団塊世代が犯したエラー5

戦争直後に生まれた団塊世代が、つねに新しいもの、より豊かなものを享受して生きてきたということは、そのつど「滅んでゆくもの」を目にして生きてきた、ということでもあります。
日本列島改造論は、そのときすでに始まっていたのです。
もちろん、山を切り崩して高速道路をつくるような経済力はなかった。しかしそのぶん、精神的な文化が変貌してゆくさまは、日本列島の歴史の上で、かつてないほど急激でダイナミックだったのかもしれない。
厳しい弾圧を受けながら細々と地下で生き長らえていた社会主義運動が、一躍表舞台に登場して脚光を浴びるようになった。それは、われわれ子供には関係ないことだともいえない。とにかく、そういう世の中だったのです。
たとえば、中世から続いてきた庶民の伝統であるはずの、お寺に集まって御詠歌を歌うという会合は、もうおじいさんおばあさんだけのものになり、われわれの親たちは見向きもしなかった。
現代のじじばばがゲートボールしているのとは、わけがちがいますよ。ゲートボールは、いまの若い親たちもいつかするようになるかもしれないが、御詠歌を歌うことの場合は、もう誰もそれをしなくなるだろうという、ひとつの文化が滅びてゆく現象だったのです。
祖母が、弘法大師の守り札を家の柱に貼り付けるのを、僕の母親は、顔をしかめて眺めていた。
そのとき、日本列島の歴史の何かが、ある精神が、たしかに滅んでいったのです。
そして、それが滅んでゆくことこそが、人々の希望だったのです。
べつに御詠歌を歌うことや弘法大師の札を貼り付けることなんかろくでもないことであるが、「歴史」を生きようとする精神が滅びるということは、かなり怖いことです。それは、人間は生まれて死んでゆく存在であるという認識を破り捨てる、ということでもあります。そうやっていつまでも生きているつもりで浮かれ騒いで生きていけば、どこかしら精神が歪んできて、死と和解できなくなってゆくでしょう。そうして、鬱病中年らやらボケ老人があふれかえる世の中になってきた。
太平洋戦争の敗戦によって、日本人は「歴史を生きる」精神を捨てた。捨てることが、日本人の希望だった。
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団塊世代の子供たちは、より豊かなものより新しいものの話ばかりしていた。そして僕も、なるほどそうかと聞きながらあとからくっついていったものだが、中学生になったころから、だんだんついてゆけなくなってきた。
僕には、それらの話を拒否できるような知性も教養もなかった。そういう教育水準の高い家の子供じゃなかったですからね。そういう話に超然としているような頭のいいやつはいましたよ。
僕の場合は、ただ、いつの間にか、気がついたら置き去りにされていただけです。
僕は、新しいものを積極的にほしがるタイプの子供ではなかったから、新しいものと滅びてゆくものとのあいだに取り残されてしまったのかな、と今にして思わないでもありません。
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たとえば、大人たちが人を批判するとき、「あいつも、そのうち野垂れ死にだな」というような言い方をすることがよくありました。それは、戦時中の悲惨な死を見聞きしてきた人たちにとっては、あたりまえのように体になじんだ言葉だったのでしょう。僕の親たちもよくつかいました。「嘘ばかりついていたら、野垂れ死にする人間になってしまうぞ」、とか。
そして小学生の僕は、なんだか知らないが、どきどきしながらその「野垂れ死に」という言葉を聞いていたような気がする。
小学校二年か三年の冬のころでした。あのころ、町内の子供が集まって、大きい子も小さい子もいっしょに遊ぶということをしていました。野原で野球をしていたとき、誰かがしゃれこうべを見つけました。たぶん、前の晩、野良犬が土の中からほじくり出したのでしょう。いっぱい土がこびりついていました。
で、中学生のリーダーに率いられて人のいない山の中に入ってゆき、焚き火をしてしゃれこうべをあぶりながら、みんなで「野垂れ死に」について語り合いました。
大人から聞いた野垂れ死にや戦災の死のことなどです。大きい子は得意になって語るし、僕ら小さい子は、怖がったり興味しんしんになったりして聞いていた。
田舎の子供たちは、そういう無残なものを、あたりまえのように受け入れていた。
それから数年後、僕の家は都会に引っ越してゆき、そこで、新しいものが日々生まれてゆく戦後文化の洗礼を受けた。
まあそんなこんなで、僕は、まるごと団塊世代や新しい時代と歩調を合わせて生きてゆくことがうまくできなかったみたいです。
言っちゃなんだけど、僕は、「滅びてゆくもの」を見てしまったし、それを愛惜する気持も持ってしまったのだ。僕のような団塊世代はほかにもたくさんいるだろうが、すくなくとも世間の頭の薄っぺらなやつらが語る団塊世代の群れといっしょにはしてほしくない。