山の民と海の民・ネアンデルタール人と日本人・94


原初の人類拡散は、広いところに出てゆくムーブメントだったのではない。誰もが知らないものどうしの集まってきている空間に「もぐりこんでゆく」ことによって、そこに新しい集団が生まれていった。
知っているものどうしの集団なら、何も「もぐりこんでゆく」という心の動きを持つ必要もないが、知らないものどうしの集団に参加してゆくためには、そうはいかない。誰もがそういう「山の中に入ってゆく=もぐりこんでゆく」という体験をする現象として新しい集団が生まれる。
まわりのことはよくわからない、目の前のその人とときめき合うことだけがそこに参加していることの確証である。みんながそういう体験をしながら集団になってゆく。
「広いところに出てきた」というような体験ではない。「もぐりこんでゆく」体験なのだ。
人間の知性や感性は、この「山の中に入ってゆく=もぐりこんでゆく」という体験によって発達してきた。
そこでは誰もが身寄りのない存在であり、だからこそより豊かに他者にときめいてゆき、その体験が集まって新しい集団になってゆく。



それはまあ、ひとつの「探求する」という体験だったのだろう。人類が石器をはじめとする道具をどんどん改良してゆき、新しい道具も発見発明していったのは、いわばもぐりこんでゆき探求してゆくという体験だったはずである。
縄文人が山の中に入っていったことだって、そういう人類の普遍的な生態からくる体験だったといえる。
したがって、縄文人の知性や感性が停滞していたということはありえない。彼等の探究心は旺盛だった。そうやって漆の精製や米作りをたちまち自前で覚えてしまったし、土器の表面にさかんに装飾を施すということを繰り返しながらやがてあの絢爛豪華な火焔土器を生み出していったりもした。縄文人は、子供のおもちゃから楽器にいたるまで、じつに多種多様な土器を作っていた。
縄文時代の米作りが広く伝播しなかったのは、山の民がしていたことだったからだ。弥生時代になって山の民が平地に下りていったことによって、はじめて広がっていった。日本列島の米作りは、山の民がはじめたのだ。べつに大陸の人間に教えられてはじめたのでない。
そして山に米作りの伝統がなければ、現在の「棚田」の風景はおそらく生まれていない。
山の民はくるおしい探究心を持っているし、それはまあ日本人全体が共有しているメンタリティだともいえる。
農民だって、もともとは山の民だったのだ。だから、鎮守の森をつくらずにいられなかった。彼らは、鎮守の森に「もぐりこんで」祭りを催していった。そこは、どこからともなく人が集まってくる場所だった。



縄文時代の文化は、山の民がリードしていた。漆の精製も米作りも彼らがはじめたのだし、もともと日本列島の住民全体が、人類拡散の「もぐりこんでゆく」という生態を顕著にしながらこの行き止まりの地にたどり着いた人々だった。
そのなやましくくるおしい探究心は、日本人全体が共有していた。
数万年前、アジアのいろんなところから集まってきた日本列島の住民の祖先たちは、海(太平洋)を前にして、どんなことを思ったのか?
もちろん、折口信夫がいうような「海の向こうに神の国がある」という感慨を抱いたはずがない。
「われわれはもうどこにもゆけない」と思っただけだろう。
日本列島の歴史が海に対する親しみからはじまったと思うと間違う。海を前にした絶望・断念からはじまっているのだ。
「海の向こうから神がやってくる」などという話は、おおむね平安時代以降の浄土信仰とともにさかんにつくられるようになってきたにすぎない。
日本列島の海の説話の原型を想像するなら、「浦島太郎」とか古事記の「海幸・山幸」の話が浮かんでくる。
「竜宮城」は、「海の向こう」ではなく「海の底」なのである。
釣針を失くした山幸が下りていった海の底は「わたつみのいろこのみや」という。これは「海の底に存在する楽園」というような意味であり、「わたつみ」とは一般的には「海」とか「海の広がり」いうような意味に取られているらしいが、そうではない、「海の底」という意味なのだ。「み」を「海」のことだとすれば、「わた」は、「はらわた」とか「ふとんのわた」というように「中身」のことであり、すなわち「海の底」のことだ。
古代の日本列島の住民が海の底に「みや=楽園」をイメージしていたということは、「海の向こうには何もない、海の向こうになんか行けない」と思っていたことを意味する。
しかし、海にもぐるということは、さかんにしていたらしい。やまとことばの古型としての「海人(あま)」とは、「海にもぐる人」という意味だった。
ちなみに、古代の中国には「海にもぐる」という習慣はなかったらしい。
「ま」という音韻には、「もぐる」というニュアンスがある。だから「間(ま)」ともいう。
「山(やま)」の「ま」も、おそらく「山の中」というニュアンスなのだろう。「山の姿」と解釈していた僕は、間違っていたのかもしれない。
というわけで、上代の日本列島の住民は、海の底にたいする親しみはそれなりに抱いていた。それは、海の向こうに対する関心がなかったからだし、むしろ「絶望・断念」の思いがあったからこそ海の底にもぐっていったのだろう。
海の民だってやはり「もぐりこんでゆく=山の中に入ってゆく」というメンタリティで生きていたのだ。



漁師が海に船を出すのは、ひとつの「賭け」の行為である。漁の成果は相手次第だし、時化て戻れなくなることだってある。その「賭け」になぜ挑むことができるかといえば、未来に対するひとつの「絶望・断念」の心を持っているからだ。
海の民は、人と人の絆に対する意識が希薄である。だから、付き合い方が悪くいえばわりと雑駁になる。言葉遣いもどちらかというと荒い。そして女の貞操観念は薄いし、子供は性的に早熟である。
海に漕ぎ出すことは「賭け」であって、海に対する親しみではない。ましてや「海の向こうに神の国がある」というあこがれからでもない。沖に出て時化(しけ)に遭うという恐怖を体験すれば、そんなのんきなことは考えていられない。
海に予定調和の秩序などない。海に漕ぎ出すことは「賭け」であり、「賭け」の醍醐味がある。
古事記の「スサノヲ」は、もともと南紀の海の神だったといわれている。海の民にとっての海は、そういう恐ろしいところでもあった。
海は怖いところだということを承知で漕ぎ出すのだ。漁師が祀る神社は、海の神の怒りを鎮めるためのものであって、海の向こうの神の国に対するあこがれではない。海の恐ろしさを骨身にしみて知っているのに、それでも漕ぎ出す。彼らは「賭け」をすることができるメンタリティを持っている。まあ、農民のような田や畑で作物を育てる心配を背負っていない、ということだろうか。



いずれにせよ日本列島の住民は、絆に対する意識が淡い。おそらくそれは、水平線の向こうに対する「絶望・断念」から歴史がはじまっているからだろう。だから、山の中の縄文人たちの家族や男女の絆は、とても淡いものだった。
共同体の制度が発達すれば、とうぜん親族意識や村の絆の意識も強く持たされる。それでも日本列島の住民の絆の意識は、韓国や中国よりも淡い。
なのに、戦後の核家族はタイトな絆をつくってしまい、さまざまなトラブルを抱え込んでしまった。まあ、たとえ核家族でも絆を淡くしておかないと日本人は耐えられない。
日本列島の住民のメンタリティには、他愛なくときめき合ってゆく人恋しさと絆の意識の淡さが同居している。
人類拡散の通過点の地域では異分子を吐き出して絆を強めてゆくという動きも起きてくるが、日本列島のような行き止まりの地域では、雑多な人間の離合集散が繰り返されてきただけである。そうやって、絆の淡さと人恋しさが同居するメンタリティになってきた。しかし日本的なこの人と人の関係のなやましさは、絆をつくるか排除するかの二者択一の関係になりがちな通過点の地域の人たちにはわかるまい。
水平線を眺めるときの「もうどこにも行けない」という「絶望・断念」と、だからこそ「今ここ」で他愛なくときめき合ってゆく人恋しさ、ここから日本列島の歴史がはじまっている。



海の民が海に漕ぎ出すことは、陸地における人と人の絆から離れてゆくことである。海の上は、陸地とは別世界なのだ。その、この生に対するなやましさとくるおしさは、けっして山の民と別のものではあるまい。山の猟だって、相手次第だし戻れなくなってしまうリスクも負っている。まあ、その絆から解放されたいという願いの「なやましさとくるおしさ」においては、最初から閉じ込められて暮らしている山の民の方がもっと濃密に持っている。だから、上代の日本列島の文化は山の民がリードしていた。
山の中もまた、平地とは別世界である。
なぜ海の民ではなく山の民がリードしていったかといえば、海の非日常性よりも山の中の非日常性のほうがより切実に日本人の胸に響いたからだろう。海なんか、海の民でもべつに好きではないのだ。海は、日本人のあこがれではなかった。人間が自由に海を往来できるようになったのは近代になってからのことで、海に対する「絶望・断念」こそが日本文化の基礎になっている。
海の民も山の民も、意識が「非日常」の世界に入ってしまうという体験をしている。そうするともう、絆の意識も淡くなってしまう。このメンタリティが、日本中を覆っている。絆の意識が淡く絆から開放されたいという願いがあるから、ふらっと旅に出たくなってしまう。



門付け芸人とか旅の僧とか、日本列島の漂泊の民は、歴史的に海の民と山の民が多いらしい。どちらも「非日常」の意識を濃く持っているから、芸能とか宗教活動には向いているのかもしれない。
そして古代・中世の街道はほとんどが山道だったから、漂白の旅に出るということはそのまま「山の中に入ってゆく」ということでもあった。たとえ海の村の出身でも、漂泊の民はみな山の民だった。山の向こうから村にやってくる。
何はともあれ日本列島の文化は、縄文以来、山の往来とともにつくられてきた。
旅人は、「非日常」の気配を携えてやってくる。そうやって鎮守の森や寺や旅籠の賑わいを活性化して歩き、日本中が「非日常」の気分に覆われてゆく。
また村人は村人で、旅人(山の民)をもてなす作法を持っていた。その相互関係で、縄文以来の日本列島では、列島中で同じ気分が共有されていった。
旅人をもてなすことは「非日常」に意識を向けることだった。
村人にだって、「非日常」に入ってゆく心の動きがあった。だから、大家族にして人と人の絆を淡いものにしておこうとする習俗も持っていた。権力によっていろいろひとかたまりになるように強制されていったが、それでも淡い部分を残しながら人と人の関係をやりくりしてきた。
けっきょく、日本列島の文化は、山の民がリードしてきた。中世までは山の往来として人が動いていたのだから、人々の意識はつねに「山の中=非日常」に向いて歴史が流れてきた。
海はあくまでも「絶望・断念」の対象なのだ。だから、演歌の失恋の旅は海に向かう。



海の村にも、山を越えて芸能が伝わってくる。そして海の村独自の芸能が生まれてきたりもした。山の中や海は芸能に対する関心が高まる非日常の空間だから、そこで神社を拠点にした多くの芸能集団が組織され、まわりの村々をまわるようになっていった。そうして町(都)に出てきて門付けをしたり寺社のお抱えになったりし、そこから山の民による能という芸能が生まれてきた。
日本列島の農民のほとんどは、弥生時代になって山から下りてきた山の民の末裔だった。人々は、山の中の気配に心ひかれた。日本人のほとんどは、鎮守の森が好きだった。そして、海の民ですら鎮守の森をつくりやがてそこから漂泊の旅に出ていったということは、彼らもまた「山の中に入ってゆく」ということにあこがれたのだ。
古代以来、日本列島の舞の主役は女だった。おそらく弥生時代の巫女の舞が源流なのだろう。その巫女たちが中世以降には日本列島を漂泊するようになり、各地の農村の田楽を育て、都に出て寺社のお抱えになって猿楽の舞を育てていった。そうしてその女たちはまた白拍子という高級娼婦になったり山の娼婦の里に入り込んだりもしていった。
古代・中世において、舞は、娼婦の素養だった。そこから、江戸時代以降の芸者という職業が生まれてきたし、飯盛り女にだってそうした素養はあった。だから今でも、並みの芸者よりもずっと粋な雰囲気を持った旅館・料亭の仲居がいたりする。
いずれにせよ、能の舞は、そう激しく動くわけでもなく、どちらかといえば女性的だろう。日本列島の舞の基礎は、女がつくった。縄文時代、山の中の小さな定住集落に閉じ込められていた女たちは、体を動かすことに対するあこがれがあったのだろうか。その舞の作法は山の中の身のこなしをもとにして成り立っており、おそらく舞は、旅人の訪れをもてなす作法だったのだろう。そして、舞それ自体が、漂泊の旅へのあこがれを表出するものだったのかもしれない。まあ能舞は、そういうコンセプトの上に成り立っている。日本人は、そういうメンタリティの伝統をずっと引き継いできた。
その「山の中に入ってゆく」という漂泊の旅へのあこがれは、絆に対する意識の淡さと人恋しさから生まれてくる。



日本列島の歴史は、もともと漂泊の旅が好きな者たちが集まってきたのがはじまりだったわけで、それが地球の隅々まで拡散していった人類の普遍的な生態でもあった。
山の往来が日本人の文化をつくってきた。そのもとになったのは、日本人の絆の淡さであり人恋しさだった。
日本列島の住民は、「山の中に入ってゆく=非日常に向かってフェイクしてゆく」という心の動きを共有しながら歴史を歩んできた。
そして、戦後社会の「生活者の思想」や「市民意識」による「生活=日常」に耽溺してゆくというコンセプトは日常の無限遠点に向かってどこまでも自我意識を拡大してゆくことであり、それはもう日本人としての歴史意識を失った、きわめて危うい空騒ぎだった。いや、日本人としてだけでなく、人間としての根拠=自然を失った態度だった。たとえそれで高度経済成長を果たしたとしても、なんだかぶざまな顔つきした大人たちがやたらと増え、社会全体の人と人の関係も妙にギクシャクしてきて、さまざまな社会病理を生み出していたりもする。
日本人はけっきょく日本人であるしかないのだが、それなのに戦後社会においてはあまりにも日本人としての歴史意識から遊離してしまった。
乱暴な言い方になってしまうが、今なおはびこる戦後左翼による「生活者の思想」とか「市民意識」などといういいざまは、ほんとに愚劣だし、思考としても通俗的で程度が低すぎる。
われわれの願いは、生活や市民という絆からの解放にある。


10
「遠くの親戚よりも近くの他人」という絆の意識の淡さと人恋しさ、日本的なこのなやましさは、漂白の旅へのあこがれが基礎になっている。それは「山の中に入ってゆく」という旅であり、生きてあることそれ自体が「山の中に入ってゆく」という「非日常に向かってフェイクしてゆく」旅である。だから、その感慨のタッチは、一ヶ所の土地に縛り付けられている農民にもあった。
山の民も海の民も農民も町衆も武士も、みんながその感慨を共有しながら日本文化を紡いできた。
漂泊する人もいれば、それを受け入れもてなす人々もいる。受け入れもてなすということ自体が、漂泊の旅なのだ。縄文女の旅人の男たちを受け入れもてなす舞の作法は、それ自体が漂泊の旅の表出だったのであり、それが中世の能に引き継がれ洗練されていった。
絆の意識の淡さと人恋しさがなければ、サービスの文化は育ってこない。
おそらく明治以後に日本列島にやってきた西洋人は、日本人のそうした絆の意識の淡さと人恋しさに感動した。それが、人間という生き物の原型なのだから。
そのとき日本人は、日本国民という絆の意識など持たないまま、目の前の西洋人をあくまで人間として認識しながらみずからの人恋しさを表出していった。
国民という絆の意識がないのは反政府主義者かということになるのだが、日本人の場合はそうではなく、人恋しさが濃くてかんたんに人にときめいてしまうからこそ、国民という絆の意識に興味がない。
絆を意識しないと人にときめくことができないのは、文明人の病理である。文明とともに、家族とか親族とか共同体とか国家という絆が生まれてきた。
日本人の絆の意識の薄さは、ひとつの原始性である。海に囲まれた日本列島や、縄文人のように山の中に閉じ込められてあれば、絆など意識していたら鬱陶しくてたまらない。むしろ、絆の外に向かってときめいてゆく。絆の外に向かってときめいてゆくことが、旅に出ることであり、旅人を受け入れもてなすことである。この生態がなければ、人類の地球拡散など起きなかった。
この生態は、世界中の人間が、人類の歴史の無意識として持っている。それはまあ、日本的というより、人類普遍の原始性である。その普遍性をここまで洗練させてくることができたのは、日本列島が氷河期明け以降に絶海の孤島になってしまったからだろう。
日本人には、そういうアドバンテージとハンディキャップがある。
日本人であることと日本国民であることは違う。日本人は、日本国民にであるという自覚が希薄である。そういう絆に対する意識の淡さと人恋しさがある。


11
日本列島の住民にとっての海は「絶望・断念」の対象であり、縄文人はひとまず海のことは忘れて山の中に入っていった。
日本人は、「山の中に入ってゆく」という感慨を共有しながら歴史を歩んできた。
客が灰皿を探しているのを察知してさっと差し出す。それだけのことでも、絆を当てにしない心と人恋しさを持っていないとできないことである。芸者の何気ないそうしたサービスに西洋人は感嘆する。そのとき芸者の心は、べつに意識しているわけでもないのにふっとそういう一点に焦点が結ばれてゆく。それが「山の中に入ってゆく」というタッチなのだ。
日本語(やまとことば)は絆に対する意識が淡いから、一音一音たどたどしく発音する。そして一音一音たどたどしく発音するから、一音一音に人恋しさの感慨がこめられている。
そういう日本語のかたちが、どうしてどこかのよその国から移植されてきたのだといえるのか。
日本人みんなで、長い長い歴史の時間をかけながら一音一音の純粋で普遍的なニュアンスを抽出してきたのである。
日本語(やまとことば)には、日本人の絆に対する意識の淡さと人恋しさがこめられている。
そういう言葉とともに日本人は、「山の中に入ってゆく」というコンセプトの文化を育ててきた。
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