「村上春樹にご用心」だってさ・3

内田樹氏の「村上春樹にご用心」は、ごもっともなことがちゃんと書かれてある。たしかに村上春樹の小説は偉大だし、世界に通用する普遍性をそなえているのでしょう。そういうことがよくわかるように書かれてある。
しかし、そういう「ごもっともなこと」しか書けないのは、三流の批評家です。
われわれは、そんなふうにうまく文章にはできないけど、それくらいのことは俺だってわかっている、と言いたい気にもなってしまう。
まあ、そういうことを再確認して内田氏との連帯感を深めたい人はそれでもいいでしょう。
だがわれわれが内田氏の文章を読んで体験したいことは、自分でもわかっているようなことを再確認することでも、内田氏との連帯を深めて「関係に閉じ込められる」ことでもない。内田樹なる人との「出会い」があるかどうかです。
いや、出会っているのだろうけど、「お掃除することは、人類に対する犠牲的精神に溢れたセンチネル(歩哨)のような仕事である」なんていわれても、何のこっちゃ、と思うばかりです。
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それにたいして最近、別の批評家による「村上春樹の小説に隠されたもうひとつの物語を読み解く」というコンセプトで書かれた本が出回っているらしい。
しかし、そんな物語が知りたいほどの知識欲は僕にはないから、あまり読みたいとは思わない。
その著者によれば、小説を読むことの醍醐味は、そういう「謎解き」をすることにあるのだとか。そりゃあ頭のいい人は、そういうこともできるのでしょうね。でも、われわれのように頭の悪い人間には、とてもじゃないができそうもない。
とすればわれわれは、村上春樹の小説を読む資格も能力もない、ということでしょうか。
まったく、ばかにしていやがる。
こういうことをあれこれ詮索して知的なお遊びをしたがるのは、だいたい二流の批評家の仕事です。たぶん一流の批評家であったスーザン・ソンタグが、そう言っている。
そんな隠された意味や物語を知って、どうなるというのか。
小説家は、そういういちばん書きたかった物語を隠す。隠すことによって、それは「神話」になる、というわけです。そうでしょうか。もしかしたら村上春樹じしんは、そんなことは何も意識していなかったのかもしれない。意識していなかったから、書かなかった。そういうことを意識してしまうのは、スケベ根性の旺盛な二流の批評家のほうかもしれない。
村上春樹は、たとえば「パンにママレードを塗る」とか「自分の部屋でビートルズの『ラバーソウル』を聴く」とか、そういう行為そのものを書きたかっただけかもしれない。その行為から「もうひとつの物語」が生まれてくるのは、村上春樹の小説家としての才能でしょう。才能のある小説家は、意識しないでもそういうもうひとつの物語が生まれてくるような言葉の表現ができる。
言葉に憑依する能力、とでもいうのでしょうか。言葉が勝手に動き出し、何かを語ってしまう。彼らは、そういう魔術を持っている。
僕はここで「批評とは何か」ということを議論するつもりはない。そういう意欲も能力もない。われわれのような頭の悪い人間にとっての幸福な読書体験とは、やくざな興信所の調査員よろしく作家の不倫相手(秘密)を探し出すことではなく、そこに書かれた言葉そのものに「めまい」をすることだ、と思っている。
言葉と出会った瞬間に生起するものがある、そういう「事件」を体験することであって、そのあとの犯人探しや裁判のことなんか興味がない。
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「1973年のピンボール」という小説は、ふとしたきっかけで双子の姉妹と不思議な同棲生活をはじめ、そのの姉妹がある日突然去ってゆく、というかたちで終わっている。
その双子がバスに乗って去ってゆくのを見送ったあと、主人公は、自分の部屋でビートルズの「ラバーソウル」を聞く。
こういうなんでもない物語の裏に、明るく透明な虚無感を持ったもうひとつの物語が隠されている、とその批評家は教えてくれるのだそうです。
しかしねえ、村上春樹は、ピンボールに耽ることや、バスで去ってゆく双子を見送る光景や、「ラバーソウル」を聞く行為そのものに、「透明な虚無感」をこめていたのかもしれない。本人は、他意はまったくないのに、言葉そのものが勝手に「もうひとつの物語」を紡ぎ出してしまう。
われわれの日常生活においても、勝手に「もうひとつの物語」が紡ぎだされて、よけいな誤解をされたり、買いかぶられてしまったりすることはあるじゃないですか。
才能のある小説家とは、そういう買いかぶられるような言葉の紡ぎかたを、いくらでも無意識のうちにできるような人のことです。
すくなくとも初期のころの村上春樹の小説には、「物語」なんかどうでもいいんだという気配があった。そういうこの世の共同体的な物語を解体しようとして、どこかの世界の「羊男」の話(物語)になったりする。パンにママレードを塗る行為そのものが、この世ならぬ不思議でいとおしいような物語性を帯びたりする。
すくなくとも僕は、そういう気配に引きずられて読みふけってしまうだけです。その裏にどんな物語が隠されていようと知ったこっちゃないし、読み解く能力なんかからっきしない。また、それを教えられたからといって、村上春樹の小説の魅力が増すとも思えない。できれば、知らないでいたほうがいい。知ってしまったら、不思議でもなんでもなくなる。
そういうことを知って、あらためて村上春樹の小説の「透明な虚無感」を実感したといっている人は、その「透明な虚無感」という言葉によって「透明な虚無感」を実感しているだけではないのか。その批評文を読めば「透明な虚無感」を実感できるというのか。頭のいい人の頭というのは、そういうふうに「透明な虚無感」という言葉で「透明な虚無感」を実感するようにできているのか。僕にとってその体験は、小説の中の「パンにママレードを塗る」「ラバーソウルを聞く」という場面そのものを読んでいるときにしかない。「もうひとつの物語」を読み解かなければ「透明な虚無感」を実感できないのか。読み解くことのできないおめえらには「透明な虚無感」はわからない、といいたいのか。何様でいやがる。
それは、「透明な虚無感」を体験したのではなく、「透明な虚無感」を知っただけじゃないのか。
一流の批評文には「透明な虚無感」が書かれてあることを解説するだけではなく、読者としてそれを体験したことののっぴきならない「感想」が書かれてある。小林秀雄の「モーツアルト」や「ゴッホの手紙」を読んでみればいい。多少いやみなところがないでもないが、すくなくとも、謎を解いただけで満足するような「知識信仰」はない。その「体験」によって知識が解体されてゆく過程が、ひとつの感動として狂おしく告白されている。
「透明な虚無感」が書かれてあることを知って「透明な虚無感」を体験するなんて、そんなことは「透明な虚無感」そのものでなく、そういう「言葉」を体験しているだけではないのか。
村上春樹の小説の「透明な虚無感」は、「パンにママレードを塗る」という行為それじたいにある、「羊男」が「羊男」であることそれじたいにある、と僕は思っている。
数十年前にスーザン・ソンタグが「そんなくだらないことはもうやめようよ」と言った知識信仰、すなわち制度的批評が、またぞろゾンビのように復活してきているらしい。
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内田樹氏の「村上春樹にご用心」では、村上春樹の朝食に対するこだわりが語られています。そこで描かれているもっとも質素な朝食からもっとも豪華な朝食までのいくつかを挙げ、朝を迎えた男女の親密さがさりげなく描かれているという。
たしかに村上春樹は、朝食にこだわる。それは、ごもっともです。
しかし、そこで描かれているのが「親密さ」かどうかはわからない。
たとえば、前の晩セックスしたのなら、部屋の住人である男はもう「おまえが朝食つくってくれよ」と頼んでもいいし、女だって、女房気取りで「私がつくるわ」と言ってもいいはずです。
ところが、村上春樹の小説の男たちは、よほどのことがないかぎりそんなことはしない。朝食をつくるのが好きだからか。いや、そんな書き方はしていない。いやいやでもないが、進んでそうしているふうでもない。
そして朝食のテーブルについた男と女は、親密というより、どこかよそよそしく恥ずかしげでもある。
なんというか、ともに、妙にひっそりとした「関係」に対する無力さを漂わせている。そしてその「無力さ」ゆえに、そこにこの世ならぬ不思議な空間の気配が浮かび上がってくる。この世にそんな男も女もいないような気がするが、でもどこか別の世界にはいるかもしれない。そしてそんな世界がじっさいにありそうに思えてくる不思議。
嘘をうまくかけなければ小説にはならない。村上春樹が「ママレード」と言ったとたん、それは「嘘(フィクション)」になり、しかしどこか別の世界にありそうな真実味を帯びてくる。「非日常の世界に存在する日常」、とでもいうのでしょうか。
村上春樹の小説の男と女は、けっして「ステディ」な関係にならない。
たとえ前の晩にセックスをしても、部屋の住人である男が朝食をつくる。
それはまるで、たとえ前の晩にセックスしても朝になればあらためて客として迎える礼はつくさねばならない、と思っているかのような態度です。
彼はそこで、いったん関係を解体し、あらためて出会いの場に立とうとしている。つまりそこで、「世界の終わり」と「世界の始まり」が同時に体験されている。
村上春樹の小説で朝食をとる男と女は、なんだか創世記のアダムとイブのようだ。
彼らは「関係」に対して信じられないくらい無力で、それが、村上春樹の小説から僕が感じる「透明な虚無感」です。
村上春樹に「ママレード」なんて言われると、僕は涙がこぼれそうになる。