弥生時代の大陸との関係

縄文時代弥生時代に、ほんとに、そんなかんたんに大陸と行き来していたのか。
していたはずがない。ないとはいわないが、縄文時代など漂着した人々だけだろうし、弥生時代にやってきた大陸人だって、日本列島の歴史を変えるほどの影響はほとんど及ぼしていないはずです。
対馬は、九州の博多に行くよりも、朝鮮半島のほうがずっと近い。対馬から、済州島の島影が見えるのです。古代の大陸人がかんたんに日本列島にやってきていたのなら、対馬なんか、簡単に大陸の領土に組み入れられたでしょう。魏志倭人伝が語る弥生時代後期に、対馬でさえ領土にできない大陸人が、どうしてかんたんに北九州や山陰までやってくることができようか。
弥生時代になって北九州や山陰が大陸の人や文化で覆われたたというのなら、その前に対馬はすでに大陸化していなければならない。しかし弥生時代後期の魏志倭人伝によれば、対馬邪馬台国の領土であり、住民は「倭人」だったのです。そして魏志倭人伝の記述を信じるなら、彼らはまだ対馬壱岐を素通りして一気に博多までやってくるほどの航海能力はなかったことになります。
したがって、もし研究者の言うように、そのころ朝鮮半島の政情が混乱し、たくさんの流民を出したというのなら、彼らはどうせちゃちな船しか使えなかったのだろうから、対馬にたどり着くのがせいっぱいだったはずです。そして対馬は、たちまち大陸の文化に染められていったことでしょう。しかし、そうはならなかった。
そのとき対馬朝鮮半島の国の一部でなかったことは、朝鮮半島の人々は対馬にすらかんたんにはやってくることができなかった、ということを意味する。
弥生時代邪馬台国に、対馬を統治する能力などなかったはずですよ。だったら、対馬と目と鼻の先の朝鮮が支配してしまえるじゃないですか。しかし、できなかった。対馬まで行くことすらかんたんじゃなかったからでしょう。
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縄文後期から弥生時代にかけての1500年間に、人口は約4倍に増えたそうです。そしてそれまでは中部地方以北に多くの人が集まり、近畿以西は過疎地帯だったのだが、この時期に一挙に全国に分散していった。
それは、そのころ地球の気候が寒冷化したために、暖かい地方への移動が活発になっていったからでしょう。
研究者は、大陸からたくさん人が西日本にやってきたからだ、というのだが、それでは、大陸とは無縁の四国の人口も爆発的に増えたことの説明がつかない。
またこの時期は、多くの人が寒い山の中から暖かい平地に下りてきた時期でもありました。
平地に降りてきて人が集まってくれば、農耕生活がはじまります。しかもそこは、湿地帯が多かったのだから、とうぜん稲作が選択されることになるでしょう。
ただ、北陸から山陰にかけては、朝鮮半島から漂着してきた人たちは相当数いたかもしれない。朝鮮半島の沖には対馬海流が流れているから、北九州に行くよりも、その海流に乗って山陰・北陸のほうがたどり着きやすいのです。そういう人たちも巻き込んで南下してゆき、最後に北九州の筑紫平野に集まってきた。この人たちが、魏志倭人伝にあれこれ書かれている伊都国とか不弥国とかの住民を構成していたわけです。
したがってこの人たちは、東日本、西日本、朝鮮半島、といろんな血が混じっている。だから、その地域在来の縄文人とはかなり形質が違うのだとか。
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縄文以前の氷河期の日本は、北海道と北九州で大陸とつながっていた。だから、そのころ北海道以下の東日本は、原日本人に北アジアから下りてきた人たちの血が混じり、西日本の人々には、中国・朝鮮半島の血が混じっていた。
そして縄文時代の8千年を通じて、この二つの地方の交流はほとんどなく、したがって両者は、多少の形質の違い以上に、遺伝子レベルでは、さらに大きな違いがあったのかもしれない。
この両者が混血すると、どうなるか。お公家さんふうというか浮世絵ふうというか、そういう面長でのっぺりした顔になるのだとか。近畿地方は、明治時代までつねに日本の中心として全国から人が集まってくる土地だったから、この手の顔がとくに多い。古墳時代から明治時代まで、両者の血が混じり続けたのは、ほとんど近畿地方だけだった。だから近畿地方の人々の顔の骨格は、日本列島でもとくに異質なのだとか。
弥生時代に入ったころ、東日本の人々は、寒冷気候に追われて北九州まで移動していった。ただ近畿・中国地方はまだ過疎地帯で、東日本から移動してきた人どうしの交配がほとんどだった。本格的な混血は、まず北九州で起きた。
近畿地方の混血が本格化してきたのは、それ以後弥生時代後期から古墳時代にかけて西日本から近畿地方に向かう人の動きが増えてきてからであり、しかしそのように近畿地方が列島の中心になってからは、西日本に向かう東日本の人の波も途絶え、北九州の混血種もしだいに在来種に吸収されていった。で、東日本と西日本の違いも、そのまま残ってゆくことになった。
研究者が言うように、のっぺりした顔は渡来人の血のせいで、そのとき北九州に在来の人を圧倒するほどの渡来人がやって来て混血していったのなら、北九州こそのっぺりした顔ばかりの地域になっていったはずです。だからその言い訳として、まとめて近畿地方に移住していったのだというのだが、そんなことがあるわけないじゃないですか。
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弥生時代後期の近畿地方の人口は、縄文後期から20倍以上に増えています。ある試算によれば、4500人から11万人になった。全国平均が4倍だから、たんなる自然増ではない。おそらく8割は、東日本から寒冷気候に追われてやってきた人たちだったはずです。そういう人たちが、気候が持ち直した古墳時代以降に西日本からやってきた人たちと混血して、のっぺりした顔になっていった。
ちなみに、このとき九州は、10倍に増えています。気候が寒冷化した時期だから、暖かい地方ほどたくさん増えるのはとうぜんで、四国も同じレベルです。であれば、自然増と東日本からやって来た人を合わせれば、渡来人の数などほとんど勘定に入らなくなってしまう。つまり、もし渡来人が大挙してやってきたのなら、北九州こそ20倍以上になっていなければならないし、九州ほど暖かくもなくそのときはまだ渡来人とは関係ないはずの近畿地方のほうがたくさん増えているということは、あくまで日本列島内で人の移動があっただけだ、ということを意味するはずです。
研究者の言う通りなら、九州こそ、もっとも劇的に人が増えた地域でなければならない。