卑猥な話題になることをご容赦ください。
「まれびと」という言葉は、折口信夫によって提出された民俗学のキーワードです。
彼は、古代の文献に現れた「客神(まらふど)」という記述に、古代人の心性を見出した。
「まらふど」が変化して「まれびと」になった。
「まらふど=まれびと」は、最初は祭りのときに「来訪する神」の呼称だったったが、やがて奈良時代の、山から下りてきて門付けしてまわった「ほかいびと」などの「来訪する人」をも指すようになっていった、といわれています。
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しかし、起源における「まらふど」という言葉は、ほんとうに神のことだったのだろうか。
古代の日本人は、遠くの異なる世界から訪れてくるものを「神」だと思っていたのだろうか。たしかに「アマテラス」の太陽は、そういう対象です。だが「やおよろずの神」の伝統を持つこの国では、ほんらい、極端に言えば世界の森羅万象すべてが「神」であったはずです。
最初は、海の向こうからやってくる神のことをそう呼んでいたというのだが、少なくとも縄文時代には、太陽や雲以外に海の向こうからやって来るものはいなかった。太陽や雲は空の上からやってくるだけで、「まらふど神」は、海を渡ってやって来るのです。海の向こうに神のすむ「常世(とこよ)」の国がある、という信仰。それは、海の向こうからときおり人がやってくる時代になってから生まれてきたものでしょう。
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おそらく縄文人は、海の向こうに「くに(=大地)」があるとは思っていなかった。「何もない」と思っていた。それに縄文時代は、海辺の平地は、ほとんどが湿地帯で、人が住めるようなところではなかった。もちろん海辺で暮らす人々もいたが、縄文人のほとんどは、内陸部の山間地で暮らしていたのであり、彼らは山で暮らし、山の文化をはぐくんでいた。
縄文時代の男たちは、狩などをして山野をさすらいながら、山あいのあちこちに点在する女と子供だけの集落を訪ね歩いて暮らしていた。彼らはほんとによく歩き回っていたらしく、足の骨が変形してしまっている遺骨が出土することも少なからずあるのだとか。
三内丸山遺跡の例外はあるにせよ、縄文時代の集落のほとんどは、家が10棟前後の小さなものばかりです。男も一緒に暮らしている10棟前後の定住集落なんて、ありえない話です。男も一緒に暮らしていれば、集落は必ず大きくなってゆく。
女には、大きな集落をつくる能力がない。それは、男女の生理の違いからくるのだろうと思えます。女の身体生理は、どうしても蚕が繭を紡ぐように内向していってしまう。そうでなければ、子供なんか育てられない。
広がってゆく男と閉じてゆく女の生理、そういう自然にしたがって縄文時代の社会の形態が成り立っていた。男と女が一緒に暮らして家族をつくるということが、歴史のはじめから行われていたわけではない。
日本列島における「山から来訪する人」の習俗は、奈良時代の「ほかいびと」の登場によってではなく、すでに縄文時代からはじまっていた。
はじめに「来訪する人」の習俗があったのではないか。はじめに、「来訪する人」を手あつくもてなす習俗があり、そこから「来訪する神」のイメージが生まれていったのではないか。そう考えたほうが自然であるような気がします。「来訪する人」からみやげ物や出会いのときめきなど、さまざまな喜びを与えられる体験が積み重なっていったその結果として、「来訪する神」のイメージが生まれてきたのではないだろうか。
縄文時代、山野をさすらう男たちは、来訪する「まれびと」だった。
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縄文時代にどんな言葉が使われていたかということは、文字がなかったから、追跡のしようがありません。ただ、訓読みのやまとことばの原型のような言葉が使われていたのだろう、と言われています。
であれば、もしかしたら「まらふど」という言葉もすでにあったのかもしれない。
「まれびと」ではない。希(まれ)なる人、というような、そんな概念的な言葉ではなかったはずです。
「やまと(大和)」とは、「やまびと」のことだったらしい。
古代人は、「ひと」のことを、ただ「と(ど)」といい、その上に「山」とか「海」といった具体的な何かをかぶせていた。「海人」は、「あま」と読むが、もともとは「あまんと(ど)」でしょう。
とうぜん「まらふど」の「ど」も人のことだろうと想像できます。折口信夫が見出した「客神(まらふど)」は、「神」ではなく、「人」のことだったのだ、たぶん。
では「まらふ」とは、どういう意味か。
「訪れる」とか「希(まれ)」というような意味ではないように思います。たしかにその言葉は「来訪するもの」を指すようになっていったが、最初は、もっと具体的なものの名称だったのではないか。
たとえば、「まほろば」とは、「理想郷」というような意味で使われるようになったが、最初はそんな概念的な言葉ではなく、遠く見晴るかす場(広々とした土地)、というような意味だったのだとか。
まほろ」と「まらふ」は、語感的に似てなくもない。
「ま」は、「目」であり、「間」でもある。古代人にとって、この視界の果ては、この世とあの世の「間(境界)」だった。もちろんあの世には「何もない」と認識していたから、その「間」こそ、古代人の観念におけるもっともはるかに遠いところだった。
「やま」の「や」という声は、「やあやあ」とか「ヤッホー」とか「やれやれ」とか「やっと」とか、とにかく遠いものに対する感慨から発せられる。それに「ま(間)」を加えれば、古代人にとっての山の端は、さしあたりもっとも遠いこの世とあの世の「間=境界」だった。
「島(しま)」とは、海の「間」に浮かんでいて動かない(しいんとしている、という感じの)もの。
また、「ま」という発声には、「まあまあ」とか「まどう」とか「まさか」とか、「間」に立ち止まってしまうような感概がこもっている。だから、「魔」ともいう。
「む」といえば、体に力が入るが、「ま」と発声するとき、力が入るでもなく抜けるでもなく、その中間の状態の感じがある。そういう「間」であり、「魔」である。
そして、「まっすぐ」とか「真ん中」とか「まっとう」というときの「ま」には、息を吐くことと吸うことの「間」である息を止めているときの緊張感がある。あるいは、そのときの「ま」という発声が、ひとつの昂揚感として止揚されている。
日本的なこの生の充足は、「ま=間」にある。力が入ることでも、リラックスすることでもない。つまり、敵を倒して勝利することでも、幸せに浸ることでもない。それらの「ま=間」にある、たとえば嘆くこと、たとえば祝福すること、そこにこの生のたしかさがある。
「まれびと」とは、共同体に疎外されてあることを嘆きつつ、共同体に住む人々を祝福しにやってくる存在のことです。
縄文時代の男たちは、集落の外の山野をさまよい嘆きつつ、集落で暮らす女たちを祝福しにやってくる存在だった。
嘆くことは、その不幸を肯定も否定もしないでそのまま受け入れる態度です。そして祝福することは、関係することとしないことの「間」である「出会い」の場に立っている態度です。嘆くことも祝福することも、ひとつの昂揚感です。
やまとことばにおける「ま」という発声には、この生における昂揚感がこめられている。
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「魔=妖怪」とは、人間を含めた生きものと神との「間」に存在するものです。つまり、神でも人間でもない存在だということです。
「異人論」の著者である小松和彦氏は「妖怪という異人もまれびとの一部である」と言っているが、そうじゃない。妖怪は、異人という「人」ではないのだ。つまり「まれびと」とは、「妖怪ではない人」のことを言うのだ。
この世とあの世の「間=境界」からやってくる人や神のこと「まれびと」といい、人でも神でもない「間」の存在を「妖怪」というのだ。
山は、この世とあの世の「間=境界」である。だから、山からやってくる「ほかいびと」は「まれびと」なのだ。
祝福する人や神のことを「まれびと」というのであって、それとは反対のことをする妖怪は、「まれびと」ではないし、「人」でも「神」でもない。
「山姥」は、山にいるときは恐ろしい妖怪であるが、里に下りて来るときは、「山姥が市で使ったお金は福を呼ぶ」というふうに、ひとつの「まれびと」になる。
また小松氏は、村の「ごろつき」も「まれびと=異人」の範疇に入れるべきだといっているのだが、それだって村に巣食っている存在であって、基本的には来訪する「まれびと=異人」ではないし、祝福する心性も持っていない。
古代の人びとの異人を祝福する心性を象徴する「まれびと」という言葉(概念)にみそもくそも詰め込まれたら、折口信夫だってたまったものじゃない。
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「ら」は、「原(はら)」の「ら」。「は」は、はかないとか空虚なという感じです。「原」は、村はずれの空虚な土地のことです。それにたいして「村」は、「む」という力のこもった音韻をかぶせているのだから、大切な土地、ということになる。
では、「ら」とは土地のことかといえば、そうじゃない。「ら」と発声するときの体感がある。
「ら」という音韻には、この生の根本を表現しているような響きがある。われわれがもっともリラックスしているとき、「ラララ・・・・・・」と鼻歌が出てくる。根源、というべきでしょうか。「らくちん」の「ら」。「ら」と発声することは、どこかしらで根源的な心地よさとつながっているのかもしれない。たとえばそれは、腹いっぱい飯を食って満足している状態のこと。そして「腹(はら)」の「ら」にそういう感慨があるとすれば、そこに空虚を意味する「は」をかぶせているのだから、「腹」とは、空腹の状態のことを表現しているのだろうか。「腹」の中が、「原」のような状態になっていること。「腹」という言葉を使う状況というのは、原始人にとっては、空腹のときがいちばん多いはずです。だから、「腹」という言葉そのものが、すでに空腹を意味していたのではないだろうか。
とにかく「ら」とは根源的な心地よさのことであり、「むら」といえば、「おらがくにさがいちばん」という気分の表現になる。つまり、古代人にとっての土地は、生活の根源であった。
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ずいぶんまわりくどい書き方をしてきましたが、「まらふど」という言葉は「まら=ふど」と分節できるのではないか、ということです。
男性器を意味する「まら」という言葉がいつごろ生まれたのかよく知らないのだけれど、もし縄文時代から使われていたとすれば、それはまさしくそういう意味ではないかと思えます。そして「まらふど」の「ふど」は、「太い」とか「太い人」という意味ではないでしょうか。
「まらふと」あるいは「まらふとびと」。
縄文時代の集落は、女子供だけの集落だった。そこには、勃起した太いペニスを持っている人間はいなかった。したがって集落の女にとって、来訪する男たちは、まさしく「まらふとびと=まらふど(まろうど)」として印象づけられることになる。彼女らは、特定の男を待っていたのではない。来訪する男を待つとは、太いペニスを待つことと同義だった。
女たちにとって「まら」の「ま」は、体の内と外の「間」であると同時に、昂揚感とともに不思議な世界へといざなう「魔」でもある。そしてそれを迎え入れたとき、体に力が入るのでも抜けてゆくのでもない状態のまま、遠い世界に連れ去られてゆく。
そうして「ら」は、根源的な心地よい生の状態。
「まら」とは、勃起したペニスを迎え入れているときの女の身体感覚を表現する言葉ではないだろうか。
身体は、力が入っているときも、抜けているときも、ともに重たい。両者の「間」の状態にあるとき、身体は空っぽの「空間=輪郭」になる。昂揚感とは、身体が空っぽの「空間=輪郭」になってゆくことです。
縄文の女にとって、集落を訪れる男たちはそういう昂揚感をもたらしてくれる対象だったのであり、「まら(ふ)」という言葉にペニスという意味がなかったとしても、それはまさしくそういう昂揚感を表現する言葉であったはずです。
彼女らは、「まらふとびと=まらふど」の来訪を待ち焦がれて暮らしていたし、来れば、神のように手あつくもてなした。
男たちは、狩の獲物である山の幸や、遠い国で取れるきらきら光る玉(ヒスイ)などとともに、性のよろこびも運んできた。
すなわち「まれびと」を迎える古代の心性は、神への信仰としてではなく、縄文時代のおおらかな性の習俗から始まったのではないだろうか。
男たちを迎えたときの集落の広場は、きっとたちまち祝祭の空間として華やいでいったことでしょう。そこから、神への信仰としての祭りの習俗に昇華していったのではないだろうか。
山から下りてきた「ほかいびと」の歌を村人が祝福して迎えると習俗にしても、とつぜん奈良時代にはじまったのではなく、そういう伝統がすでに縄文時代からずっと続いてきていたからではないだろうか。集落を訪れた男たちは、広場で土産の品を並べながら、まず寿(ことほ)ぎの歌を歌ったでしょう。そして女たちも、歌で返した。「歌垣」は、すでに縄文時代から始まっていたともいわれている。その習俗の伝統から、奈良時代の「ほかいびと」が生まれてきたのだ。
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「まれびと」は、神のイメージとして始まったのではなく、最初から「人=来訪する異人」だったのではないだろうか。日本列島における「来訪する異人」を祝福する伝統は、1万年前からすでに始まっている。とくに縄文時代の8千年のあいだ、そうやって男と女はたがいに祝福しつづけたのではないだろうか。その伝統から「客神(まらふど)」のイメージが生まれてきた。
「まらふど=まらぶと」なんて、下品でふざけた言葉遊びにすぎないのかもしれないが、僕としては「まれびと」という言葉の起源における身体感覚を追跡してみたかったわけで、それはたしかに民俗学にとって重要なキーワードであるにちがいないと思えます。
まあ、無難のところでまとめてしまうこともできないわけではなかったのだろうけれど、縄文人の「来訪する異人」を祝福する心性やその身体感覚を追跡しようとしているうちに、いつの間にか「まら」という言葉から離れられなくなってしまっていた。
もともと品性が下劣だからでしょうかね。
しかし女どうしの性的な話も、けっこうリアルで生々しいらしいということも聞くし、縄文人ならもっとおおらかに性と関わっていたにちがいない。
ようするに「まれびと」とは、民俗社会における「来訪する異人」を祝福する心性から生まれてきた言葉でしょう。
それにたいして小松和彦氏は、「民俗社会における異人に対する悪意」をさかんに強調している。その分析がいかに粗雑で傲慢かということは、これまでこのページで何度も書いてきたことです。
他者にたいする「悪意」は、関係に閉じ込められたところから生まれてくる。「来訪する異人」との出会いの場においてではない。「悪意」は関係の中から生まれてくるのであって、関係が生まれる以前の出会いの場から生まれてくることは、論理的にありえないのです。出会いの場においては、相手のことは知らないのだから、「悪意」なんか生まれようがないじゃないですか。
妖怪は、共同体の人びととの関係において存在している。人々は妖怪と出会うのではなく、すでに妖怪との関係につながれてある。妖怪(おばけ)との関係につながれてある者が、妖怪(おばけ)と出会うのだ。すなわちそれは「既視現象」であって、正確な意味での出会いの体験ではない。
共同体の人々は、すでに生まれてしまった妖怪との「関係」を恐れている。そして、祝福しにやってくる「異人=まれびと」を待ち焦がれている。
共同体の中の者たちが、ある他者に悪意を抱いて共同体の外に追放してしまえば、やがて追放した者から悪意を受けているという「関係意識=強迫観念」が強くなってくる。そこから、妖怪のイメージが生まれてくる。「悪霊つき」など、すべてそういう話で、「異人との出会い」の体験ではない。「悪意」は、関係に閉じ込められた共同体の中にあるのであって、関係と非関係の「間」である「異人=まれびと」との出会いの場においてではない。
つねに出会いと別れを繰り返していた縄文人は、そういう「悪意」の生まれにくい、そして祝福する機会の豊かな社会をつくろうとしていたのです。
むかし、作家の埴生雄高氏が、「あなたにとって理想の女性は?」というアンケートに対し、「知らない町の酒場のマダム」と答えていました。
これこそまさに、「まれびと」の心性であり、縄文人がつくっていた男と女の関係そのもののかたちであろうと思えます。