僕は、生首少年を忘れない 3

心の中に荒野を抱いている人でなければ、人生の真実に気づくことはできない・・・・・・そういうことはあるのだろうし、もしかしたら誰の中にもそうやって寒い風が吹きすぎていっている場所はあるのかもしれない。
立派な人や幸せを獲得した人だけにそれを語る資格や能力があるとは、僕は思わない。大きな会社の社長や高名な小説家の人生論など、吐き気がするほど愚劣なものばかりだし、それにたいして生首少年が何も知らなかったとはかぎらない。
真実は、一瞬に姿をあらわして消えてゆく。お母さんの生首を持って自首してゆくほどの荒野に立たなければ見えてこない真実も、きっとある。
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生首少年は、僕が見たことのないこの世界の裂け目を見ていた。
中世の旅の僧は、目の前に餓えて死にそうな子供を見たとき、自分が持っている握り飯を与えるべきか、と自問する。与えてもいけないし、与えなくてもいけない。答えは、この世界の裂け目で示される。人が死んでゆくことは、そんなに悲惨なことか。あってはならないことか。誰もがかならず死んでゆくというのに。
与えて、いいことをしたと納得することなど、ただのセンチな自己満足だ。そんなことをせずにいられないほどおまえは自分の死を怖がっているのか、と旅の僧は問われる。そんなことをしておまえは、自己嫌悪に胸をかきむしらないでいられるのか、と。
われわれは、未来の生を前提にしながら生きている。死んでしまう身であることが生きてあることの証しなのに、ずいぶんあつかましい態度です。つまり、死が怖いものだから、たえず未来の死を消去否定しながら生きている。
死を否定する資格のある者など、この世界のどこにもいない。
死は、人間にとって重要な問題であるが、重要ではない問題にできないことにおいて、重要なのだ。ほんらいどうということのない問題のはずなのに、そのことがこの生のすべてを支配してしまっている。
道元いうところの、生死即涅槃、悟りとは、時間の観念から離脱することであり、それは、犯罪者の体験でもある。認めたくないだろうが、認めたくなくても、そうなのだ。僕は、認める。犯罪を犯すことが、ではなく、この世界の裂け目を見てしまうことが悟りである、と。
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それは、少年が背負ってしまった運命であり、お母さんが背負ってしまった運命だった。僕は、それ以上の感慨を、どうしても持つことができない。
五木寛之氏や村上龍氏は、「ニートに未来はない。彼らは、いつまでもうだつが上がらないであろう自分の未来のことを何も考えていない。犯罪少年も同じで、殺された人の家族の悲しみとか自分が警察につかまることとか、そういう未来にたいする想像力が決定的に欠落している」というようなことをよく言っています。
貧しいのは、あなたたちの思考力だ。そのていどの未来など、想像しなくても誰だってわかっている。わかっていてなぜするのか、そういうことをどうして問おうとしないのか。
未来を想像することが正義だと思っている。これだから田舎者は嫌いなんですよね。僕も田舎者だけど。
今や日本中が「都市化」してきて、未来を想像することが正義だというような田舎者のすけべ根性だけではすまなくなってきている。ニートにしろ犯罪少年にしろ、未来が想像できないのではなく、あえて未来を断ち切ろうとしているのだ。
未来を想像し前提にしながら生きているのが「勝ち組」で、未来を断ち切ろうとしてしまうのが「負け組」、ということでしょうか。
そして犯罪少年は、大人という未来になりそこなったのだから、究極の「負け組」である、ということになる。だから人々は、異常だとかただの精神疾患だとかというかたちで彼らを差別してゆく。差別して、安心しようとする。
僕なんか、未来を断ち切ろうとしてしまう癖がちょいとあるだけのはんぱな「負け組」にすぎないが、お母さんの生首を持って自首していった少年は、とにもかくにもこれ以上確かな未来を断ち切る行為はないというレベルでそれを実行してみせたのです。
気が狂っていようといまいと、彼は、はっきりとこの世界の裂け目を見た。見なけりゃ、できることじゃない。そりゃあ、さっぱりもするでしょう。
われわれには、彼のレベルで世界を把握する能力はない。
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五木氏も村上氏も、自分がいかに醜い大人かという自覚がなさすぎる。まわりの大人たちがみんなそうでも、自分だけはそうじゃないと思っている。そして、そうじゃないと思っているのは、あなたたちだけじゃない、ということに気づいていない。たいていの大人たちは、あなたたちと同じように、自分だけはそうじゃないと思っているのだ。
自分だけはそうじゃないと思って何様にかなったつもりかもしれないが、自分だけはそうじゃないと思うことほどありふれて俗っぽい感慨もないのだ。
僕じしんもふくめて、われわれ大人がどんなに醜い生きものかということを、もっともっと自覚してもいい。
彼らが大人になりたくないのは、子供でいたいからではない。なりたいと思えないくらい、大人が醜いからだ。彼らだって、子供であることのしんどさには、われわれが想像する以上にうんざりしているのであり、それでも大人になりたくないのだ。だったらもう、裂け目を探すしかないし、あんまり大人が醜くて、裂け目が見えてしまう世の中なのです。
現代ほど、若者が、大人の醜さに深く気づいてしまった時代もない。そして現代ほど、大人が、みずからの醜さに気づいていない時代もない。だから生首少年もニートも、今ここに立ち尽くしてしまったのだ。
そりゃあそうでしょう。人間が観念と経済で生きる生きものであると思えるのなら、身体や心のことなど、何ほどのこともない。身体や心など、着飾る「衣装と意匠」が全部隠してくれる。大事なのは、着飾る「衣装と意匠」なのだ。
そして身体と心を第一義として存在している十七歳の少年少女たちは、家族と社会の外に立ち、人生の中でいちばん深く確かに大人たちの身体や心の醜さに気づいてしまう時間を生きている。
大人たちの醜さに追いつめられている、と言い換えてもよい。
生首少年の心が歪んで病んでいただの、人生がうまくいかない物理的事情があれこれあっただのといっても、彼ほど敏感で、彼ほど誇り高く、そして傲慢ともいえるほどの純粋さで孤立していた十七歳もそうはいないのだ。
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「心の闇」などという。冗談じゃない。それは、心がない、と言っているのと同じなのだ。闇の心などあるものか。闇を見つめる心があるだけだ。そういう俗っぽいせりふを聞かされると、僕はもう、闇を見つめる知性も感受性もないやつがしゃらくさいことをいうんじゃないよ、といいたくなってしまう。
僕だって、そんなに人の悪口をいうのならみんな殺してしまえばいいじゃないかといわれれば、たしかにそのとおりであるわけで、われながらはんぱだなあと思うばかりです。
自分のことを棚に上げて言わせていただければ、五木氏も村上氏も、ずいぶんグロテスクですよ。そのことに気づいていないから、なおグロテスクですよ。
それにたいして、今ごろ独房の中で膝を抱えて闇を見つめているであろう生首少年の姿は、僕にとっての、この世でもっとも美しいもののひとつだと思えます。
まあ、みなさんの世の中なんだから、みなさんのお好きなように彼を裁けばいいんですけどね。