団塊世代が犯したエラー・4

この世界が気味悪く理不尽なものとして自分の前にたちあらわれること、現代の17歳はそういう体験をしているが、団塊世代にはない。だから、生首少年や17歳の統合失調症の恐怖や不安を、ただの病気=異常だと片付けてしまう。
この世界が気味悪く理不尽なものとしてたちあらわれたとき、われわれは、この世界における自分の存在するスペースを見失ってしまう。この社会で生きてゆくことは、見失わないようになんとか自分の世界観をやりくりしてゆくことです。なんとか世界と和解してゆくことです。
生首少年は、お母さんの生首を持って自首してゆくことによって、とにもかくにもこの世界との和解を果たしたのです。とにもかくにもそこが、彼にとっての、この世界における自分の居場所、だったのです。
この世界における自分の身体が存在することのできるスペース、他者との距離が離れすぎもせずくっついてしまいもしないかたちで存在してゆくこと・・・・・・現代社会において、そういうやりくりは、はっきりいって団塊世代前後のおじさんおばさんより、若者のほうがずっときめ細かくやっていますよ。
電車の座席の狭いスペースにむりやり割り込んでいって座ることは、そのもっともわかりやすい例です。そしてそれを見ているおじさんやおばさんが、自分はあんなことはしない、と自分は別の人種であるかのように満足する。しなくても、おじさんおばさんなんて、まあたいていが同じ人種なのです。
自分の身体がこの世界に存在することのできるスペースどうやりくりしてゆくかという観念を、若者ほどきめ細かくそなえているおじさんやおばさんなど、ほとんどいない。みんな社会的な立場や家族に居座って、自分が存在することのできるスペースをちゃんと確保し、それを疑ってもいないじゃないですか。一瞬一瞬、1日1日、若者ほどにはそれをやりくりしてはいないですよ。やりくりしなくてもすむ身分になって、やりくりすることがどんどんがさつになってゆく。それが、大人になる、ということです。
しかし、そんなおじさんおばさんでも、それぞれのテリトリーでやりくりしなくてもすむ身分になることはできるが、この社会にたくさんの人がいっしょに暮らしているかぎり、どこに行ってもしなくてもいい、ということにはならない。
テリトリーを離れたときに、ふだんやりくりして生きてゆくというトレーニングをしていないから、ついぼろが出る。
たとえば通りですれ違うときに、ぶつかりそうになって「あ、ごめんなさい」という言葉が、このごろの若者は自然に出てくる。僕は、若者より先にその言葉を出せたことなど、めったにない。それは、反射神経だけの問題ではない、自分の身体がこの世界にうまくはめこまれてあるかということをいつも気遣っているかいないかの差なのだ。
あつかましくて鈍くさいおじさんやおばさんは、まず言わない。それは、ただの生理的反射神経の問題ではない、身体や世界に対する感受性の問題なのだ。
そういう感受性が、たとえば買い物をするときの店員にたいする口のききかたにあらわれる。向こうにすれば、金さえ払ってくれれば、あんたが社長だろうとセレブなマダムだろうとただの貧乏人だろうと、関係ないのだ。自分が立派な大人であることを見せ付ければ相手がありがたがると思っている。しかし若者は、相手をありがたがらせてしまうことに対するはにかみがあって、そんなときにも、自分の感謝やよろこびを表現しようとする。そしてそれは、親のしつけの問題ではない。彼らの身体感覚なのだ。
どんないいかげんなしつけや育て方をしようと、いい子は育つのです。この世界にみずからの身体が存在するという認識、その身体感覚からまっとうな「社会性(共同性ではない)」が育ってくるのであり、その身体感感覚において彼らは、悩んだり嘆いたりよろこんだりして生きているのだ。