団塊世代に人気がなかったザ・フー・4

けっきょく僕にとってザ・フーを考えることは、この社会における若者という存在とは、と問うことです。
若者は、この社会における「異人」です
この社会は、みずからの内部に差別(=排除)の対象としての「異人」を置くことによって機能している。
ちび、でぶ、ぶす、きちがい、めくら、つんぼ、幽霊、お化け・・・・・・みんな、この社会における善男善女の定住を正当化するために存在させられている。この社会では、平均的で味も素っ気もない人間が、まっとうな人間であるらしい。
そしてこの社会とも家族とも離れた場所に立った「若者」という存在のかたちは、誰もが人生の中で一度は体験しなければならないポジションであるということにおいて、もっとも普遍的な「異人」であるともいえる。
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では、なぜ社会は、そうやって差別(=排除)の対象を持とうとするのか。
それは、人間の心が動いているものだからだろう、と思えます。
幸せとは、「幸せになる」ことであって、「幸せである」状態のことではない。そんな「状態」など、退屈なだけである。人は、「幸せになる」という動態において、喜びを感じるのだ。
心が動くことが、生きてあることの証しだ、といえるかもしれない。
そして、心が動くことの契機は、「幸せになりたい」という欲望にあるのではない。幸せ=状態など、ただの退屈であり、心のはたらきが衰えてしまっている状態に過ぎない。この世に幸せしかなかったら、退屈なだけだし、幸せを欲しがる契機など存在しない。
不幸がいやだから、幸せを欲しがるのだ。
不幸はいやだ、という契機がなければ、幸せを欲しがる心なんか生まれてこない。人間なら誰だって幸せになりたがっているのだ、とよく言うが、実は、幸せになりたがっている以前に、不幸はいやだ、という心がはたらいている。その「不幸はいやだ」という心が、普遍的なのだ。
われわれは、息苦しいから、息をする。空腹の状態は不快だから、飯を食う。快感原則、などというが、そうじゃない。心は、快感を欲しがるのではなく、不快から逃れようとするのだ。それが、生きる、といういとなみなのだ。
不快から逃れる、というかたちで心が動いてゆく。それが「幸せになる」ということであって、「幸せ」そのものに普遍的な価値があるのではない。「幸せである」状態など、「幸せ」でもなんでもないのだ。
「幸せ」とは、「不幸から逃れる」ことであって、「幸せである」状態のことではない。
だから人は、不快な存在としてのそうした「異人」たちを差別(=排除)せずにいられないのだ。
心は、動いている。動いているのが、心だ。
社会の大人たちは、不幸な人を差別してゆくことによって、みずからの幸せになろうと動いてゆく心を紡いでいる。大人たちのそういうやり口を、「マイ・ジェネレイション」では、「あいつらのやってることって、すごく冷淡さ」と言っている。
社会に対する孤立感の中に立たされている若者は、そういう構造を、直感的に感じてしまうのだ。
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若者は、この社会の大人たちにうんざりしている。人生でいちばん、大人たちにうんざりしている時期です。彼らは、大人たちとは違う価値観で行動し、大人たちが欲しがってやまない美しい肉体を持っている。大人なんて、心も体も醜い、と思っている。そう気づいてしまった。
彼らは、社会からも家族からも疎外された場所に立ち、この社会の「異人」として存在している。その孤立感ゆえに、ひとりぼっちじゃいられない気分でストリートに集まってくる。
一方大人たちは、社会の中でみなと共存している鬱陶しさを自覚するがゆえに、みなを置き去りにして、みなよりも高い社会的地位や財力や幸せやらを得ようと躍起になっている。みなを押しのけ、より高いポジションの「ひとり」になることを目指して行動している。
だから若者たちは、そういう行為や姿を、「マイ・ジェネレイション」の歌詞にあるように、「あいつらのやっていることって、すごく冷淡さ」と思って眺めている。
孤立していないやつらの冷淡さ、そういうものを、若者たちは身にしみて感じている。
孤立していない大人たちの心が「動く」ためには、差別=排除が必要である。その冷淡さに、ひとりぼっちじゃいられない若者たちはうんざりしているのだ。
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定住して共同体をいとなみ、社会の構造が安定してくれば、その構造にはめこまれた大人たちはもう、自動的に生きてゆけるようになる。自動的に生きてゆければ、それはそれでありがたいことであるが、心が動かなくなり、空虚になってくる。
彼らは、自動的に生きられて、しかも心が動くための装置を必要としている。そのためには、自動的に生きられないことを差別=排除していく心のはたらきを動力源とし、つねに自動的に生きられることを目指し続ける心になってゆけばいい。
社会から差別=排除される「異人」たちは、自動的に生きられなくされてしまっている人たちです。
最初から群れの中にいる大人たちは、自動的に群れにはめこまれて存在している。しかし「異人」たちはみなひとりぼっちだから、ひとりぼっちじゃいられないという孤立感を抱えながら、群れの外部から群れと関係を持ってゆく努力をしていかなければならない。
乞食は、物乞いして、恵んでやるという満足感を大人たちに持たせてやることによって、はじめて社会の外部の存在であることの許しが得られる。乞食は、つねに社会の外部の存在として、社会の大人たちが自動的に生きてゆくための道具にならなければならない。つねに社会の外部に立たされ、自分が内部の人間として自動的に生きるということは、けっしてできない。
若者だって、大人と同類の仲間としてではなく、大人より一段低い人種として、大人にこき使われたり教えを乞うたりしてゆかなければ、飯の種にはありつけない。
大人より美しく、大人より誠実に生きているつもりなのに、大人から差別されなければならない。そりゃあ、そんなの理不尽だ、おまえら冷淡だ、と思ってしまうでしょう。
乞食が、社会=大人たちと関係を持つ異人だとすれば、若者は、社会=大人たちとの関係すらも拒否して自分たちだけの社会をつくっていこうとしている異人たちです。
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異人にも2種類の生きかたがある。不具者としての異人の多くは、社会の底辺でさまようしかないが、社会の外に出て、堂々と自分たちの社会をつくってしまう異人たちもいる。
日本列島の歴史におけるサンカとか土蜘蛛とか熊襲とか、そういう山の民は、つまるところそこで自分たちの社会をつくっていった人たちであったはずです。
民話だのなんだので、里の者がどんなに自分たちの優位性を語っても、日本列島の歴史は、「神隠し」というかたちで、山の民に誘惑されてしまう若い娘は絶えることがなかったのです。
それは、大人たちが、ストリートの少年たちを指して「あいつら、ろくなもんじゃない」と言っても、ストリートに吸い寄せられてゆく少女がいくらでも生まれてくるのと一緒です。
社会にはめこまれた大人ほど、社会や時代を嘆きたがる。社会にはめこまれてあることなんか鬱陶しいに決まっているのだから、社会を嘆くことでしか社会にはめこまれてあることはできない。社会(共同体)にまるめこまれた思想の持ち主の大人ほど、社会(共同体)を嘆きたがる。そんな大人に育てられた少年少女が、ストリートに向かわないはずがないでしょう。
つまり、里の村は、すでにみずからの内に、「神隠し」に遭うほかない構造を持っているのだ。山の民は生まれた赤ん坊を片っ端から食ってしまう人種なんだぞ、というような語り口の民話はいくらでもある。それは、そこまで言わないといけないほど、里の娘にとって山の民の男は魅力的に映ってしまい、里の男たちがつまらなく見えてしまう構造があった、ということを意味している。
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そのようないわゆる「山人伝説」は、共同体のアイデンティティを維持するための装置として機能していたのだ、というのが一般的な解釈だろうが、共同体のアイデンティティは、そんな単純なものではない。それは、維持されるべきものではない。共同体のアイデンティティは、否定されることによってアイデンティティたり得る。共同体の内部に自足して自動的に生きてゆくのではなく、自動的に生きてあることを否定して、自動的に生きようとし続けることがアイデンティティなのだ。
共同体のアイデンティティは、共同体を肯定することにあるのではなく、共同体を否定しつつ、同時に共同体を否定する存在である外部の異人の、その否定性をさらに否定してゆくことの上に成り立っている。
べつに、ここにいたいのではない、もっとあっちには行きたくないだけなのです。
里の村という共同体は、共同体を否定する山の民の存在を必要としている。彼らは、共同体を維持肯定しようとしているのではない。みずからの共同体を否定しつつ、みずからの共同体を否定する他者をさらに強く否定してゆく。みずからの共同体は否定するほかないがゆえに、もっと強く否定することのできる山の民の存在が必要なのです。
まず息苦しいとか空腹だと思うように、心は、「否定する」というかたちからしか動いてゆかないのです。
おらが村がいちばんだと思っても、それが生きてゆく励みにはならない。おらが村を嘆くことからしか、心は動いてゆかないのだ。おらが村は娘が神隠しにあってしまうくらい、情けなく不幸な村だ。しかしそれも、山の民せいだ。あいつらはお化けだ・・・・・・村のアイデンティティは、おらが村がいちばんだと思うことにあったのではなく、あくまで、あいつらはお化けだという嘆きにあった。心は、「嘆き」を持つことによって、はじめて動き出す。おらが村がいちばんだと思いたいのなら、嘆くしかないのです。嘆くことの向こうにしか、いちばんだという思いはあらわれてこないのです。
みずからの共同体(おらが村)を否定しながら娘を育てるから、娘は山の民に誘惑されてしまうのだ。
そしてそういう歴史的な無意識を引き継ぎながら社会や時代を嘆いて(否定して)自分だけ偉いかのように振舞う大人たちの態度から、ストリートの少年少女が生まれてきている、ということです。
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ビートルズが里の男女の恋を歌ったとすれば、ザ・フーはあくまで山の民、すなわちストリートの若者の魅力や嘆きを描写することにこだわった。
また、そういう少年少女を表現するソングライターとしてのピート・タウンゼントの手腕は、信じられないくらい水際立って鮮やかだった。それは、もしかしたら彼の才能だけの問題ではなく、ザ・フーのメンバー4人のキャラクターが奏でるアンサンブルから生まれてきたのかもしれない。
ピート・タウンゼントの聡明さと若々しい思い切りのよさ。ベーシスト・ジョン・エントウィッスルのイギリス人らしい皮肉たっぷりの怪奇趣味。ドラマー・キースムーンの幼児的不安と、やけっぱちの獣性。そしてボーカリストロジャー・ダルトリーの、無垢な鬱屈と、いかにもひとくせありそうなストリートの美少年を思わせる風貌。ピートがそれらを、鮮やかにコーディネートしながら、つぎつぎにストリートの少年少女の魅力と嘆きとして造形していったのだ。
ザ・フーは、ビートルズの4人とは明らかにキャラクターのアンサンブルが違っていたし、ずっと鮮やかだった。