僕は、生首少年を忘れない 4

しつこいですよね、これで終わりにします。
精神疾患があろうとなかろうと、彼には彼の思想があり、誇りがあったのだ。そしてそれによって、人を殺すことを実行に移していったのでしょう。そういう思想や、みずから逃げ道を断ってしまうほどに思いつめた少年らしい誇り高さが生まれてくるような時代なのでしょう。
僕が知りたいのはその部分であって、精神疾患なんかあまり興味がないし、それがいちばんの原因だとも、それだけで語れるものだとも思わない。
彼は、みずからの思想や誇りを実行するために、スポーツ選手がトレーニングをして肉体改造してゆくように、精神疾患というかたちで精神改造していったのかもしれない。精神疾患の上に、おそらく彼なりの、そして彼だけの思想と誇りがあったのだ。
だから、取調べのときに要領を得なかったりする。自分が見たもの考えたことが何であったかなんて、いってもしょうがない。そんなことを大人たちにぺらぺらしゃべれるくらいなら、はじめから孤立なんかしていない。いずれ話すほかないとしても、いまはまだしゃべる気になれない・・・・・・その気持ちは、わからなくもない。
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僕は、あまり複雑な論理は組み立てられない人間ですが、少年という存在が社会からも家族からも離れた場所に立ってしまったとき、その世界観が「歴史」という時間に浸されてゆくということは、なんとなく想像がつきます。
精神疾患とは歴史に憑依することだ、という解釈もおそらくできるでしょう。それにたいして、心理学者のいうような社会性の欠落とか不適合の性格とか、そんなようなことを並べて精神疾患とされても、ちょっと困るわけです。もともと17歳は、社会のなかにも家族にもいないのだから、そんなわけのわからない17歳は世間にごまんといるはずです。そういう性格破綻をきたした17歳でも、犯罪者にならずにのうのうと暮らしてゆける状況を持っている場合もあれば、生首少年のように袋小路で孤立してしまうこともある。
まあ、いいんですけどね。しかし僕は、安易に「精神疾患」をいわないのが薄汚れた身である大人のたしなみだろうと思えるわけで、そんな解釈は、それで金儲けしている連中に任せます。
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神(霊性)=人間=動物(獣性)
古代人にとって、世界はこの関係の上に成り立っている、と認識されていた。
人間は、ときに神にもなるし、獣にもなる。上の三者は、ひとつの階層であると同時に、循環構造でもあった。
古事記において、スサノオという神は、おそろしく凶暴な殺戮者でもあった。また、仏教説話の阿修羅は、人を殺して食ってしまう妖怪であったが、のちに阿弥陀如来の使いの弟子になった。邪悪な蛇は、神として祀られたりもする。クロマニヨンの神は、頭がライオンで体は人間の半獣半人の姿をしていた。
霊性から獣性へ、獣性から霊性へとメタモルフォーゼしてゆく、というのでしょうか。それが、古代人の精神の運動であり、そういうかたちの祭祀は、世界中の歴史を通じて引き継がれていったはずです。
霊性とは、獣性のことだ。少年が人殺しに熱中してゆくことも、超越者である神としてメタモルフォーゼしてゆこうとする衝動だったのかもしれない、と僕は思う。
つまり、社会の共同性に飼い馴らされた大人のいう「人間性」だけが、「人間性」のすべてではない。人類の歴史は、神(霊性)=人間=動物(獣性)の循環構造を「人間性」として流れてきたのではないか。人間は、大人たちのいう道徳的でステレオタイプな「人間性」だけですむ存在ではない。生首少年は、それに気づいてしまった。というか、いやおうなく気づかされてしまうのが、社会にも家族にも身の置き場所を見つけられない「少年」という存在の普遍性なのではないか。
あるときから彼は、祭祀の場の古代人がクマやライオンになりきって凶暴な獣から神へとメタモルフォーゼしてゆくように、そういう世界観を紡いできた人間の歴史を心の中に引き込んでいったのだろうか。あるいは、神によるそりゃあひどい殺しがいくつも出てくる古事記的世界観の伝統が日本人の無意識に息づいていて、その歴史を一身に背負ってしまったのかもしれない。
野球の鬼、という。そして、野球の神、という。鬼は、神になる。人殺しの鬼になることこそ、神へとメタモルフォーゼしてゆく道なのだ。われわれの社会は、そういう歴史を包み込んで成り立っている。そういう歴史が、少年の精神に住み着いてしまった。
殺すことが悪いといっても、人間の歴史は、人が人を殺すことともに流れてきたのだし、それがいいか悪いかということの解答は、まだ世界中の誰も出せていないのだもの。さしあたっていえることは、社会の運営にはなはだ都合の悪いことだ、ということだけでしょう。残念ながらその論理は、社会の外に立って、大人になんかなれなくてもいいと思っている17歳には通用しないのです。
「年とる前に死にたいぜ」・・・・・・これは、60年代に登場したロックグループであるザ・フーの「マイ・ジェネレーション」という歌の有名なフレーズです。お母さんの生首をもって自首してゆくことは、彼のそういう感慨が込められた行為だったのだと思えます。
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17歳というとしごろは、社会にも家族にも自分の居場所を置いていないから、社会の価値観にも家族の価値観にも縛られないで「世界」を見てしまう。たとえそれが人殺しの方向に行ったとしても、いいのか悪いのか、僕にはよくわからない。人殺しはいけないということを正義ぶって声高に叫んでいることじたいが、少年の人殺しに熱中する思想を培養しているのかもしれない。
いいか悪いかなんて、僕はよう判断しない。よかろうと悪かろうと、おそらくそれは、われわれの時代が負ったリスク(傷)なのだ、と思っている。
彼は、誰よりも深く時代の空気を吸っていたのであり、そしてわれわれ大人たちは、少年にこんな事件を突きつけられてしまうほど醜い顔と精神をさらして生きているのだ。
生首少年の事件を、「時代のせいじゃない」などとどうしていえるのか。社会は大人たちのものだけど、時代とともに生きているのは、17歳のほうなのです。
17歳は、社会にも家族にもいないからこそ、しかしどの世代よりも時代の子であるのです。彼らは、時代の空気を吸って生きている。それが彼らを幸せにしているのか不幸にしているのかは人それぞれだろうが、17歳の犯罪に、精神疾患という解釈だけで事足りて、「時代のせいじゃない」などというものはないのだ。
社会が時代なのではない。社会を動かしているのが時代なのです。大人たちは、社会にどっぷりつかっているからこそ、それを動かしている時代の空気なんか吸っていないのです。
そして17歳は、時代の空気を吸いながら、社会の外から社会を眺めている。
大人たちが、時代はこうだああだとかっこつけて分析してみせても、そんなものは、時代の外から時代を見ているだけなのです。われわれ大人たちはもう、二度と時代の空気を吸って生きることなんかできないのです。
いいとしこいて、まだ時代の空気を吸って生きているつもりの大人たちは、じつに多い、とくにこの東京には。
しかし都会のど真中で仕事している大人よりも、山奥の村や日本の隅の海辺の町で暮らしている17歳のほうが、ずっとひりひりしながら時代の空気を吸って生きているのです。