閑話休題・17歳の「いじめ」

17、8歳といえば、気持が家からも社会からも離れて、人生でいちばん「いじめ」とは無縁の年頃のはずなのに、それでもせずにいられない少年たちがいるということを知らされるのは、何かやりきれない思いが募ります。
先日、そうやっていじめぬかれたあげくに自殺した17歳の少年がいる、という報道がありました。
この国の病理は、そこまで進んでいる、ということでしょうか。
僕は、「生首少年」の事件よりも、こちらのほうがはるかに気味が悪い。こんなことはなかったことにして、考えることも話題にすることもやめにしたいくらいです。
いじめとは、「支配」をシュミレートする行為です。
いじめとは、「監視」することです。
ほっといてやればいいだけなのに、どうしてかまっていじくりたおそうとするのか。
垢抜けなくて、執念深くて、お母さんの生首を切り落とすよりも、ずっとグロテスクな行為だと思えます。その行為が、というより、そんなことをして喜んでいたというその心が、どうしようもなくグロテスクで気味が悪い。
お母さんの生首を切り落として自首してゆく行為には、たとえそれが狂気であるにせよ、みずからの孤立を止揚し、社会とも家族とも訣別しようとする17歳ならではの誇り高さと純潔がある、と僕は思っている。
それに比べて・・・・・・いったいなんなのだ。
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他人をかまっていじくりたおすことがどんなにグロテスクなことかという文化が、その家にはなかったのでしょうね。
たとえば、小学生の子供たちが、近所をいつもうろついている野良猫を捕まえて水をぶっ掛けたりしておもしろがっている光景というのは、ときどき見かけます。そのとき親たちは、「やめなさい」と叱りつつも、胸のどこかで「そういういたずら好きの年頃なのだからしかたない。そうやって人は大人になってゆくのだ」と思っている。
しかし、その遊びが、やがて教室の仲間をいじめる遊びに変わってゆく。猫をいじめなくなったから成長したと親は満足して見ているが、じつは、猫が教室の仲間である人間に変わっただけだったりする。
野良猫いじめだって、どの子も面白がってやるかといえば、そんなことはない。十人いれば、必ずひとりかふたりはやりたがらない子はいる。そしてそういう子が、やがていじめの対象になっていくことが少なくない。
野良猫いじめなんか、普遍的な通過儀礼でもなんでもないのだ。子供なら誰でもやりたがるというわけでは、決してない。親が子供をいじくりたおすことになんの後ろめたさもなく、むしろそれが愛情だと思っているような家の、そういう文化で育ったからやるだけだったりする。あるいは逆に、親にかまわれることに餓えているからそういうことをしたがる、という場合もある。
また社会にしても、ローン会社がしつこく取立てをすることはもちろんのこと、会社や宗教団体や選挙の立候補者が徹底的に電話攻勢をかけたり、市場の名簿を調べまくったり、そんなことだって、他人を監視していじくりまわそうとする衝動の上に成り立っているストーカー行為でしょう。そうして市役所や税務署や警察は、住民をひとり残らず把握していないと気がすまない。
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現代人は、誰もが他人を監視しようとする衝動を募らせて生きている。社会とは、そんなものらしい。家庭だって、親は子をいじくりまわして育てている。それは、まあいい。しかし、17、8歳にもなれば、そんな社会や家庭とは一線を画した気持が芽生えてくるはずだが、芽生えてこないで社会や家庭の論理そのまんまの気持でいじめを繰り返さずにいられない少年もいる。
いったい、それはなんなのか。
家庭が離してくれないからか。それとも、離れたとたん、社会の論理に取り込まれてしまうからか。そういう社会の論理と家庭の論理が結託しているからか。あるいは、そういう「監視」の行為を社会でも家庭でもない学校という場で実行すれば、両方の世界から逃れられていると思えるからか。
たぶんもう、人を監視していじくりまわすことが、本能のようになってしまっているのでしょうね。家の責任か社会の責任かは知らないけれど、そういうイメージ(論理)でしか他者との関係を結べなくなってしまっている。
いじめるという行為は、相手に対する執着であり愛着でもある。だから、なかなかやめられないし、後ろめたさもわいてこない。17、8歳にもなれば、周囲からとがめられる行為だということはわかっているのだろうが、実感としての後ろめたさはない。
いまやいじめなんか星の数ほどあるはずなのに、どの学校でもうちにはないといい、親たちもうちの子はするような子ではないという。それは、いじめをする子のほとんどが、親や教師の言うことをよく聞くいわゆる「いい子」だからでしょう。
「いい子」だからいじめをする。そこがやっかいなところです。家や社会や学校に飼い馴らされているから、いじめをするのだ。
あるいは、家か社会か学校かのどこかから疎外されているためにその飢餓感からいじめに執着する、という場合もある。
しかし17、8歳は、自分から拒否して逃げ出すというメンタリティを持っている。そのような意識構造において彼らは、ほんらい、この社会の外部に存在する「異人」なのだ。でももう、社会の管理システムがここまで進めば、たとえ17歳でもその網から逃れることはできない、ということでしょうか。
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本屋や図書館に並んだ「いじめ」関係の本を眺めてみると、たいていは、まずどういうタイプの子がいじめられやすいか、ということから書き始められている。そして、なぜいじめるのかということの考察は、あんがいかんたんにすませてしまっていたりする。心理学者の本なんか、おおかたこのパターンです。
どういう子がいじめられるのか、なんて、よけいなお世話です。知らなくてもいい問題だとはいわないが、そんなことよりも、なぜいじめるのかということを、もっときっちり解き明かして欲しい。
というか、いじめられるがわが変わらないかぎり、けっしていじめはなくならない、と彼らは思っているのだろうか。
いじめられている子にそんな努力を強いるなんて、本末転倒もいいところです。汚かろうと臭かろうと、その子の勝手です。どうしてほっといてくれないのか。それが問題でしょう。
人間とはそういう対象をいじめたくなるものだ、と心理学者はいう。まあ、そういう世の中だということは認めるが、それが人間の本質だとは、僕は思わない。このブログでいろいろ書いてきたが、他者を「祝福」しようとするのが、直立二足歩行開始以来の人間の本性だと思っている。
祝福することのバリエーションとして、いじめが起きている。そこがやっかいなところではないだろうか。
その17歳の少年を自殺に追い込んだ者たちは、なかよしこよしの罰ゲームだから、とまわりに言い訳していたらしい。なかよしこよしの罰ゲームならいいと思っているその感覚が気持悪い。そうやっておたがいがいじくり合うことが友だちの関係、あるいは人と人の関係だと思っている。親にいじくりまわされて育ったのでしょうかね。いじくりまわしても、いくぶんかの後ろめたさを持っている親なら救いもあるが、それが正義だと思っている親もいる。
若いギャルどうしの会話。
「ねえねえ、そのときあたしの彼がなんて言ったかわかる?」
わかるわけないだろう。こういう言い方をして、相手の気持ちをいじる。試す。なかよしこよしだからこその会話である、というわけです。しかしこれも、軽いいじめだろうと思えます。上手にいじめあうのが、なかよしこよしの証しらしい。
現代の管理社会では、相手の気持ちをいじくって管理してゆくことが付き合いの流儀になってきている。若い娘まで、支配者の観念を身にまとい始めている。
この世の中でいちばん他者を「祝福」することを知っているはずの17歳までも過激に他者を支配しようとしてしまう社会というのは、いったい何なのでしょう。あの報道は、特殊な例というより、同じようないじめが日本中のいたるところでいっぱい起きているように思わせられるところが、なんとも不気味です。
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いじめとは、「支配」のシュミレーションであり、共同体を背負ってする行為です。いじめをするものたちは、社会か、家族という共同体か、いずれかを色濃く背負ってしまっている。
子供をいい子に育ててやるとか、楽しい思いをさせてやるとか、それらは、子供をいじくりまわして支配してゆく行為です。どんな育て方をしようとけっきょくは支配してしまうことだが、そのような「正しい」育て方をすると、支配と被支配の緊張関係がなくなり、子供は、親の支配の仕方ばかりを覚え、模倣するようになってゆく。つまり、そのとき子供に「支配されている」という自覚(=嘆き)がないから、被支配者として親を祝福してゆくということを覚えない。いい子になって喜んでいるが、親を祝福してはいない。
被支配者が支配者を祝福するのは、祝福しないと関係を結べないところに追いつめられるからです。祝福しないでも関係を結べるのなら、祝福なんかしないで一緒になって楽しんでいればいいだけです。祝福なんかしないで、親と同じことをしようとするだけです。そういう関係においては、親が自分にするのと同じように、他者を支配し監視してゆくことしか覚えない。
たとえば、親に反抗しないでいい子になるとは、そうやって親を支配しコントロールしていることです。そうやって「いい子」になめられている親は、けっこういるんじゃないでしょうか。親にいい顔しながら、外で何しているかわかったものじゃないという例は、いくらでもありそうな気がします。そうして「事件」が起きてから、親は、まさか、と驚く。
親が子供の前に「支配者」として立ちはだかるという経験、それは、親を信頼し祝福するほかないところに追いつめられるという事態であり、親と仲良くするということとは、また別のことであろうと思えます。
親と子が仲良くすることは、ときに、子供もまた親を支配しコントロールしているだけであったりする。
被支配者として、親を信頼し祝福してゆくこと、自分が被支配者であることを自覚しつつ、親を祝福することのカタルシスをくみ上げてゆくこと、親と自分との立場の違い、領分の違い、そういうことに気づく体験が、現代の幸せな家庭にはたしてあるのだろうか。
いじめをするということは、被支配者としての視線を持っていない(あるいは、そのとき喪失している)、ということでしょう。
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親に支配されている、ということは、親にいじめられていることです。そのとき子供はもう、親を祝福してゆくしてゆくしか生き延びるすべはない。「ごめんなさい」とあやまることは、「あなたが正しい」と祝福することです。
人は、やさしい心の持ち主だから、他者を祝福するのではない。支配されいじめられてある者はもう、そうするしか生きてあることができないからです。いじめられて自殺した17歳の少年がやさしい心の持ち主だったかどうかはわからない。しかし彼は、いじめられてあるあいだ、ずっと相手を祝福しつづけていたのです。自分が相手よりもみじめな存在になることは、相手を祝福することです。そして祝福しきれなくなって、死を選んだ。
いじめられる子は、相手を祝福してしまう。だからいじめるがわは、いい気になってエスカレートしてゆく。相手が怖がっているということは、自分たちの強さが祝福されている、と確認することです。彼らはそこで、支配することの醍醐味を発見する。彼らは、他者を「祝福する」ことの醍醐味(カタルシス)を知らない。まあ、親も社会もそれを知らない世の中なのだ。誰もが、「祝福される」ことの醍醐味に味をしめて、そればかり欲しがっている。「祝福される」ことしか知らない人間が溢れている。
子供は、存在そのものにおいて、親を祝福している。子を持つ世の主婦は、祝福された「勝ち組」であるらしい。そりゃあそうでしょう。女が子を産んでくれなければ、共同体に未来はない。彼女らは、子供からも共同体からも「祝福」されている。彼女らのアイデンティティは「祝福される」ことにあり、彼女らは、「祝福する」ことを知らない。したがって、彼女らから子供に「祝福する」心性が伝わることもない。子供が親を模倣するなら、祝福されようとする欲望を募らせるばかりだ。
「祝福する」ことを知らない者が、祝福されてあろうとするならもう、支配者となって他者をいじめてゆくしかない。本当に祝福することが身についている人間は、望まなくても祝福される。「祝福する」ことを知らないままいじめる者たちの、「祝福される」ことに対する飢餓感、その執念深さは、いったい誰がつくったのか。
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うちの子はやさしいからいじめなんかしない、と思っているのだとしたらいい気なものです。そういう親の子だからこそ危ない、とも思う。やさしい心の持ち主だからいじめをしないのではない。子供として、被支配者として、親という支配者を祝福するしかない体験を持っているかどうかです。それは、親から伝えられる心性ではない。子供という被支配者であることを自覚したとき、はじめてみずからのうちに他者を祝福しようとする衝動を発見するのだ。
親を畏れる、ということは、親を祝福することです。おそらくいじめる子には、親を恨む、という体験はあっても、畏れる、という体験はない。親と仲良くしても、親を祝福したことはない。
子供が親離れをする最初の体験は、自分が、親という支配者を祝福してゆくほかない「被支配者」であると自覚させられることです。
尊敬するとか、愛するとか、そういうことではないですよ。相手がいやな親だろうとばかな親だろうと、ひとりの人間として他者の存在を畏れること、そういう「孤立感」は、子供なら生まれたときから誰でもしているはずだが、現代の家族は、その体験を隠蔽してしまう機能を持っている。隠蔽してしまうことが、「幸せ」だと思っている。
こういう言い方は、情緒的で独善的であるのかもしれないが、いじめる子は、ひとりの人間としての「孤立感」を体験していないか、体験することを怖れているか、そのどちらかであるような気がします。彼らは、人を支配し監視せずにいられない強迫観念を抱えている。そしてそれはもう、子供を育てる親の強迫観念そのままであるのでしょう。彼らは、つねに「祝福された存在」であろうとしている。そういう欲望が肥大化して、制御できなくなってしまっている。
17歳とは、不可避的に家族からも社会からも「孤立」してしまう世代であるのだと思うのだけれど、家族の親と子の関係でそういうトレーニングをしてきていないと、17歳になってもやっぱり飼い馴らされたままであるらしい。子を持つ母親が「勝ち組」だと自覚しているように、現代では、家族と共同体が結託して子供を育てている。そういう現代社会のシステムに飼い馴らされたまま、彼らは、仲間をいじめながら大人になってゆく。そうして「正しい市民」になる。
たぶん、いじめをする子供ほど、やがては「正しい市民」になる。「支配すること」、「監視すること」、「いじめること」は、この社会の正義です。それが人間の本性だとは、もちろん思わないけれど。