「まれびと」信仰と現代社会

なおもしつこく「まれびと」という言葉(概念)にこだわってゆきます。
僕はべつに「歴史おたく」ではないし、国文学や民俗学の愛好者でもない。ただ、現代のこの社会で暮らす者のひとりとして、知らない他者との出会いにおいて「祝福し合う」という心の動きや身振りがいかに貴重かということを、このごろしきりに思い知らされているからです。
また、そういう心の動きや身振りを、若者たちは意外なほど豊かに身につけており、一方大人であるおじさんやおばさんたちが情けないくらいそうしたたしなみから縁遠い存在になってしまっていることに、このごろよくいらだったりうんざりしたりしているからです。
現代社会は、見ず知らずの他人との出会いの上に成り立っている。
村の雑貨屋は顔見知りの家の者がいとなんでいるだけだが、都会では、すぐ近くのコンビニでさえ知らない他人との出会いを体験しなければならない。
若者たちは、知らない他人との出会いをこの生の与件として受け入れている。しかしおじさんおばさんは、知り合いどうしの関係(絆)を充実させることが生きてゆくことの根本だという思想に凝り固まっている。人は、歳をとればとるほどそういう関係(絆)に執着してゆく。執着したあげくに、知らない他人との出会いの処しかたが、どんどん粗雑になってゆく。
はっきり言って、おじさんおばさんのほうがずっと粗雑ですよ。年寄りは、もっと粗雑です。もちろんそうでない人もいるが、おおよそそういう傾向がある。
たとえば、若い夫婦の離婚は、たとえかたちは安直でも、そのときその場でけんめいに身もだえしたあげくのことです。ところが熟年離婚の場合、おたがい自分が正しいと思い込んでいるからちっともそんな煩悶はしない。煩悶があるとすれば、財産とか親権の駆け引きにおいてだけです。熟年離婚の内面は、粗雑で荒涼としている。
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若者は、自分が自分であることを見ず知らずの他人との出会いの場において確認し、おじさんおばさんは、知り合いどうしの関係(絆)において獲得したみずからの立場(身分)によって確認しようとする、まあそういう違いなのだろうと思えます。
知らない他人との出会いの場においては、ふだんの自分の立場や身分などいっさい役に立たない。役に立たないのに役に立たせようとするおじさんやおばさんが、世の中にはたくさんいる。
会社の社長だからといって、喫茶店のウエイトレスの前でいばっていいというものでもないでしょう。なのに彼は、いばっていいものだと思っている。よくある光景です。しかしそんな身振りは、じつはその社長だけでなく、ほとんどすべてのおじさんおばさんの体や心にしみついている。
たとえば、うしろ姿の洋服の着こなしや体型や歩き方だけで、若者かおじさんおばさんかという違いは、残酷なくらいあらわれている。それは、知らない他人との出会いの体験に対する緊張感を持っているかいないかという違いとしてあらわれているのです。
若ぶって「LEON」で教えられた服を着ても無駄なのです。
知らない他人との出会いに対する「ときめき」や「怖れ」や「いらだち」を持っていなければ、避けがたくぶさいくでみすぼらしいうしろ姿になってしまう。
「姿」の美しいおじさんやおばさんがこのごろ少なくなっている、といわれています。それは、体形の問題ではない。体形なんか、服を着ればいくらでも隠せるのです。それは、心がけ(思想)の問題なのだ。
彼らは、そういう心がけが希薄になってしまうような思想で生きている。希薄であることに居直るような思想で生きている。そして、自分は正しく生きていると主張してくる。
自分は正しく生きていると思うところから、他者を祝福する身振りや心の動きが生まれてくるはずがない。
他者を祝福するふりをして、他者を祝福する自分は正しい、と思ったって、そんなスケベ根性は、ちゃんとうしろ姿にあらわれている。他者を祝福する自分は正しいとみんなで肯きあっていても、けっきょくはそうやって誰もが自分に執着しているだけだということが、ちゃんとうしろ姿にあらわれている。
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率直な他者を祝福する心性は、自分は正しくないという「嘆き」から生まれてくる。多くの若者たちはそういう「嘆き」を持っているし、おじさんおばさんの嘆きはといえば、自分は社長(社長夫人)になれないという、これまた自分に対する執着ばかりだ。そういういじましくいじぎたなく仮構された「嘆き」を、自分の人間性の証しであるかのように思いこんで、「われわれは正しく生きている」と肯きあっている。
そうやって他者と肯きあうことが正義だと思っていやがる。それは、自分は正しいということを確認しているだけのことだ。そうやって、自分とは違う思想や心の動きを否定している。自分は正しくて自分とは違う思想や心の動きは間違っていると決めてかかっているから、「われわれは正しく生きている」と肯きあうことができるのだ。
自分は正しくないという「嘆き」があれば、この世に自分とは違う思想や心の動きがあるのは当然ことだと受け入れるしかない。この世は、自分とは違う思想や心の動きが溢れている、と多くの若者は思っている。
自分は正しくないと嘆くなら、たとえニートであれフリーターであれ、自分とはちがう思想や心の持ち主である彼らを否定することはできないはずです。それをおじさんおばさんたちは、はなから否定して肯きあっている。
ちっとは自分たちの醜さを嘆けよ、といいたいところだけれど、彼らは、一瞬嘆きかけてはけっきょく「自分は正しく生きている」というところで居直ってゆく。
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彼らは、「異人」を否定する。彼らに「まれびと」を祝福し迎え入れるという思想や心の動きはない。しかし多くの若者にはそれがある。それがあるから、ニートやフリーターといったいいかげんな生き方も生まれてくるのだ。若者は、そういういいかげんさを否定しない。
そりゃあ、誰だっていいかげんに生きていきたいでしょう。それを、どうしてあなたたちは否定するのか。毎日満員電車に揺られて会社に通いながら女房子供を養うことがそんなにえらいのか。家族のためにせっせと家事にいそしむことは正義なのか。誰だっていやいややっているだけじゃないか。それはたしかに大変で少なからず苦しいことかもしれないが、だからといってそれが「えらい」とか「正しい」ことだとは決められないでしょう。
古代人は、どんなに大変で苦しい暮らしをしていても、「自分は正しい」とは思わなかった。「まれびと」信仰はそこから生まれてきたのであり、そこからしか「まれびと」信仰は生まれようがないのです。
僕は今、道徳の問題を語っているのではない。
たとえばですよ。ある若者が、自分のこの生は自分の性器を異性の性器にさしはさむことでしか成立しないと思っているのだとすれば、それは「自分は正しくない」と思っていることと同じでしょう。そのようにして古代人もまた、自分の生が自分だけで完結しえないこと、自分は正しく生きていると思いえないことを自覚していたから、「まれびと」という「異人=他者」を受け入れ祝福してゆくことができたのでしょう。
それにたいして現代のおじさんおばさんは、自分の生が自分だけで完結していると思っている。だから「自分は正しい」と納得することができるし、セックスレスにもなる。いや、納得しているのではなく、納得しようとしているだけなのだろうとは思うのだけれど、その意地ぎたなさが後姿にあらわれている。そうやって納得せよと、時代や共同体がせまってくる状況のもとでわれわれは生きている。みんなで頷きあうことが正義の社会で生きている。
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人間はひとりで生きているのではない、とおためごかしをいってもしょうがない。われわれは、誰もが「ひとり」で生きているのだ。ただ、「ひとり」で生きているのに「ひとり」ではこの生を完結できないことに問題がある。みんなと肯きあっていれば、「ひとり」ではなくなってしまうし、それでは元も子もない。
どっちに転んでも、この生を完結させることはできないのだ。
完結できないことが、完結することなのだ。みんなと肯きあって完結させることは、じつは完結していないことなのだ。肯きあって完結してしまえば、肯きあうことのできない異質な他者はぜんぶ排除しなければならなくなる。それは、はたして「完結している」といえるのか。
誰とも肯きあうことのできない者は、自分だけが正しくない、と思うしかない。なぜなら、みんなが生きてゆけることが正しいことだからだ。そのとき彼は、「自分だけが正しくない」と思うことによって、みんなが生きてゆける正しさを受け入れている。彼にとっての正しいことは、「自分だけが正しくない」という認識の上にしか成り立たない。
あなたは、肯きあうことのできない他者を肯定できるか。その身振りと心の動きにおいてしか「みんなが生きてゆくことのできる正しさ」は存在しない。
この社会においてニートやホームレスになることは、「自分だけが正しくない」と思うほかない状況に置かれることであり、それは「みんなが生きてゆけることのできる正しさ」を受け入れる身振りであり心の動きにほかならない。
まあ、そういうかたちでニートやホームレスになりきっている人がどれほどいるのかは知らないが、少なくとも、「われわれは正しく生きている」と肯きあっているうすぎたない大人たちの共同社会よりはましであろうと思えます。
たぶん、多くの若者は、その心の動きのどこかしらに「自分は誰とも肯きあうことができない」という孤立感を抱えている。だからふだんどんなにいらだっていても、知らない他者と出会えば、つい「自分以外のものはみんな正しい」と思う身振りと心の動きで「祝福」してしまう。
「こんな世の中ろくでもない」という感じで唇をゆがめながら煙草のポイ捨てをする若者だって、そのうしろ姿は、おじさんおばさんよりずっと清潔なのだ。彼がもし、大人たちに向かって「街に吸殻が散乱していることより、おめえらの薄汚いうしろ姿のほうがよっぽど目障りなんだよ」とつぶやいているとしたら、僕は否定しない。
「すがた」の美しさは、「こころばえ」の問題です。
うしろ姿がぶざまな正しい大人よりも、うしろ姿が美しいいいかげんな若者のほうが、じつはずっと豊かに他者を祝福する心性をそなえていたりするのだ。