団塊世代が犯したエラー6

「青女」と書いて、「せいじょ」とも「あおおんな」とも読みます。一般的には、文字通り思春期の若い娘を指すのだが、もともとは中国の神の名だったらしい。
ちょっと、あやしい感じのする言葉ですよね。女なんてわけのわからない人種だけれど、その中でもさらにわけのわからないとしごろだ、ということでしょうか。青女に対比する少年の呼び方がないのは、女に比べたら少年などとてもわかりやすい存在だ、ということかもしれない。
青女のたたり・・・・・・怖いです、これは。お父さんなんか、見るも汚らわしいただの粗大ゴミにされてしまう。
そのとしごろの女の場合は、その変貌が、身体的にも精神的にも外に劇的にあらわれてくるが、少年の場合は変貌が緩やかで、しかも精神的なものは無意識の中に封じ込められてしまうことが多い。
いずれにせよ、「青女」ということばは、さまざまなニュアンスをまとっている。ときに神のような聖女であり、ときに邪悪な魔女であり、ときに純真無垢な処女性であったりもする。
しかしこれは、17歳の少年にも同じようなことがいえるはずです。
人は魔性(獣性)と抱擁することによって、神性(霊性)を持った存在へとメタモルフォーゼしてゆく。これが、人間の精神の運動であり、「祭り」という場の構造です。
誰も、直接神になることなんかできない。青女もしくは17歳の少年の誇り高さが神の場所にたどり着きたいと願うからこそ、魔性(獣性)にとり憑(つ)かれてしまうのだ。
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「たたり」とは、もともと神の崇高な力を意味したのだが、やがて怨霊の呪詛や災厄をあらわす言葉に変化していった。
それはつまり、神の崇高な力は呪詛や災厄を通過してあらわれてくる、という自然の構造に気がついていったからでしょう。この世の天変地異は、それじたい神の存在の証しなのだ、という認識。そうやって自然の理不尽な力を肯定していったん受け入れてゆくことによって祭りが生まれてきたのだし、それこそが、祭りの緊張感や昂揚感をつくっている。
その社会に、たたりを認識すること、すなわち自然の理不尽な力を肯定し受け入れてゆく感慨が薄くなってゆけば、祭りは衰退してゆく。日本の高度経済成長とともに地域の盆踊りなどが滅びかけたのは、快適さを追求する近代合理主義には祭りを生み出すような精神のダイナミズムが欠落している、ということを意味する。そしてそれはまた、団塊世代の精神構造そのものの空虚さでもあるのだ。
能面などは、ひとつの面に獣性と霊性の両方がこめられていることが多い。
しかし現代社会の繁栄が、いわばたえず「祭り」の場をつくってゆくことの上に成り立っているのだとすれば、ようするに繁栄とはお祭り騒ぎのようなものだといえるのなら、そこにはつねに「たたり」が内包されているということであり、バブルの崩壊とともにそういう感慨もよみがえってきた。人々は、バブルの崩壊を「たたり」であると認識した。
だから、残虐な人殺しの劇画やビデオが、あとからあとから生まれてくるようになった。
エコロジーのブームだって、自然=神のたたりを怖れる共同幻想である、といえなくもない側面を持っている。最近の盆踊りの復活は、エコ・ブームとともに実現していったのだろうと思えます。
最近の静かな寺山修司ブームだって、人々がふたたび「たたり」に気づくようになってきたからでしょう。寺山修司は、たたりが消えてゆく時代の狂い咲きの仇花として登場し、バブル崩壊というたたりとともに復活してきた。
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現在のエコ・ブームをいい気になって叩いたりからかったりしている頭の薄っぺらな知識人文化人はけっこう多いが、人々のたたりを怖れる共同幻想のほうがずっとまっとうな人間精神の運動だろうと僕は思っている。われわれ人類は、とにもかくにもそういう歴史を歩んできたのです。
現代社会が繁栄を謳歌しているかぎり、誰もたたりを怖れる気持からは逃れられないのであり、エコ・ブームこそもっとも率直な繁栄にたいする反応のひとつだろうと思えます。エコ・ブームは、現代社会が背負うほかない、いわば十字架なのだ。
つまり、エコ・ブームを生み出す社会の構造こそ問われるべきであって、エコ・ブームを叩けばなにかが解決するわけでもない。やつらがどんなに叩こうがからかおうが、けっこう無理をしている現代社会の繁栄があるかぎり、けっしてエコ・ブームはなくならないのだ。
そして17歳の少年が、そういうたたりに憑依して殺人の研究に没頭してゆくことも、それはそれでもっとも率直な時代に対する反応のひとつなのだ。
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快適さを追求して生きてきた団塊世代には、たたりを怖れる気持が欠落している。欠落しているから、戦後の高度経済成長に邁進して生きてくることができた。快適さの追求は、近代合理主義の理念でもある。たしかに彼らは生命力が旺盛かもしれないが、獣性(嘆き)から霊性カタルシス)へとメタモルフォーゼしてゆく精神の運動のダイナミズムはない。つまり、嘆いたり感動したりする感受性が欠落している、ということです。
団塊世代は、議論をしても自分の主張ばかりまくしたてて相手の意見を聞こうとしない。しみじみと心暖まる家庭や同世代の仲間といった予定調和の集団の中で育ってきた彼らは、人との関係に傷ついたり怖がったりという「たたり」を体験していない。たたりを知らないで、ひたすら快適さを追求して生きてきたのです。そういう人種が、人の意見を聞くはずないじゃないですか。
傷ついたり怖がったりという「たたり」を体験している人が、人の意見を聞くのです。そしてそういう「たたり」が昇華して、人ははじめて「カタルシス」を体験するのだ。
感動するとは、獣性から霊性へとメタモルフォーゼしてゆく体験です。「鳥肌が立つ」とは、そういうことです。
人が感動するのは、歴史的な社会の構造として、「たたり」を内包しているからです。
現代でも、この社会の無意識として、「たたり」は存在している。
たたりなど存在しないかのような日本列島改造論に始まった高度経済成長も、90年代にバブル景気がはじけ、そのあとエコ・ブームをはじめとするさまざまな「たたり」の表現があらわれてきた。
生首少年によって、われわれは、この社会が「たたり」を内包して成り立っていることを突きつけられたのです。
「懐かしい昭和」だの「ビートルズ世代」だのとうそくさい追憶に浸って、たたりを内包しているこの社会の構造にしらんぷりを決め込む団塊世代よりも、ひたむきに「たたり」を昇華して霊性にメタモルフォーゼしてゆこうとした生首少年のほうが、はるかに健全な精神の運動を見せてくれている、と思えます。