僕は、生首少年を忘れない 2

ようやく古人類学の話に戻りかけて、生首少年のことにしつこく関わるつもりなどなかったのだけれど、あるサイトで「おまえの考えていることなんか、ただの幼稚な思い込みだ。あんなものはただの精神疾患で、時代とも親とも関係ないんだぜ」と軽くあしらわれてしまったので、そうかんたんには引き下がれなくなりました。
できれば、そのサイトの管理人と議論したいのですけどね。いきなりえげつない反応をしてしまったから、無理かもしれない。
ナイーブな善男善女の連帯で構成されているそのページに割り込んでいって荒らすのもなんかいまいち気が引けるし、とりあえず挑発的なことを書きながら首を洗って待っている、というしだいです。
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「生首少年」の検索サイトでは、ほとんどの記事が、精神疾患とか、リアルな人殺しの劇画やビデオに凝っていたからだとか、彼の過去やら日常生活ののぞき記事とか、まあそんなものばかりです。僕から見れば、それらの記事はどれも同じようなものにしか思えないのだけれど、精神疾患だぜ、といえば、ほかより一段知的な水準が高い解釈をしているような気になれるらしい。
この世に精神疾患にかかる人はいくらでもいる。僕じしんは、人間であることそれじたいがすでにみんな精神疾患の患者だろう、と思っているのですけどね。とにかくそのようにたくさんいる精神疾患の患者の中で、なぜ彼だけがそんなことをしてしまったのか。リアルな人殺しの劇画やビデオのマニアはいくらでもいるのに、彼だけがあそこまでやってしまったのです。
劇画やビデオのせいさ、ただの精神疾患さ、なんていって納得しようとするそのけちな小市民根性こそ、僕にとってはよほど薄気味悪い。
精神疾患が原因だというのなら、精神疾患を持っている人はみなそれをしてしまうのか。彼よりももっとひどいレベルまで進行している人だっていくらでもいるだろうに、その人たちはなぜしないのか。
そういうことをしてしまう彼独自の世界観があり、彼しか見ることのできない何かを彼は見てしまったからでしょう。
僕が知りたいのは、そのことです。
精神疾患だぜ、といってすませられることじゃない。すませられるということは、精神疾患を差別しているからです。精神疾患になれば、必ずそういうことをするやつが出てくるし、精神疾患にならなければまずしないんだ。精神疾患じゃなきゃできることじゃない。ようするに彼らは、そういうふうに精神疾患というものをとらえている。
しかし、精神疾患じゃなくても、そういうことをしてしまいそうだ、と思っている人は、たくさんいる。そしてそういう人は、精神疾患の患者よりも、正気であるぶんもっとしんどいのですよ。あなたたちは、そこのところを考えたことがあるのか。この世の中は、ちょいとのぞきみして偉そうなことをいったりおもしろがったりしている人たちのものだけど、そういう人たちしかいないというわけではない。
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正気なのにそういう罪を犯してしまった人は、いくらでもいる。
生首少年を「精神疾患だぜ」とかたづけてしまう人たちは、世の中の正気の17歳は、誰もが自分と同じように太平楽な気分で太平楽な暮らしをしていると思っている。
しかし、そんなことはないのだ。よくそんな毎日で他人または自分を殺さないで生きていられるなあ、というような状況に置かれている17歳はたしかにいるし、たいていの17歳は、あなたたちよりずっと切実に生きているのだ。
一部の17歳にとって、「死んでしまいたい」「殺してしまいたい」という感情は、ときに自分自身で驚くほどリアルで生々しいものであったりする。そういう17歳にたいしてあなたたちは、生首少年なんてただの精神疾患だからおまえには関係ないさ、というのでしょうか。
僕は、よういわない。
そりゃあ、死にたくなるよなあ、殺したくなるよなあ、というケースはいくらでもある。そこで、正気と狂気のぎりぎりの境目に立って生きている17歳にたいして、僕にはもうそれ以上の言葉はない。
状況がひどいとか、たいしたことないとか、そんなことではない。17歳に真顔でそう言ってこられたら、僕は、「そうか、そうだよなあ」というしかない。そういうとしごろなんだもの。本気でそうしようと思ったら、そうしてしまうかもしれないし、そうしてしまうかもしれないと思うつらさと切実さは、汚れた大人である僕のレベルでははかれない。たいした状況じゃないから大丈夫だなんて、そうとはかぎらない。たとえしないに決まっていても、つらいことはつらいのだ。すれっからしの大人とは違う。
生首少年のケースだって、状況的には、それほどひどいわけでもなかったのでしょう。
精神疾患であろうとなかろうと、思いつめたらやってしまうでしょう。すくなくともそういう一途で潔癖なところは、われわれ大人よりずっとヴィヴィッドにそなえている。
そして正気なのにそういう生々しい衝動と向き合っている17歳は、精神疾患を抱えているよりももっとしんどいでしょう。そういう17歳にたいして、あなたたちは、あいつは精神疾患だからおまえは大丈夫だ、のんきにいってやるのか。
やるやらないはともかく、もしかしたら、正気の17歳の衝動のほうが、精神疾患に浸っている場合よりも、もっと生々しく激しく自覚的なのかもしれないのですよ。
もっと生々しく激しく自覚的だからこそ、しまいに精神疾患に逃げ込むのでしょう。
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17歳の「死にたい」「殺したい」という衝動に、正気も精神疾患もないのです。
生首少年だって、「殺したい」という衝動を手離したくなくて、精神疾患の症状をたぐり寄せていったのかもしれない。
とすればこれはもう、彼の思想であり、個人としての誇りだったのかもしれない。
精神疾患であろうとあるまいと、そういう「精神のかたち」というのがあるでしょう。
生首少年のそういう精神のかたちは、あいつは精神疾患だったのだといって満足している心理家連中より、ずっと人間としての本質に根ざしたものがあったのかもしれない。
たとえ精神疾患であっても、誰もあのレベルまで自分の行為を完結させることはできない。あのレベルまでたどり着くことができた少年犯罪が、どこにあったか。
お母さんの生首を持って自首してゆくこと、そういうかたちで彼は、自分の思想と誇りを完結させた。落とし前をつけてみせたのです。
そういう「ひとりぼっち」の気分・・・・・・おまえらに何がわかるものか。
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劇画の読みすぎさ、精神疾患患者のわけわからん行為さ、と片付けてみずからの小市民としてのポジションと薄っぺらな精神を正当化しようとする、そのいじましさ、意地汚さ、それが目障りなのだ。
べつに小市民であっていけないことなど何もないが、生首少年よりもあなたたちのほうがましな人間だなんて、僕はちっとも思わない。
生首少年よりあなたたちの精神のほうが、はるかにグロテスクだ。
僕は、あなたたちよりももっとみじめな小市民として、彼を尊敬し、彼にたいして恥ずかしいと思っている。