閑話休題・もう一度生首少年のことを考える

けっきょくわれわれは、「少年とは?」という問題を突きつけられているのだと思います。
お母さんの生首をバックに入れて持ち歩くなんて、現代社会のおいてはたしかにセンセーショナルな行為だけれど、歴史的に考えれば、それほど異常なことだとも思えない。中世の合戦では、倒した相手の生首を切り落とすのが習慣だったし、古代ローマの王の娘サロメは、客の前で生首を持って踊ってみせた、という話もある。
生首を切り落とす行為は、よく言えばその人の誇り高さ、悪く言えば傲慢さの表現だったのですね。いずれにせよ、「異常」というわけではなかった。
そして、大人になる前の少年こそ、人生の中でもっとも誇り高さと傲慢さを持って生きている存在である、といえるのではないでしょうか。
暴走族の少年たちの、世の中に怖いものなど何もないかのような態度は、けっして彼らだけのものではない。そういうとしごろなのだ。
17歳は、大人ではない。大人になりかけの青年でもないし、かといって子供ではさらにない。ちゃんとセックスをする知識も能力もあるし、恋をする感情も持っている。大人以上の教養の持ち主もいれば、大人より腕力のある者もたくさんいる。それに、大人より、ずっと美しい。人生でいちばん美しい時期かもしれない。
それでも彼らの社会的なスタンスは、とても不安定であいまいだ。大人なんて醜くろくでもない生きものであるだけなのに、彼らより上等な人間であることを装って偉そうなことをいってきたり、当たり前のように高い収入を得ている。であればもう、子供時代のように、大人の庇護に安住して生きてゆくことはできない。
つまり、17歳のスクールボーイは、家族の中の存在ではなく、社会の中にいるのでもない。
17歳は孤立している。
だから同世代の仲間との友情を深めてゆくのだが、彼らは家族も社会も信じていないから、友だちの家の経済事情や親の職業なんかまったく斟酌しないつきあいができる。そういうことにいっさいこだわりなくつきあえる純粋さは、この世代がいちばんです。彼らに比べたら、大人も子供も、どこか不純な動機を抱えて友達づきあいをしている。
しかし生首少年には、学校にそういう友達すらいなかった。孤立している世代の中でも、さらに孤立していた。
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彼は、殺人の研究に没頭していった。
人を殺したいという衝動は、殺さないと自分が消えてなくなってしまいそうだという不安からきているのでしょうか。
人を殺して、これでやっと自分の存在するスペースが確保できたとほっとする気持、あるいは快感、そんなものを想像の中で追体験することは、そう困難なことではない。殺してやりたいほど憎たらしい、というようなことは、誰でもいうじゃないですか。
しかし彼の場合、憎たらしいなんて、そんな中途半端で俗っぽい感情ではなかった。この世に自分が散在できるスペースはどこにもない。誰かひとり殺さないといけない。誰かひとりが消えてなくなることと引き換えにしか、それは得られないのだ。
お母さん、あなたが僕をこの世に生み出したのだから、あなたがいなくなって僕のいるスペースをつくってくれてもいいでしょう・・・・・・。
それは、17歳の誇り高さと傲慢さかもしれない。
それは、愛でも憎しみでもない。人が生まれて死んでゆくということを繰り返してきた人間の歴史を一身に背負ってしまった者の、実存意識です。
彼がお母さんの生首をバッグに詰めて持ち歩いたのは、愛でも憎しみでもない。彼がバッグに詰めたのは、人間の歴史だったのだ。
人が生まれて死んでゆくということは、あたりまえといえばあたりまえだけど、あたりまえすぎてわれわれは、よく自覚していないところがある。誰も、彼ほど深く気づいていない。
そのことに深く気づいてしまえば、時間は凍りつき、人は今ここに立ち尽くしてしまうしかない。彼は、人生という未来の時間、すなわち「大人」として生きる時間をみずから断ち切った。お母さんの生首を持って自首してゆくというかたちで、ひとまず落とし前をつけた。やっぱりそれは、孤立した17歳の、誇り高さと傲慢さだったのでしょうか。
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なんだか息苦しくなってきたので、これでやめます。このていどしか考えられない自分が、恥ずかしいです。機会があったら、さらにもう一度チャレンジして考えてみたいと思います。