人類はなぜ地球の隅々まで拡散していったのか

先日、興味深いタイトルの本を見つけ、さっそく読んでみました。
「人類史のなかの定住革命」西田正規・著(講談社学術文庫
人類はなぜ地球の隅々まで拡散し住み着いていったのか、ということが書いてあると思ったのです。もちろん著者もそれを書いたつもりなのだろうが、しかし、いまいちぴんと来ない。ステレオタイプ因果律の解釈を振り回す表現や説明が鼻について、読みながらだんだんいらいらしてきました。
けっきょく、研究者の思考レベルというのはこのていどのものか、ということを、あらためて思い知らされただけでした。
著者には何の恨みもないのだけれど、しばらくこの本の内容を検証していってみようと思います。
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まず、人類の直立二足歩行の起源は「敵を追い払うために、いつも棒と石を手に持って行動していたからだ」と書いてあります。
どうしてこんな漫画みたいなことを、本気になって主張できるのだろう。これが、正規の学説としてひとまず通用してしまうのですからね、研究者の世界というのは、まったく、どういう仕組みになっているのだろう。
著者の説明するところは、こうです。
人類誕生前夜の数百万年前、アフリカの森林に棲息していたのは、大型の猿(体重40キロ以上)と小型の猿(体重10キロ以下)ばかりで、両者は、著しく生態が異なり、棲み分けができていた。しかし、人類の祖先である猿だけは、やっかいなことに中型だった。そしてこの猿は、大型の猿の中でももっとも多種広範囲に分布していたオナガザル類と生態やテリトリーが重なることが多く、つねに衝突の緊張をはらんだ関係にあった。
で、人類の祖先は、体の小ささを補うためにいつも棒と石を手に持ち、その敵を追い払いながら生き延びていったのだとか。
まったく、漫画ですよね。
猿の棒を振り回す能力なんて、ただむやみに振り回しているだけで、正確に相手の体の狙った部分にヒットすることなんか、ほとんどないでしょう。それに、それほどの威力もない。より大きな相手にすれば、手で振り払って接近戦に持ち込めばいいだけです。ただの猿の、相手を棒でやっつける技術が現在の人間のレベルまで到達するまでに、いったい何十万年何百万年かかっていることか。そのためには、直立二足歩行の習熟はもちろんのこと、それがうまくできるような身体部位のバランスや空間感覚を、気が遠くなるほどの時間をかけて獲得していかなければならないのです。昨日まで四足歩行していた猿が、立ち上がっていきなりできることじゃない。
石を投げることだって同じです。チンパンジーがやっているのを見たかぎりでは、ちゃんと相手に当たるようなレベルではない。昨日まで四足歩行だった生き物が棒や石を武器にできるまでには、10万年や20万年でもまだ足りないくらいなのです。
つまり、そんなことをしても、確実に体力が劣るのなら、早晩滅ぼされるに決まっている。まだ直立二足歩行に習熟していない段階の自分より小さい猿が、ふらつきながら棒を振り回したり、当てずっぽうに石を投げつけてきても、怖くもなんともない。
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また、群れのなかの順位争いも、棒を振り回してやっていたのですかね。それがエスカレートしたら、ほとんどが殺し合いになってしまうでしょう。ただの体力勝負なら、どうしようもなく叶わないということはすぐわかるけど、武器を持っていたら、弱いがわにもつねに一発逆転のチャンスがあるから、そうかんたんには決着がつかない。それに、後ろからの不意打ちということもあるから、もう戦った相手は確実に殺しておかなければならない。
まわりの誰もが、自分を殺せる武器をぶらぶらさせながら行動している・・・・・・生まれてから死ぬまでそんな緊張状態で過ごしたら、間違いなく発狂してしまいますよ。現代の兵士だって、2、3ヶ月戦地にいて頭がおかしくなってしまう人がいくらでもいるというのに。
まったく、年中棒や石を持って行動している猿の群れなんて、きちがい集団ですよ。年中棒や石を持っていなければならない緊張に、一生耐え続けられる生き物なんかいないのだ。子供だって、ちょっといたずらしただけでも、がつんと棒で殴られるのでしょうかね。持ってりゃ、殴ってしまうでしょう。
そこで著者は、次のように言う。
「この内なる危機への対処として、人類の社会にはさらに確実に安全を確保する必要が生まれた。分配や家族の形成、そして言語の使用を、私は、道具を持ち歩くことによって生じたこの危機を何とか回避しようとした人類社会の解答であったと推測するのである」
しかし、こうした人間独自の文化的な生態がかたちを成してくるのは、直立二足歩行をはじめて何百万年もあとのことです。そのあいだ、どうしていたのでしょう。あとから安全を確保するような生態や文化をつくっても、遅いのです。その前に自滅している。もし棒や石を持って生きてゆく習性が生まれたのなら、そのときすでに安全確保の習性を持っていなければならない。持っていなければ、それは、習性として定着していかない。この著者の言うことは、話が逆なのです。おそらく直立二足歩行をはじめたころの人類は、武器などというものを持って群れを維持してゆけるような生態や文化はまだ持っていなかった。そんなことができるようになったのは、ここ数千年のことでしょう。
直立二足歩行をはじめるということは、昨日まで四足歩行していた生き物にとっては、その不安定な姿勢を受け入れることであり、戦いの能力をさらに減衰させることであったのです。ちょっと足をかけられただけで、すぐひっくり返ってしまうのですよ。しかし、そういう弱い生き物になったからこそ、そこで、仲良くして分配しあったり言葉が生まれてきたりというような、人間独自の「関係=社会性」が生まれてきたのだ。
ふらふらしながら棒を振り回したって、無駄なのです。とにかく人類の直立二足歩行は、そのレベルからはじめたのです。いきなり無敵になるなんて、そんなことがあるはずないじゃないですか。なれるなら、オナガザルだろうとチンパンジーだろうと、当然のように棒や石を持つことを始めていますよ。
また、群れをどうこうするために家族という形態をつくったなんて、愚劣な発想です。家族になってしまうような男と女の関係ができてきたからでしょう。250万年前にアフリカのサバンナに出てきた人類は、群れが解体した結果として、「家族」を持ったのです。群れを維持する、という事情に要請されたのではない。現在でも、ブッシュマンなどのプリミティブなサバンナの民は、家族的小集団で行動して、群れなど持っていない。家族どうしのネットワークがあるだけです。そしてそれは、家族の維持のために機能しているのであって、ネットワークのために家族があるのではない。
家族は、群れが解体されたり、大きくなりすぎた群れが鬱陶しくなった結果として、男と女がみずから家族になっていっただけです。群れの利益のためなんかじゃない。
この著者は、男たちに女を平等に分配して群れの平和を保つために家族が生まれてきた、というようなことを言っているのだが、そうじゃない、ようするに男と女が勝手にくっついてしまったのです。著者の言うような論理は、人類が定住して共同体(国家や都市)が生まれてきた後の時代になってからの話です。そんなことは、原因じゃなく、結果なのだ。
人類の家族は、最初から一夫一婦制だったのでない。アフリカで生まれた人類最初の家族は、誰にも邪魔されずにたくさんの女を独占することのできる装置だったのです。だから現在でも、アフリカには、たくさんの一夫多妻の家族が存在する。群れの「順位」よりも、家族内の父と息子、兄と弟の「順位」のほうがはるかに安定して不変ですからね。
家族の誕生は、著者が言うような単純な因果律で説明できることではない。
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弱い生き物が、武器を持って武力で生き延びようとすれば、かならず自滅する。それは、歴史が証明していることであり、そんな例ならごまんとある。オナガザルを追い払えるなら、そのうちもっと強いチンパンジーやゴリラも、さらにはライオンさえも追い払おうとするようになってゆくのでしょうか。そんなかわいげのない生き物は、いつか誰かにやっつけられる。
弱い生き物が、逃げたり隠れたりする習性を磨かないで生き延びた例など、ひとつもないのだ。その後サバンナに出てきた人類だって、大型肉食動物から逃げたり隠れたりして生き延びてきたのです。現代のアフリカ人の際立った身体能力は、そういう能力であるはずです。言い換えれば、そういう能力と習性を育てながら生き延びてきたから、サバンナの生活にも適応してゆくことができたのでしょう。それとも、追い払うことばかりして生き延びてきた200万年前の人類は、ライオンを追い払う武器も持っていたのでしょうかね。
この本のしょっぱなの書き出しは、こうです。
「不快な者には近寄らない、危険であれば逃げてゆく。この単純極まる行動原理こそ、高い移動能力を発達させてきた動物の生きる基本戦略である。」
だったら、直立二足歩行だって、そういう行動原理から生まれてきたのでしょう。石や棒を持って立ち上がった、ということは、そういう行動原理を捨てた(喪失した)ということですよ。他の類人猿よりもはるかに高いそういう行動原理をそなえて地球の隅々まで拡散していった人類が、最初はそれとは逆の行動原理で立ち上がっていったというのでは、話がいいかげんすぎるじゃないですか。つまり、石や棒を持って追い払う習性を持った猿が地球の隅々まで拡散してゆくことなどあり得ないのだ、ということです。
また、こうも言っています。
「ある時から人類の社会は、逃げる社会から逃げない社会へ、あるいは逃げられる社会から逃げられない社会へと、生き方の基本戦略を大きく変えたのである。この変化を『定住革命』と呼んでおこう。およそ一万年前、ヨーロッパや西アジア、そしてこの日本列島においても、人類史における最初の逃げない社会が生まれた。」
棒や石を持って敵を追い払うなんて、まさに「逃げない社会」そのものでしょう。人類史における最初の逃げない社会は、数百万年前の直立二足歩行をはじめたときに生まれた・・・・・・著者の論理に従えばそうなるのだ。しかし著者は、この自己矛盾を認めないのでしょうね。
人類の定住は、「革命」でもなんでもない。遊動生活(漂泊)の延長として住み着いていったのだ。定住それじたいが、ひとつの遊動生活(漂泊)だったのだ。まあ、このことは、ひとことではいえないですけどね。おいおい書き継いでゆければ、と思っています。
研究者のように、偉くなろうと競争ばかりして生きてきた人たちからすると、原初の人類も戦って生き延びようとすることばかりやっていたという想像もすんなり現実味を持って浮かぶのでしょうかね。われわれだめ人間の頭には、つゆほども浮かんでこない。
しかし僕だって、直立二足歩行のレポートの200枚や300枚くらい、いつでも書けますよ。しかも、こんな漫画じみた論理ではなく。
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この著者は、「何々するために、何々をした」・・・・・・そういう安っぽい合目的的因果律で何もかも説明しようとする。かっこつけて偉そうにいっても、人間にたいする理解のレベルが低すぎるのです。
スピノザは「歴史に原因などというものはない、結果があるだけだ」と言っている。このことが普遍的な真理かどうかはわからないが、この言葉の意味するところは、深く重い。歴史学者がいちばん考えないといけないことなのに、歴史学者がいちばんわかっていない。
小林秀雄だって「太平洋戦争は、日本人が背負ってしまった無残な運命だったのであって、ただ反省すりゃいいってものでもない」と言っている。つまり、りこうぶって反省しているひまがあったら、深く悲しめ、と。歴史が人間をつくっているのであって、人間が歴史をつくっているのではない。だから、もう二度と戦争をしない、などというような思い上がったことは誰にもいえないはずだ。戦争は、ある「状況」がもたらされれば、避けがたく起きてしまうのだ、歴史とは、そういうものだ、ということです。
話が脱線しそうなので、今日はこれでやめます。