団塊世代が犯したエラー・7

「狂い咲き」という言葉があります。
川上宗薫というかつての官能小説の大家は、死の直前に、「五十年ぶりに夢精をした、青春がよみがえった」と喜んでいるエッセイを書いています。
人間の心や体は、死と生の境目というか、ある極限状況まで行くと、まるで蘇生したかのような心と体の充実や恍惚を体験するらしい。修行僧が断食の果てにたどり着く法悦(悟り)とか、女のオルガスムスも、まあそんなようなものでしょう。
人間の歴史の、獣性(魔性)から霊性(神性)へとメタモルフォーゼしてゆく祭りの儀式も、そういう身体(=生命)のメカニズムに由来しているのだろうと思えます。
ことに日本列島では、キリスト教的な善と悪の概念に汚染されなかったこともあって、地獄とか獣性とか魔性とか悪霊とか妖怪といった、死のふちにさまよう状況を受け入れてゆく土壌があるようです。古事記などはまさしくそういう心性の表現であるし、中世の「地獄草紙」や「餓鬼草紙」の絵にしても、そこでの餓え苦しむ人たちは、なぜか生き生きとした表情で描かれています。まるで蘇生する直前であるかのように。
日本列島では、死のふちでの恍惚や、獣性から霊性へのメタモルフォーゼ、というイメージが定着していた。
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生首少年が、悪魔になりきって、お母さんを殺して首を切り落としたとき、おそらくたしかに恍惚があったのだろうし、彼はそこから霊的な存在へとメタモルフォーゼ(憑依)していったのだろうと思います。それは、世の善男善女からすれば鬼畜の所業と映るのだろうが、本人とっては、あくまでも神聖な行為だった。
このときの心の動きは、たんなる精神疾患だけですむ問題ではない。人間の「歴史」の問題であり、現代社会の繁栄が抱える「たたり」という無意識の問題なのだと思えます。われわれは、ただの人殺しの戦争を、「聖戦」といっていたのですよ。そういう歴史の上に、現在のわれわれの暮らしがあり、心があるのです。
石田衣良という小説家は、「こんな気味悪い事件は、話題にしないのがいちばんいい」というようなことを言っていたが、どこが気味悪いのか。そんなことを言いながら思考停止して善人ぶっているあなたの頭の構造のほうが、よほど薄気味悪い。
この小説家は団塊世代よりもずいぶんあとの時代の生まれらしいが、それでも団塊世代と共通した世界観の持ち主だろう、という推測はできます。つまり、現代の世の大人たちによる共通認識ですよね。彼らが気味悪いと思うのは、快適さを追求する態度が習性になっていて、この社会に「たたり」を感じる無意識がはたらいていることに気づかないか、認めようとしないからでしょう。快適さになじんでいるぶんだけ、気味悪いと思うのです。絶対的な気味悪さなどというものは、ないのです。
非社会的な行為や人格を、かんたんに「気味悪い」と思ってしまうみずからの態度にたいしては、少しは恥ずかしいと思ったほうがいい。それは、社会と結託していい思いだけして生きてゆこうとする自分のいじましさや差別意識を晒していることなのだから。
最近、森の悪霊たちと戦うヒーローを描いた劇画が映画化されたけど、彼らに比べたら、そういう若い世代のほうが、現代社会における「たたり」の無意識に気づいている人が多いのだろうと思えます。
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太平洋戦争直後の社会は、おそらくさまざまな魑魅魍魎が徘徊跋扈する時代だったのでしょう。
戦地から戻ってきた人たちは、誰もが、自分が殺した敵や見捨ててきた戦友たちの亡霊を背負っていた。内地に残っていた女子供だって、それなりに、死んでいった人たちの無念や恨みから照射されている気持はあったにちがいない。
何より、原爆を落とされたのですからね。怨霊を意識しないで生きてゆけるはずがない。
それでも、むりやり過去の歴史を清算して、そんなものもないのだという前提で国づくりを始めた。忘れられないものを、忘れようとした。誰の心の中にもあるはずの怨霊のイメージを、ないものとして生きようとした。
そうしてさらに、何もないところからはじめるしかなかった戦後復興を生きるということじたいの地獄も、よろこびと同じだけあったはずです。ある人は強盗になり、娼婦になり、人をだましまくる闇屋になり、自分はそうじゃなかったといっても、そういう人たちと一緒に生きていたのです。誰もが、地獄草紙に描かれた餓え苦しむ人々のように、表情だけは妙に生気溌剌とし、どこかしら鈍欲だった。
彼らは、史上もっとも生の喜びを享受しつつ、もっとも心の中に地獄(たたりに対する怖れ)を抱えている人たちでもあったのです。
「たたり」をまず消してしまうこと、それが、戦後復興の第一歩だった。
そして戦争を知らないわれわれ戦後生まれの子供たちは、たたりに気づかないように注意深く育てられていった。
いま思えば、どうしてあんな安っぽいヒューマニズムや家族礼賛が正義としてまかり通っていたのだろう。たとえば、「鐘が鳴る丘」などのNHKのラジオドラマ。懐かしがる人も多いだろうけど、すごく嘘っぽいですよ。しかしその嘘っぽさこそ、人々の希望だったし、われわれ団塊世代が単細胞のエコノミックアニマルになってゆく基盤にもなった。僕は、ああいう嘘っぽいヒューマニズムや家族礼賛で育てられたことを、ちょっと恨みたい気持がある。懐かしくもなんともない・・・・・・ほんとは多少懐かしくもあるのだけれど、そうはぜったいいいたくない。そりゃあ、大人たちはそれでいいですよ。とにもかくにも、そのうそ寒い欺瞞のきれいごとによって、みずからの生にたいする貪欲さや、戦争で死んでいった人たちのたたりを怖れる気持が浄化されていたのだから。しかし、そのおかげでわれわれ団塊世代の子供は、人間の中にひそむ魔性や獣性とか、社会に内包された「たたり」の歴史に気づく感受性を去勢されながら育っていったのです。
現代の若者たちは、この社会に内包された「たたり」の歴史に気づきつつある。それは、生首少年の行為が気味悪いといっている大人よりも、ずっと健全な精神であるはずです。
ようやく戦後史が一段落した、ということでしょうか。