「まれびと」という言葉(概念)についてしつこく考えてみる

前々回、男性器をあらわす「まら」というやまとことばについて考えてみました。
では、「まれびと」の「まれ」は、どういう体感(心の動き)から発語されていたのだろう。
似たような音韻だが、とりあえず「ら」と「れ」の違いはある。
「ま」は、「間」です。
「まら」という言葉は、たぶんセックスのときの女の体感(心の動き)から生まれてきた。それは、女の体の内側にあって、内側の存在ではない。あくまで、外部の異物として知覚されている。しかし、外部の異物でありながら、内部に迎え入れられた存在でもある。それは、女のからだの内部の存在でも外部の存在でもなく、内部と外部の「間」に存在している。
一方「まれびと(客神・客人)」もまた、共同体の外部の異人であると同時に内部に迎え入れられた存在でもあり、同じように内部と外部の「間」に存在している。そういう「希(まれ)」なる存在であって、この場合、神であっても人であってもどちらでもよい。
女にとっての男の「まら」がそうであるように、来訪し祝福する「客」であるというその状態(立場)が「希(まれ)」であるのだ。
けっして「排除」の対象ではないから「まれびと」なのであって、ただ「異人」を総称してそういっているのではない。
したがって、「異人論」の小松和彦氏が取り上げているような、排除の対象となる「妖怪」や村の「ごろつき」は、「まれびと」とはいわない。村人の誰もそれらを「まれびと」とはいっていないのに、小松氏の勝手な知的お遊戯のために「まれびと」の範疇に入れられたら、たまったものではない。
その「異人」が祝福とともに共同体に迎え入れられる対象であるとき、「まれびと」と呼ばれるのだ。
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「まら」の「ら」は、この生の根源的な心地よさや充足感から発声される。「ららら・・・・・・」と鼻歌を歌ったり「らくちん」といったりするときの「ら」です。
では、「まれ」の「れ」は、どういう体感(心の動き)から発声されるのだろうか。
「あれ」「これ」「それ」「だれ」「かれ」「はれ」「うまれ」の「れ」と同じでしょう。これらの「れ」は、位置や方向を探索する体感(心の動き)がこめられている。
「・・・・・・するなかれ」とか「・・・・・・であれ」というときの「れ」は、不安定なことに対する感慨がともなっている。
「はれ」の「は」は、「はるか」の「は」。雲ひとつないはるかな空。「れ」は、そういうはるかな方向を探索している心の動き(感慨)。空っぽの空、何もない空、汚れていない空に対する感慨。だから、清浄のことを「ハレ」というし、「はかない」の「は」になるし、「はて?」と探索する姿勢にもなる。この場合の「れ」と「て」は、ともに「え」行の音韻です。
やまとことばにおける「え」行の音韻には、不安定な感じや探索する心の動きがともなっている。「えっ」という驚きと、「えー」という不安定な心の状態。「けがれ」とは不安定な状態のこと。「せめて」「せつない」「せっぱつまった」というときの不安感。「背」は自分で見ることができなくて人から見られているという不安がやどる場所。「目」や「手」は世界の位置や方向を探索する器官。「ねらう」や「ねだる」や「ねたむ」はいくぶんかの不安とともに位置や方向を探索している。「ねえ」と甘えるときにも不安と探索の気分はあって、だから「ねえちょっと」とたずねたりもする。「へえー」と驚き感心し、「へり」といえば不安定な位置や方向のことで、「へま」というときにも不安定な位置や方向に対する感慨がこめられている。
「え」行の音韻が持つ不安定な気分の例を挙げればきりがない。
「まれびと」の「れ」は、めったにいるわけではない人が探索されている。つまり、共同体の内部にはいないが共同体に迎え入れられている人。
「ら」という発声には、はじき出るような勢いがあるが、「れ」は、しぼんでゆくような声の出方になる。
であれば、「まらふど」の「まら」が「まれ」に音韻として自然変化することは考えられないわけで、それでもそういうふうに変化してきたということは、そのときに両者が共有しているある「概念」が汲み上げられたということを物語っている。
「まら」と「まれ」とのあいだには、音韻として自然変化する連続性はないが、ともに「内部と外部の<間>において祝福されるもの」という「概念」の連続性がある。言い換えれば、それ以外の連続性はないのだから、祝福されざる「妖怪」や「ごろつき」は「まれびと」の範疇には入らないことになる。
ペニスは、祝福とともに女の体の中に迎え入れられたときに、はじめて「まら」になる。同様に、異人は、祝福とともに共同体に迎え入れられたときに、はじめて「まれびと」になる。
「まれびと」は、「異人」の総称ではない。祝福し祝福される「客神・客人」の総称なのだ。「客」として迎え入れられた異人(他者)のことを「まれびと」というのであって、歓迎しない相手まで広げてそういっているのではない。「まれびと」という言葉には、そういう意味もそういう感慨も含まれていない。