団塊世代が犯したエラー・3

三丁目の夕日」という愚劣な映画のことを持ち出すのもなにやら腹立たしいのだけれど、とにかく団塊世代の親たちは、史上もっともしみじみと心暖まる家庭を築いた人たちだったのです。
戦争によって青春と家族を奪われた男と女たちが、待ちわびて待ちわびてやっと手に入れた男女の出会いと家族だったのです。しみじみと心暖まる家庭にならないはずがない。
それでどうして、こんなグロテスクな大人たちが育ってきたのか。そこが問題です。しみじみと心暖まる家庭から美しい人間が育つなんて、幻想です。しみじみと心暖まる家庭だからこそ、団塊世代のようなグロテスクな人間が育つのです。
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団塊ひとりぼっち」の著者は、こう言います。
団塊世代に生命力(バイタリティ)の強い人が多いのは、彼らの親がすでに戦争で淘汰されて生き残った者たちであり、その遺伝子を引き継いでいるからだ、と。
このことを、団塊世代じしんが言っているのですからね。よくこんないやらしいことが言えるものだ。同じ団塊世代として、恥ずかしいです。こんないやらしいことを恥ずかしがりもせずのうのうと言える人間なら、そりゃあ少々のことにもへこたれないでしょう。
団塊世代が、この著者のように偉そげでグロテスクなのは、遺伝子の問題ではなく、育っていった人生の軌跡の問題です。団塊世代の親たちは、団塊世代よりもはるかにつつしみぶかい人たちだった。彼らは、とても家族を大切にしたが、つねにそのことにいくぶんかのはにかみがあった。彼らは、家族こそ正義だという思想によって家族を大切にしたのではない。家族をいとなむことのできる日を、切に待ち望んで生きてきたからだ。彼らは、家族をむやみに大切にすることは控えるべきだという戦時下の思想に染められながら、それでも、切に家族をいとなむことのできる日を待ち望んで生きてきたのです。
しかし、団塊世代の「ニューファミリー」は、はじめから家族こそ正義だという主張があった。そりゃあ、あんなしみじみとした家庭で育てばそういう気にもなるのだろうが、彼らのなかには、親たちの、家族を待ちわびた切実な思いは引き継がれていない。
団塊世代の親たちが、かつての日本文化にはなかった「核家族」を試行錯誤しながらいとなんでいったとすれば、団塊世代は、確信犯的に「ニューファミリー」をつくりあげていった。親の遺伝子なんか、何も引き継いでいないのです。育ってきた人生の結果として、バイタリティのあるグロテスクな人間になり、「ニューファミリー」をつくりあげていっただけです。
戦争で生き残るか否かは、運命の問題であって、バイタリティなんか関係ないのです。バイタリティなど関係なく、殺したり殺されたりしてしまうのが、戦争というものです。むしろ、バイタリティがある人間ほど先に死んでいったりするのが、戦争というものでしょう。
じっさい、徴兵検査に合格できなかった虚弱な人たちがけっきょく生き延びて、団塊世代の親になっている例はいくらでもあるのです。
短絡的な思考しかできないやつらほど、すぐ遺伝子を持ち出す。こんな安っぽいことを考えたがるのは、アメリカ人と団塊世代がいちばんです。アメリカでも、同じようなことが言われているらしい。
戦争は、家族をバラバラにしてしまう。だから戦後は、その反動として家族のまとまりが強くなる。そういう環境で育った人間は、自分もいい家族をつくろうとして、一生懸命働く。それだけのことです。戦争で生き残るということとは、なんの関係もない。
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しみじみと心暖まる家族の中で育つことがしあわせなことであるのかどうかは、わからない。それは、生きものの基本的な生きるいとなみである、「嘆く」という行為や精神を喪失して生きることです。息苦しいとか、痛いとか、寒いとか、空腹だとか、そういう嘆きです。
そうして彼らは、嘆かないことが充実した生きるいとなみであると思っている。嘆かないでもすむようにすることが生きることだと思っている。息苦しくなるまえに息をすればいいし、腹が減るまえに飯を食えばいい。寒くなるまえに暖房装置のスイッチを入れる。
快適さを保つことが、生きることだ、と彼らは思っている。それは、たしかに近代合理主義の理念と一致します。だから団塊世代は、近代社会の優秀なメンバーになれた。
息苦しさも、空腹も、暑さ寒さも、彼らは知らない。
団塊世代は議論をしても人の言うことを聞かない、とよく言われます。そりゃあ、そうでしょう。人のいうことを聞いていたら、傷ついたり反省したりして、嘆かなければならない。彼らは、嘆きたくないから人のいうことを聞かないのではない、嘆くことを知らないからです。嘆かないでもすむような生き方が、習性として骨身にしみている。
傷ついたり反省したりすることのできる人間が、人の言うことを聞くのです。
われわれの子供時代や青春はいい時代だった、しみじみと心暖まるいい家族だった、と自慢することは、自分は嘆くことを知らないグロテスクな人間である、と白状しているのと同じなのです。
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何もない状況からはじまって、少しずつプラスされていった。古いものが後退してゆき、そのつど新しいものがあらわれてきた・・・・・・これが、戦後の、団塊世代が成長してゆく過程だった。だから彼らは、快適さをもとめるだけで、嘆くことを知らない。快適であること、すなわち自分や自分を取り巻く状況がうまい具合に存在しているのを確認することだけをして生きてきた。
彼らの生は、戦後の何もなく何もかも壊れてしまっている状況からはじまっているがゆえに、嘆くという体験が希薄だった。
100万円の給料の人が10万円になってしまったら大いに嘆くだろうが、無収入のひとに10万円が与えられたら、そりゃあうれしいにちがいない。そんなようなことです。しみじみとして心暖まる家族に抱かれながら、そういう満足とともに、彼らは成長していったのです。だから、嘆くことを知らないグロテスクな人間になっちまった。