閑話休題・僕は、生首少年を忘れない

生首少年の場合は、たんなる精神疾患で「はしか」みたいなものだ、と言っている人がいます。まあ、おおかたのところは、そういう方向で決着してゆくのでしょうね。
しかし、じゃあ、どんな精神が正常なのか。
人を殺さない精神は、正常なのか。
僕には、わからない。
人を殺さないで、幸せボケしている精神、仕事ボケしている精神、出世ボケしている精神、色ボケしている精神、そういう精神だったら正常なのですか。精神なんてものは、いろいろでしょう。
殺人に熱中してしまう精神だって、精神のうちでしょう。
誰の精神だろうと、何らかの方向にスイッチが入って、ノーマルな状態から多かれ少なかれずれてしまっている。ずれてしまうのが、精神というものではないのですか。ノーマルではあり得ないのが、精神というものなのではないですか。
私は、赤よりも緑が好きだ・・・・・・そうやって、たえず「差異」に気づき「差異」を生み出してゆくのが、精神というものでしょう。精神とは、「差異」の運動である、と僕は思っています。
ともあれ、われわれの時代は、生首少年を生み出したのです。そのことの意味、というのはあるでしょう。
時代のせいでも親のせいでもない、ただの精神疾患だ、なんてよくそんな太平楽なことをいってられるものだ。
誰だって、精神疾患患者じゃないですか。
そして、誰の責任だとも思わないが、時代も、親も、クラスの仲間も、学校の先生も、不可避的にそういう精神が生まれてきたことに関わっているでしょう。そういう精神が生まれてくる「状況」というものがあったでしょう。
自分だけ無傷であるような顔して生きてゆくことなんか、僕にはできない。だいいち無傷の精神なんて、魅力的でもなんでもない。
薬のせいだろうとなんだろうと、彼の精神がそういう方向にずれていってしまったことにはそれなりの状況があったのであり、それはそれで、ある輝かしい精神の結晶体だと僕は思っている。
そんなことがあっちゃ本当に困るのだけど、平気で首を切り落とすことのできる誇り高い精神というのは、やっぱりあるでしょう。シーザーや義経がそれをやれば高貴で、現代の田舎の17歳がやれば、ただの精神疾患ですか。
冗談じゃない。平気で首を切り落としているときの精神がとらえる、ある世界の風景。この世界が自分ひとりのものであるような、自分ひとりしかこの世界に存在しないような、そういうエクスタシーは、17歳だろうとシーザーだろうと中世の合戦の武士だろうと、みな同じでしょう。
歴史の本で読めば、それは絢爛たる絵巻物のロマンで、現代の田舎の十七歳がやれば、ただの精神疾患だなんて、イメージ貧困もいいとこだ。
古事記ヤマトタケルだって、自分のお兄さんをもっと残虐に殺している。古代の奈良盆地の人々は、誰もそれを、ただの精神疾患だとは思わなかった。この世界のどこかでは、そういうことも起こりうるのだ、と思っていた。むしろそれは、「カミ」に近い行為だと思っていた。
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人が人の首を切り落とすことには、それなりの、誇り高さや、相手への愛着や、ただの物体に見えてしまうめまいや、そういう精神の運動というものがあるでしょう。ただの特殊な精神疾患ではなく、普遍的な人間精神そのもののかたちとして、われわれに訴えかけてくるものがあるでしょう。
17歳の精神がそういう方向にずれていってしまったことは、精神の可能性であって、疾患ではないのだ。いや、現代社会では、それを「疾患」と呼んでいるだけのことだ。
自分の精神がまともであるかぎり、そんなことはぜったいにしない、と思えるほど僕は、自信家でもないし、あつかましくもない。また、しないでいられるように社会が守ってくれていると思えるほど、社会を信用してもいない。
自分は、精神疾患になどならなくても、あたりまえの精神状態でそれをしてしまうかもしれない。そして、ぞくぞくする快感を味わってしまうかもしれない。そういう気分で生きている人は、いくらでもいるはずですよ。
誰もかもが、あたりまえの精神ならそんなことはしない、と多寡をくくっていられるほど、幸せであつかましく生きているとはかぎらないのですよ。
まあこの世の中は、けろりと精神疾患で済ませてしまえる人たちのものですからね。そういうことにしておけばいい。
どいつもこいつも、自分だけは無傷のような顔をして、雑駁なことばかり考えやがって。
文句がある人は、いつでもどうぞ。
首を洗って待ってます。
陸上女郎、がんばれ。