弥生時代の大陸との関係・2

ある研究者によれば、弥生時代の北九州には朝鮮半島から渡ってきた人たちの集落がいくつもあり、彼らの主導によって筑紫平野の稲作が定着してゆき、そののちに列島中に広まっていったのだとか。
もしそうであるなら、この地方の稲作に関する用語に、たくさんの朝鮮半島と同じ言葉が残っているはずです。しかしこの地方だけでなく、日本列島の稲作に関する用語はほとんどがやまとことばです。
たとえば、朝鮮半島では、稲田のことを、「田」とは言わない。「はたけ」なのだそうです。稲作に関するかぎり、朝鮮半島の言葉の影響なんか、ほとんどない。教えてもらったのなら、おおいにあってしかるべきです。それがないのは、べつに朝鮮半島の人に教えてもらったわけではないからでしょう。朝鮮半島では、「田植え」とはぜったいに言わないのです。「なえ」とか「もみがら」とか「あぜ道」とも、ぜったいに言わない。
稲作が北九州から始まったというのは、何かというとすぐ大陸の影響を持ち出してきたがる研究者の迷信だと思えます。
稲作の技術は、縄文時代に、すでに列島中に広まっていたのです。どこから始まったかというなら、種が漂着して稲が自生していた地域からでしょう。
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また研究者は、弥生式土器の様式が縄文土器からがらりと変貌したのは、大陸から伝わったからだ、という。しかしそれは、つくり手が女から男に変わったということがあるから、かならずしも大陸の影響とはいえない。その様式は、一挙に変わったのではなく、すこしづつ変わっていったのです。デザインが繊細で高熱で焼かれているということは、男の手によるのだということを意味します。変わっていってから、大陸の要素も多少は加わってきた。というか、男がつくれば、だいたいあんなデザインになってゆく、ということでしょう。大陸と似ているから、すべて大陸人から教えられたとはかぎらない。
そして筑紫平野で生まれた遠賀川式土器がまたたくまに中国・四国地方まで広まっていったことを、筑紫平野の勢力がそれらの地方を制圧していったのだ、といっている研究者がいます。筑紫平野では耕作可能な土地が少なくなっていったから、中国・四国地方の土地を奪いに行ったのだとか。どうしてこんな幼稚で愚劣なことを考えるのだろう。
弥生時代は、まだまだ土地が有り余って、人が足りなかった時代です。そんな戦争ごっこをしている余裕なんかなかったのです。そんなことをしていたら、せっかくの筑紫平野がただの荒地に戻ってしまうだけじゃないですか。筑紫平野は、人々がその地に住みつき、その地を愛してけんめいに耕し続けてきたからこそ、現在の穀倉地帯になったのでしょう。
あっちの土地こっちの土地と、ちょっかい出してばかりいたわけじゃないはずです。
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遠賀川式土器がたちまち広まっていったのは、それが使い勝手がよくてデザインもわるくなかったからだろうし、ただ筑紫平野では共同性(社会性)が未発達で、そこをとび出してゆく人があとを絶たなかったからでしょう。そういう人たちが、その土器を広めたのだ。
筑紫平野は、小さな国がたくさん分立していた。そこが、ひとつの共同体にまとまっていった奈良盆地との大きな違いです。それは、天皇という、人々がまとまってゆく「かすがい」になる存在を持っていたのといなかったとの違いかもしれない。また筑紫平野は、広すぎてまとまりになる確かな区画がなかったし、海を前にした不安定さもあった。その点奈良盆地は、古代人がまとまってゆくのに広すぎも狭すぎもしない絶妙のあんばいになっており、四方をたおやかな姿の山なみに囲まれているという安定して確かな区画性が備わっていた。
筑紫平野は、良くも悪くも、小さな国々がそれぞれお国自慢しあう土地柄だったし、奈良盆地は、誰もが「青によし」の山なみと天皇を共有していた。良くも悪くもそういう違いというのはあったはずで、大陸の影響なんか関係ないのだ。大陸の影響といえば、人を説得できると思っているのだとしたら、われわれ庶民をなめている。
筑紫平野の小国連合が邪馬台国だったなんて、研究者の絵に書いた餅にすぎない。それぞれが「国」と呼ぶほかないくらい、独立して分立していたのです。そのころの北九州は、埋葬の仕方で四つくらいの地域に分かれていたのだとか。つまり、それぞれの国が、それほどに閉鎖的だった。
連合国家になれるくらいなら、最初からそんな小さな単位で「国」になんかならない。そんなことより、彼らがなぜ小さな「国」として分立していったかということこそ問われるべきであり、そこには、連合国としてまとまってゆける地理的条件がそなわっていなかった。筑紫平野では、それぞれが自分の国の山を持っていたし、奈良盆地には「みんなの山」があった。古代人にとっては、心のよりどころとして、それくらい山が大切な対象だったのだ。
朝鮮半島から稲作を伝えてきた人たちは、招かれざるインベーダーとして列島中を傍若無人に席巻していったのだとか。そう言っているのは、埴原和郎という高名な人類学者です。
いや、たいていの研究者が、まあ似たようなことを言っている。だから弥生時代には、防御のための環濠集落がたくさんつくられていったのだとか。環濠なんか、戦争のなかった縄文時代からつくられている、たんなる水利施設です。