「まれびと」信仰の起源

僕が「まれびと」という言葉にこだわるからといって、われわれは古代に帰るべきだと主張したいわけではありません。
すでにわれわれの身振りや心の動きに「まれびと」信仰の痕跡は印されているはずであり、ことに現代の若者にそれを感じるからです。
また、その一方で大人たちの身振りや心の動きには、その痕跡が消えてしまっているとも感じることがしきりだからでもあります。
現代社会には、何かそういう逆転したジェネレーション・ギャップが存在しているように思えます。
戦後の日本社会は、みずからの伝統を屠り去ることによって高度経済成長を達成してきた。バブル景気が終焉した今、その反動として、若者たちの身振りや心の動きに伝統が沁み出してきている。
現代のこの社会においては、お金を稼ぐのと同じくらい他者との関係をどうやりくりしてゆくかという問題が存在している。「いじめ」や「鬱病」や「認知症」などは、つまるところそういう問題であるのだろうと思えます。
地球の環境がどうのといっている場合ではないのかもしれない。人びとは、わずらわしい他者との関係から目をそらすために、そうやって騒いでいるのかもしれない。
あるいは、バブルが復活すればそうした問題も一挙に解決するかのように思いたがっている。
「他者論」という問題は、たしかに存在する。そして「まれびと」という概念は、そこに接近するための普遍的なパラダイムになりうるのではないか、と僕は思っています。
西洋思想と手を携えている人たちからすれば、とんだお笑いぐさかもしれないのだが。
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まず、日本列島の歴史を確認しておきたいと思います。
たぶん、「まれびと」の心性=文化は、一般的に考えられているよりももっと以前から存在していた。それは、折口信夫がいうように、「神」を迎える祭りとして始まったのではない。まず縄文時代に来訪する人を祝福し迎え入れる習俗が根づいていった結果として、常世(とこよ)の国からの神の来訪を迎えるという祭りの習俗が生まれてきたのだ、と僕は考えています。
とりあえず、日本列島の歴史の始まりを、氷河期が明けた1万2千年前と考えてみます。
縄文時代の始まりです。
もちろんそれ以前から日本列島に人間はいたが、大陸とつながっていた氷河期と、切り離されたそれ以後では、人々の暮らしも文化も大きく変わったはずです。おそらく、現在の日本文化は、そこから始まっている。
日本列島が海に囲まれた島国であるということ、しかもイギリスなどと違って大陸との交流が絶望的な孤島になってしまったこと。このことは、根源的です。なぜならそれは、直立二足歩行が生まれた原初の森の暮らしを追体験することでもあるからです。
数百万年前のアフリカの、ある孤立した森でしだいに個体数が増え、個体どうしの接近しすぎる関係が切羽詰っていったあげくに、気がついたら誰もが立ち上がっていた。人類の直立二足歩行は、そうやって生まれてきたのだろうと思います。二本の足で立ち上がれば、個体どうしのあいだの空間に余裕が生まれる。そのとき彼らの群れは、そうしないとヒステリーが起きてしまうくらいひしめきあってしまっていた。そして立ち上がった者から順に、ヒステリーになることから解放されていった。
外敵から身を守るために手に棒を持って立ち上がった、などという説もあるが、胸・腹・性器等の急所を外に晒してふらふら立ち上がっていったら、手に棒を持っていようとよけいに攻撃されやすくなってしまうのです。直立二足歩行ほど無防備な姿勢もないのです。それでも立ち上がったのは、外敵など存在せず、あくまで仲間どうしの関係の鬱陶しさがもっとも大きな問題になっていたからでしょう。
そしてそれはとても無防備な姿勢なのだから、一人だけでそんなことをすることはできない。みんな一緒にというか、短い期間につぎつぎと立ち上がっていったのでしょう。
直立二足歩行とはそういう集団性をもたらす姿勢であり、日本人がみんな一緒に行動する傾向がつよいのは、直立二足歩行が生まれた原初の森と同じように、海に閉じ込められて外敵のいない孤立した状況を歴史として歩んできたからだろうと思えます。
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そうやって人類の起源をなぞるようにして、氷河期明けの日本列島の歴史が始まった。そういう意味で、そこから始まった日本文化は、氷河期が明けて人の往来が活発になっていった大陸とは対照的な状況を持っているのであり、より根源的だともいえるはずです。
氷河期が明けて地球は人類が移動しやすい気候環境になったのに、日本列島だけは逆に移動できない状況になってしまった。
そういう状況から、日本独自のともいえる「まれびと」の文化が生まれてきた。
日本列島の住民は、閉じ込められた状況で暮らしながら、遠いところからの他者の来訪を待ち焦がれる心性=文化を紡ぎつづけてきた。つまり閉じ込められた状況で暮らしていたからこそ、来訪する「客=まれびと」を祝福するという関係をとても大切にして育ててきた、ということです。閉じ込められた状況で暮らしていることの不安や鬱陶しさは、必然的に来訪する「客=まれびと」を祝福する心性を生む。日本列島の歴史は、そういう感動が生まれてくる状況として始まっている。
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氷河期明けの縄文人がどういう行動をしていたかと考えるさいに、ほとんどの人類学者は、食の生態のことだけを問題にしようとします。直立二足歩行の起源だってそうです。しかしその直立二足歩行じたいが、食の問題ではなく、他者との関係として生まれてきたにちがいないのです。人類は、直立二足歩行をはじめたことによって、食の問題だけではすまない存在になったのです。
人間は、いざとなったらなんでも食ってしまう生きものです。木の根をかじることもするし、同じ人間の肉だって食ってしまう。それは、食の問題がいちばんだからではなく、食の問題など二の次でなんでもいいからです。
食うことよりも、とにかく生きようとする。食うことが解決された状況を生きようとする。人間の「業」というのでしょうか。おそらく直立二足歩行は、食うことも外敵の問題もすでに解決されている状況から生まれてきたのです。そういう奇跡的な偶然の、地球の歴史でたった一回だけ起こった事件なのです。もしかしたら、宇宙でたった一回だけのことかもしれない。そういうことを、人類学者なぜ考えようとしないのか。なぜ驚かないのか。
「手に棒を持つため」とか「遠くを見るため」とか「食い物を手にもって運ぶため」とか、そんな猿でもしているようなことをいくつ挙げても、答えにはならないのです。
縄文人だって、なんでも食っていた。それは、考古学的にすでにわかっていることです。彼らはそれほどに餓えていた、というのではない。縄文時代に餓死した人などほとんどいないのです。彼らの行動を決定づけていただいいちのことは、食うことではなかった。食うことは二の次だった。だからなんでも食った。
たとえば、サンドイッチは、トランプをしながら食えるものとして考え出されたらしい。トランプを続けるためなら、食うものなんかなんでもよかったからです。縄文人だってたぶん、食うものなんかなんでもいいことにしてしまえるような社会の形態を持っていたのです。彼らはすでに稲作農耕を知っていたのに、米を主食とするような暮らしをしなかった。ほとんどの縄文人は、山の中腹や頂きにへばりつくようにして暮らしていたのです。
彼らは、山での暮らしに執着し、山の暮らしの文化を持っていた。食うことよりも、まず「山で暮らす」ということがだいいちだった。平地に移って米をたらふく食う暮らしをしようと思えばできたのに、しなかった。そして、ろくなものしか食っていないくせに、「漆」で食器を飾るという文化を持っていた。つまり、食い物なんかなんでもよかったが、他者と食卓につくという行為は大切にしていた。
けっきょく人間の行動を決定するだいいちのことは、他者との関係であって、食うことではない、ということです。
彼らが漆の技術を獲得していったということは、そのときすでに「客」を歓待するという「まれびと」の文化が芽生えていたことを意味するのではないかと思えます。