定住は革命か

「人類史のなかの定住革命」(講談社学術文庫)の感想に戻ります。
百歩譲って定住することが革命的なことであったとしても、しかし著者がいう意味とはちょっと違うのではないかと思えます。人類は、定住の意志や能力を持ったから定住していったのではない。そういう「状況」が生まれたからだ。
著者は、こういいます。
「蓄える戦略の採用が長いあいだ発達しなかったことについては、答えるべき多くの問題がひそんでいるだろう。しかしともかく、この時期以後の蓄える戦略への傾斜こそ、遊動生活者として自然の呼吸のままに生きてきた人類を定住者へとみちびき、食糧生産や、人口の爆発的増加、そして文明へと向かわしめた。」
「蓄える戦略の採用が長いあいだ発達しなかった」のは、当然のことです。定住していなかったからです。定住したから「蓄える戦略」が生まれてきたのだ。したがって、「蓄える戦略への傾斜」が定住へと向かわせたのではなく、定住していったからそういう戦略へと傾斜していっただけです。そういう必要もない暮らしをしていれば、そういう戦略も覚えるはずないじゃないですか。著者の口ぶりでは、人間が賢くなれば蓄えることも覚えるだろう、という思い込みがあるらしい。しかしそれは、賢いかどうかということとは、まったく関係ない。たんなるスケベ根性の問題であり、それだけ生きてゆくことの不安が増大していったからだ、という問題です。つまり、賢くなって「蓄える戦略」を覚えたのではなく、定住して不安が増大してきたからでしょう。
直立二足歩行をはじめたころの人類の歴史は、とにもかくにも、だんだん暮らしぶりがよくなって不安が解消されてゆく歴史であったはずです。であれば、少なくともそうした初期段階においては、「蓄える戦略」などというすけべったらしいことが身につくはずないでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・
遊動生活を数百万年繰り返してきた人類が、なぜ定住していったか。それは、移動してゆくことの当然の帰結として、そこが行き止まりだったからでしょう。
遊動民といっても、すべてをひとくくりにして考えることはできない。
ある一定のエリアを死ぬまで変わることなく遊動し続ける人々と、そういう故郷を捨てて移動していった人々。アフリカで生まれた人類が、およそ200万年前にアフリカを出て、その後の世界拡散へのスタートを果たしたとき、もちろんそれは、故郷を捨てるというかたちであったはずです。定住民がアフリカに残ったのではない。残った人々もまた、一定のエリア内を死ぬまで遊動し続けていたのです。
つまり、そのときアフリカを出たのは、遊動生活からさらにはぐれて漂泊していった人々だった。
こういうことを考えると、遊動生活じたいがひとつの定住のかたちにすぎない、という解釈も生まれてくる。アフリカのブッシュマンは、200万年アフリカで暮らし続けてきた人々です。いや、現在のアフリカに残っている民族は、みんなそうでしょう。アフリカの外に出てゆくような行動性を持った民族など、ひとつもない。だから、近代になって、ヨーロッパ諸国の植民地活動の餌食にされてしまった。
世界の現代人のすべてが十万年前にアフリカに生息していたホモ・サピエンスの子孫だといわれているが、ほんらいのアフリカのホモ・サピエンスには、アフリカを出てゆくような行動性はないのです。あくまで地元の一定エリアを遊動し続けるのが、彼らのほんらいの生態です。
遊動するということは、地元から出ないということであり、文化もほとんど変化しないのです。そういう生態を持ったアフリカのホモ・サピエンスが、あるときまとめてアフリカら出ていった、などということはあり得ない。
出ていったのは、いつだってそのような遊動生活からはぐれた少数だったはずです。それに、200万年前の最初のころはいろいろ混乱もあっただろうから、出ていった人々もそれなりに少なくはなかったかもしれないが、その後のサバンナにおける遊動生活のシステムが定着してゆくにつれ、アフリカを出る人は、ほとんどいなくなっていったにちがいない。
おそらく、10万年前にアフリカを出ていったホモ・サピエンスなど、ほとんどいないのです。ましてや、4万5千年前にアフリカから大挙してヨーロッパに進出してゆき、わずか2、3千年ですべてのヨーロッパ・ネアンデルタールと入れ替わったという話など、幼稚な空想どころか、頭のおかしな連中のわけのわからない妄想だとしかいいようがない。
ホモ・サピエンスの遺伝子が世界中に拡散していったのは、いつの時代もどの地域でも、群れどうし女を交換したり群れから追い出されたりとび出したりする者がいるということが、頻繁になされていたからでしょう。けっきょく、ホモ・サピエンスの遺伝子の遺伝力がもっとも強く、もっとも長生きする遺伝子だったということ。そのためにすべての在来種の血にそれが混入していった、ということだろうと思えます。
ホモ・サピエンスの遺伝子を運んでいったのは、ホモ・サピエンスじしんではなかったのだ。おそらく、西アジアもしくはアフリカ東北部まで下りていってホモ・サピエンスの遺伝子を吸収したネアンデルタール的人種だったのだろう、と僕は思っています。じつは、そのほうがつじつまが合うことが多いのです。
・・・・・・・・・・・・・
遊動生活をしていた人々が拡散していったのではない、遊動生活からはぐれた人々が遊動エリアの外に広がっていったのです。そしてそうやって200万年前にアフリカを出ていった人々は、たとえば北ヨーロッパという行き止まりの地に、150万年かけてたどり着いたらしい。
たどり着いた人々は、すべて遊動生活からはぐれていった人々です。
遊動エリアの外で新しい生活をはじめるとき、ちゃんと生きてゆけるという目算など、立てられません。とりあえず、その新しい環境を受け入れてゆくしかない。新しい環境に合わせて生きてゆくしかない。
遊動することが、そのときどきの望む環境を獲得してゆくことだとすれば、遊動エリアの外で暮らし始めることは、その望みを断念することです。だから、いったん遊動生活になじんでしまえば、人は、100万年たってもその暮らしを変えようとしない。しかしそこからはぐれていった人々はもう、根本的に暮らしのスタイルや考え方を変えてゆくしかなかった。
つまり、そうやって生きてきた人々の子孫が、50万年前に行き止まりの北ヨーロッパにたどり着き、定住生活をはじめたのです。
もう飛び出しても外はない、そして飛び出してきた身であれば、いまさら戻ることもできない。しかも行き止まりだから、人はどんどん増えてゆく。そのように暮らしにくいことも、人が多すぎることも、ぜんぶ受け入れて彼らは新しい暮らしをはじめていった。
氷河期の北ヨーロッパは凍てつく寒さです。人間の暮らせるような環境ではない。それでも彼らは、その暮らしにくさを受け入れた。
また、冬が長く厳しいということは、その間、植物性の食料が得られないことを意味する。もう、ひたすら狩をするしかない。ひたすら歩いて、行き倒れになった草食動物の死体を捜すしかない。人が多いから、兎やネズミなんかつかまえていたって間に合わない。たとえ危険で困難でも、みんなで力を合わせてマンモスやオオツノジカやウマなどの大型草食獣を倒してゆくしかない。
しかし、そういう共同作業を日常化してゆくことによって、ネアンデルタール特有の大きな群れでもなかよく暮らしてゆける文化が生まれてきた。
アフリカで遊動生活していた者たちがいきなり北ヨーロッパに乗り込んでクロマニヨンになる、などという非現実的なストーリが、あるはずがないのだ。