方丈の漂泊

中世の漂泊の文化は、僧侶などの旅人だけが担っていたのではない。それを迎える村人もまた、ある意味で漂泊者だったし、さらには、そのころ流行した、旅をすることとはまったく対極にある「隠遁」という生活スタイルもまた、さらにラディカルな漂泊のかたちを模索するものだったのではないかと思えます。
定住して、すなわち世界の中心にいて、なお「これが世界のすべてだ」と深く認識すること、これが究極の隠遁です。
たとえば、目の前に「コーヒーカップがある」と認識する。たしかなことは、これだけだ、これが世界のすべてだ、と認識する。できるかできないかの問題ではない。ようするにこの認識が、究極の定住であり、究極の漂泊でもあるわけで、この認識に挑戦するのが、「隠遁」という選択です。
それは、生きながら死ぬことであると同時に、生きることを味わい尽くすことでもある。
生きてあるこの瞬間を、味わい尽くすこと。この瞬間以外、何も信じない。そのかわり、この瞬間だけは、みずからの生命のすべてを挙げて信じきる。
人間にできるかことかどうかは知りません。しかし、「隠遁」を選択するとは、こういうコンセプトであろうと思えます。意識しようとするまいと、突破口は、そこにしかない。
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一瞬という時間の言葉を、空間の言葉に直せば、「一隅」ということでしょうか。
目の前のコーヒーカップ、これが、一隅です。
女は時間と対話し、男は、空間に入ってゆこうとする。
隠遁とは、一隅に入ってゆく行為です。一隅を「世界のすべて」と認識する。
方丈とは、畳二枚分の空間、という意味です。「方丈記」を書いた鴨長明をはじめ、中世の隠遁者は、この広さの庵を「世界」と認識しようとしていた。
茶室も、この広さが基本です。
中世においてはまだ、過密人口という土地問題などなかった。それでも、あえて、現代人の「ウサギ小屋」よりもなお狭い「方丈」に固執していった。
こんな狭い空間に閉じこもって頭がおかしくならないですむのは、「これが世界のすべてだ」と実感できるからでしょう。
日本列島では、山に閉じ込められ、つねに「これが世界のすべてだ」という感慨を抱いて生きてきた。そういう伝統から生まれてきた生活のスタイルです。どんな狭い空間でも、どんな小さなものでも、「これが世界のすべてだ」と認識してしまう伝統、あるいは「世界のすべて」にしてしまう伝統。盆栽にしても、竜安寺の庭園にしても、まあ、そんなコンセプト(エスプリ)であるはずです。
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「無限」とは、認識不能の概念です。認識不能であると認識することが、「無限」を認識することです。いや、認識不能である、とすら認識することができないのかもしれない。ようするに「わけがわからない」ということです。「黄泉の国」の問題です。
宇宙に「果て」があるかないかとか、この時間に「永遠」があるかないかなんて、誰にもわからない。たとえ科学者が「わかった」と言っても、われわれのこの「わからない」という感慨=認識は、誰にも消せない。
あの水平線の向こうに何があるのか、何もないのか、わからない。これが、氷河期が明けて日本列島に閉じ込められてしまった縄文人の感慨でしょう。日本列島の歴史は、この感慨とともに流れてきた。
われわれは、海の向こうだろうと、死後の世界だろうと、わかりたいのではない。それらのことは、わかりたくてもわかるものではない、と思っている。わかりたいのではなく、「わからない」というそのことと和解したいだけだ。
そしてそれは、目の前のこの世界を、「これがすべてだ」と心底から納得することにあった。「これがすべてだ」と納得することが、「わからない」という感慨と和解することだった。
いま目の前にあるものだけを信じて、それ以外のすべての空間も時間もいっさい信じない。これが、「わからない」という感慨と和解するすべであり、「これがすべてだ」という認識は、それが小さければ小さいほど濃密で確かなものになってゆく。
方丈の庵に隠棲するということは、たとえば1トンの海水からひと掬いの塩の結晶を析出してゆくような試みだったのかもしれない。
ただ、塩の結晶が大切なのではない。
それが小さければ小さいほどいいということは、それを「世界のすべてだ」とわかることが大切なのではなく、その外部を「わからない」と深く認識することのほうに主眼があるからでしょう。
では、なぜそんな面倒なことをしなければならないのか。
われわれは、「わからない」ことを「わかる」ことはできないからです。「わからない」ことは、「わからない」のです。
「わからない」を認識することの不可能性、「わからないこと」は、「わかる」ことの外にあるものすべてであり、「わかる」という認識との関係でしか成り立たない。
とりあえず「わかる」しかないのだが、そこから「わかる」という対象をできるだけ小さくしながら、「わからない」を手繰り寄せようとしていった。できるだけ小さく「わかる」ことは、それだけ大きな「わからない」と和解してゆくことだ、という方法論、これが、方丈の思想だったのではないか。
世界をわかりたいのではない、「わからない」と深く認識したいのだ。
なぜなら、「わからない」ことと和解することは、「死」と和解することだからだ。
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その方丈の空間を「これがすべてだ」と深く認識することによって、体がしだいに「わからない」という感慨に浸されてゆく。それは、あの海の向こうはわからないという感慨とともに生きてきた民族ならではの、ひとつのエクスタシーだったのだろうと思えます。