるべきなのだ。