人類の定住と共同作業の関係

人類の歴史は「共同作業」とともにあり、そのレベルが、サルとの大きな違いのひとつだろうと思えます。
肉食もするチンパンジーは、捕まえた小動物の肉をほかの仲間にも分配することもあるが、それはみずからの意思というよりも、しょうがなくとか、ぶん取られるとか、そんなようなかたちです。また、みんなでよその群れの一個体を襲ってなぶり殺しにしてしまう、ということをするらしいが、みんなで大きな石を押して動かすというような光景は見たことも聞いたこともない。
ライオンも、数頭で相手を挟み撃ちにしながら狩をすることがある。いや、ハイエナの狩は、もっと巧妙で典型的な共同作業であり、共同作業をするから、あんなにも執念深げな連中でも、仲間どうし殺しあうということはしないのかもしれない。
オスとメスが交配するということじたい、ひとつの共同作業であるともいえる。
動物であれ、人間であれ、共同作業が群れを結束させる。
ただ人間の場合は、圧倒的に熱心にその行為をおこなう。
年中発情しているというのも、一種の共同作業の衝動かもしれない。
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直立二足歩行だって、共同作業です。
ひとりだけ立っていても、ばかばかしいだけです。不安定で、胸・腹・性器などの急所を晒してすきだらけだし、ろくなことはない。しかし、みんなで立ち上がれば、狭いスペースにたくさんの個体が集まることができる。それは、大きな群れをつくってしかも物陰に身を潜めて生きねばならなかった生きものが獲得した、やむにやまれぬ習性だった。
たとえば、森のけものみちをみんなが四足歩行して行進していたら、ものすごく長い列になって、はぐれたり置き去りにされたりする者がいつも出てきてしまう。集団のかたちをコンパクトにするためには、みんなで立ち上がるしかなかった。というか、押し合いへしあいしているうちに気がついたら、みんなで立ち上がっていた。そして、そういう共同作業の精神と身体性が、あたりまえのこととして身にしみていった。
それは原初のアフリカの森で生まれたのだが、おそらくこの習性とメンタリティを持っていたからこそ、サバンナの暮らしを身につけてゆくことができたのでしょう。そうしてこの習性によって、アフリカを出てゆくものが生まれてきて、やがて地球の隅々まで住み着いてゆくことになった。
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人類の直立二足歩行は、共同性=社会性のうえに成り立っている。
氷河期の遊動狩猟民が、氷河期が明けて縄文人としての歴史を開始したとき、最初に生まれてきた今までとは違う共同作業は、遊動ルートの変更を相談し決定することだったのかもしれない。
それまでの遊動ルートは、大型草食獣の移動とともにあったから、自分たちで勝手に決定することではなかった。しかしそれらの動物が氷河期明けとともに絶滅してゆく状況になれば、別の獲物を探して別のルートをとらなければならない。
そのころ、大多数の縄文人は中部山地以北に生息していたから、その人たちに当てはめて考えてみます。
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ちなみに、そのころの地域別の人口を試算した数字が出されているのですが、それによると、関東が圧倒的に多いことになっている。しかしこれは、発見率の高さによるのだろうと思います。宅地造成などであちこち掘り返されているし、研究者も多い。それにたいして東北などは手つかずの地域がたくさんある。
縄文前期のいちばん大きな遺跡が青森の三内丸山遺跡だとしたら、東北こそいちばん人口が多かった可能性がある。少なくとも、現在出されているような、草創期の総人口で関東の5分の1、人口密度は10分の1だったというようなことはないだろうと思えます。中部地方の山地でたくさんの遺跡が見つかっているということは、東北の山地にももっとたくさん発見されないまま眠っている遺跡がたくさんある、ということを意味するのではないでしょうか。中部地方は、岐阜・長野・山梨と、海のない県ばかりだから、ちゃんと山の中を探すが、東北はどの県も海に面していて、あまり中部地方ほど山の中の遺跡探しがおこなわれていないのではないでしょうか。
縄文草創期・前記・中期・後期と、あとになればなるほど関東と東北の差が少なくなってきている、というのもちょっとおかしい。それは、縄文人が、住みにくい山の中から、時代とともに、住みやすい平地近くに下りてきたため、東北地方での発見率も高くなっている、ということかもしれない。そして、人々が住みやすいところに移動していったということは、それとともに東北より関東のほうがなお多くなっていかなければならない。
縄文中期から後期にかけて、いちばん人口が減少したのは、中部山地です。このことからも、気候が寒冷化して人々が山を下りていったことがうかがえます。縄文人は、小さな集落単位で暮らしていたから、集落ごと移動してゆくことはよくあったのです。
縄文人は、氷河期が明けて平地の大型草食獣がいなくなるにつれ、残ったシカやクマやイノシシをもとめて山の中に入っていった。しかし中期から後期にかけて気候が寒冷化してくると、山を下りてゆく者と、風の強い海岸地方を離れてやや内陸よりに移動してゆく動きが生まれてきた。このため、貝塚の数が一気に減少した。おおよそそういう時代の推移があったと推測できるのだが、だとすれば、もともといちばんたくさん大型草食獣がいた東北地方の草創期から前期にかけての人口は、もっと多くてもいいのではないかと思えます。そのころは、気温が上昇していっているときだったのだから、南に移動してゆく理由も山の中を避ける理由もなかったはずです。むしろ、いろんな意味で山の中に入ってゆく条件がそろっていた。
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みんなで相談して山の中に入っていった。これが、最初の新しい共同作業だったのだろうと思います。とにかく、そこで生活のスタイルを変えてゆくほかなったわけで、そういう事態に対処するために、物理的にも精神的にも共同作業が増えてしかも複雑になっていった。
大型草食獣の狩をしていたころは、大型草食獣の動向に自分たちの生活にシステムが決定されていた。しかしその狩の獲物がいなくなれば、自分たちで決めていかなければならなくなる。その上日々の生活において女たちの採集作業にたいする依存の度合が大きくなってくると、女たちの意識と男たちの意識にずれが生まれてくる。それは、相談することによって生まれた生活だったのであるが、相談することをおぼえたがゆえに、相談がまとまらなくなっていった。男たちは、なおも狩猟遊動生活にこだわり、女たちはキャンプ地に居座ったまま採集生活を続けようとした。
女の採集活動と男の狩猟活動を分業する、これが避けがたい歴史の成り行きであり、分業してゆくことじたいが、相談という精神の上に立ったひとつの共同作業だった。
こうして、女だけの集落があちこちに生まれ、女だけの集落を男たちが渡り歩いてゆくという生態が定着していった。
それは、山の中に入ってゆく、ということからはじまった。そして女は、できれば山歩きなんかしたくなかったし、しなくてもなんとかなる採集生活を、そのとき温暖化してゆく環境が与えてくれた。
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ところで、発掘された人骨から、縄文人がひどく足を酷使していたことがわかっています。研究者はそれを、苛酷な労働の結果だと言います。縄文時代に、いったいどれほどの「労働」があったというのか。好き勝手に山歩きしてふらつきまわっていただけでしょう。
しかし人間にとって「歩く」という行為は、それがいったん習慣づけられると、足の骨が曲がってもまだ歩き続けずにいられなくなるところまでいってしまうのです。そこに直立二足歩行の本質があるわけで、現代でも、マラソン選手は、足が故障していてもまだ走らずにいられない習性を持っている。
直立二足歩行は、他者に近寄りながら、しかもたがいの身体のあいだの空間を確保するという、ひとつの共同作業です。人類の歴史は、そこからはじまっている。
定住化とは、共同作業の追及であり、そういうトレーニングの結果として、農耕栽培という生産様式が実現していったのだろうと思えます。