悪霊を鎮める・ネアンデルタール人と日本人・93


日本人と神道
日本列島のいたるところに鎮守の森がある。
それでも日本人はしかし、神道の教義がどうとかこうとかということにはあまり興味がない。
日本人のほとんどは、神道の教義など何も知らない。もっとも日本的な宗教であるはずなのに、キリスト教や仏教のことよりももっと知らない。拝み方すら知らない。
それでも、そこに神社があるということは、お寺や教会よりもめでたくありがたいと思っている。正月やお祭りは、なんといっても神社でないと格好がつかない。
日本人は、神社の宗教性など何も知らないまま、神社に対するとても親密な感慨を抱いている。まあ現在は、安産祈願とか豊作祈願とか学業祈願とか、いろいろ近代的文明的な欲望達成のための呪術装置としての役割を与えられているが、起源においては、ただ人が集まってきて華やいだ気分になってゆくお祭りの場所としての機能があっただけなのだ。だから、日本人の歴史意識として、神道の宗教としての教義などまるで関心がない。
ただもう、そこに人が集まってくることに対するあこがれとときめきがある。
日本人の心は、絆を信じたり当てにしたりする動きが希薄で、だからこそその外に向かう人恋しさも募る。
日本人にとって絆はむしろ鬱陶しいものである。家族もネットワークもどうでもいい、ただもう、どこからともなく人が集まってくる場に身を置くことこそいちばんのときめきである。
そういう絆からの解放の場として、日本中に鎮守の森が生まれてきた。



まあひとまず神道だから、神様がいる。たいていは「天神様」である。天神様とは一般的には菅原道真のことで、朝廷内の政争に破れて死んでいった菅原道真の怨霊を鎮めようとして祀り上げられていったのがはじまりだった。そうした「御霊信仰」が平安時代には大流行し、それとともに日本中に天神様の鎮守の森がつくられていった。
そのとき農民にとっては菅原道真なんかどうでもよかったのだが、「悪霊を鎮める」というコンセプトは嫌いではなかった。だから菅原道真だけでなく、その後さまざまな悪霊が鎮守の森に祀られていった。
べつに菅原道真の怨霊を鎮めたからといって、豊作祈願になるわけでも村の暮らしがよくなるわけでもない。しかし、この世界が悪霊に祟(たた)られていると思うことは、心がこの世界とは別の「非日常」の世界に入ってゆくことの契機になる。彼らには、この世界に生きてあることの嘆きがたくさんあった。
この世界を住みよいものにしたいという望みなどなかった。そんなことができるはずもなく、もうどうすることもできない。生きてあるかぎりついてまわる。だったら、その嘆きを忘れてときめいてゆく体験がしたい。
日本人の娯楽は、伝統的に「日常の憂さを忘れる」ということにあった。つまり、「非日常」に向かってフェイクしてゆくということ。だから、みんなで酒を飲めば無礼講のドンチャン騒ぎになってゆく。西洋人には、この他愛ない混沌が不思議であるらしい。
悪霊を鎮めることは、悪霊を忘れることである。まあ何かのご利益が欲しいというより、気持ちが「浮世の憂さ」を忘れる方向に向いてゆく体験がしたかった。
日本人は、ほんとうに「悪霊を鎮める」という信仰が好きである。悪霊など信じてもいないくせに、そんなことをしたがる。能にもこんな物語がたくさんある。
中世は末法思想の世の中だったし、土地に縛られている農民には生きてあることの嘆きはいくらでもあった。この世界は悪霊に祟られている、と思うほうが自然だった。
悪霊を鎮めたら豊作になるとか暮らしがよくなるという当てもないのに、なぜだか悪霊を鎮めるという信仰が好きだった。
まあ、悪霊に祟られていると思ったほうが、領主が悪いとか、なぜしがない百姓に生まれついてしまったのだろうとか、そんなどうにもならないことにあれこれ思い悩むよりも気が楽だったということだろうか。
言い換えれば、「悪霊を鎮める」というまさにどうでもいい「非日常」的な行為こそが、彼らを救いに導く唯一の可能性だった。
そうやって意識が非日常に向かってフェイクしていった。



日本人が霊魂がどうのというのは、霊魂に対する信仰でもなんでもない。菅原道真の怨霊など、農民にはなんの関係もないことだし、信じてもいない。それでも、ひとまず信じた気分になりながらその「悪霊を鎮める」というコンセプトの催しに寄り集まってゆくことは、彼らの心を「非日常」のときめきに向かって解放した。
何はさておいても、人々がどこからともなく集まってくるという祭りのイベントは、彼らの心を大いにときめかせた。
その「悪霊を鎮める」というコンセプトが吸引力になって多くの人が集まってきた。
ただの空騒ぎである。しかし、だからこそ誰もが興味しんしんで集まってきた。
豊作祈願とか、そういう日常生活の延長のような呪術では人々の心を動かさなかった。
人々は「日常生活を忘れたい」という心を共有していた。
中世以降に続々生まれてきた村の鎮守の森は、その時代の「ただ遊び狂え」という気分を象徴していた。「無常感」と言い換えてもいい。
村の絆をつくるとか、そんなためではない。



まあ現在においても農民は、村の絆などというものに執着している人種ではない。平気で足の引っ張り合いや抜け駆けをするし、そのくせ困っていればけんめいに助けもする。
日本人の、絆に対する意識は淡い。
江戸時代には権力から押し付けられた「五人組」などというたがいに監視し合う制度もあったらしいが、もともと日本列島の農民の村の絆に対する意識は淡い。おそらくそれは、彼らもまた弥生時代になって山から下りてきた人々の末裔だったからだ。
なんといっても、「悪霊を鎮める」などというばかばかしいコンセプトで鎮守の森をつくっていった人たちなのだ。
日常生活のご利益や村の絆よりも、そこから離れて「非日常」の世界に入ってゆくことのほうが大事だった。鎮守の森は、「山の中」だった。
その「山の中に入ってゆく」という疑似体験によって、浮世の憂さから解放されていった。
人間なんか、もともと生まれてきてしまったこと自体にかなしみといたたまれなさを抱いている存在なのだから、その「憂さを晴らす」という気分を共有してゆくことことこそ、もっとも豊かな祭りのダイナミズムを生む。
日本列島の農民が、ただいじましく豊作祈願や村の絆を守るというような目的だけで鎮守の森をつくり維持してきたと考えるべきではない。そんな、日常の延長のような目的だけでは、けっして祭りは盛り上がらない。
もっと非日常的な華やいだ気分になってゆくことによって盛り上がる。まあそうやって、「裸祭り」だの「けんか祭り」だの「火祭り」だのと生まれてきたのだ。
とにかく、中世以前の農民に村の秩序や絆を守ろうとする意識は希薄だった。ただもう生きてあることのかなしみといたたまれなさを共有していただけであり、それはもう、山の民も海の民も町衆も武士も、日本人がみんなそうだった。
鎮守の森は「山」だったのであり、「山の中に入ってゆく」ことが祭りだった。




日本列島の住民の、この「山の中に入ってゆく=非日常に向かってフェイクしてゆく」という心の動きがあったから、権力による徹底的な抑圧が可能になったのだろう。
もしも「絆に対する意識」が強かったら、百姓一揆だけではすまなかった。百姓一揆になるくらいひどい虐げられ方をしたわけだが、全体の制度を変えるような動きにはならなかった。
日本列島の村の絆なんて、一般で考えられているほど強いものではないし、そんなことのために鎮守の森が守られてきたのではない。
村の寄り合いなんて、ほとんどの時間はただ飲み食いしながら無駄話をしているだけで、本格的な議論などしていない。だいたい日本語が、そういうことに向いていない。
それが村の絆をつくっていたなどといってもせんないことで、ほんとに足の引っ張り合いや抜け駆けを平気でする人たちなのだ。しかし、弱っているものを助けたり旅人をもてなす心は篤かった。
日本列島の旅芸人や旅の僧や乞食たちは、農民に養われていたようなものだ。農民に絆の意識が希薄だから、関心を抱いて篤くもてなすということをする。もしも絆の意識が強かったら、追い払うだけである。悪徳領主だってみんなで追い払えばよかったのに、よほど追いつめられないかぎりそういう結束は生まれなかった。
それほどに、村の絆は淡いものだった。
戦後の急激な人口の都市流入やそれにともなう村の過疎化は、日本的な村の絆の淡さによるものだったに違いない。
日本人全体に絆に対する意識の淡さがある。
だから、国歌や国旗などを押し付けて絆で結束せよと掛け声をかけても、なかなかその通りにはならない。
いったい人と人の絆とはなんだろう。われわれにはよくわからない。



原初の人類が二本の足で立ち上がったのは、他者と離れてたがいの身体のあいだの空間を確保し合う体験だった。そのとき人類は、順位制などで結束してゆく集団の絆を喪失した。その代わりそれはたがいに向き合った関係になっていないと安定しない姿勢だったわけで、その絆の喪失を超えてときめき合っていった。人間には、どうしようもない人恋しさがある。それは、自動的にくっつき合う関係をつくることができる絆を喪失している存在だからだ。
人類は、絆の喪失と引き換えに豊かにときめき合ってゆく関係を持った。
だから人類の集団は、かんたんに離合集散を繰り返すようになっていった。すぐ離れ離れになってしまうが、すぐまた新しくくっつき合う。そうやって地球の隅々まで拡散していった。日本列島の住民は、この原始性をを引き継いで文化を紡いできた。
日本人に絆の意識が淡いのは、仕方のないことだ。それが普遍的な人間性なのだから。
絆の意識で過疎化した村の再生がなるかといえば、たぶんそうはいかない。そんな意識を押し付けると、かえって村は孤立し衰弱してゆく。
村の範疇を超えて人が集まってきて他愛なくときめき合える「鎮守の森=お祭り広場」が必要なのだろう。



日本列島の村の起源は、おそらく弥生時代にある。
縄文時代の集落はほとんどが山の中の10戸か20戸ていどのもので、その規模ではまだ「村」とは呼べないだろう。村よりももっと小さな「字(あざ)」というていどの集団だ。
弥生時代になって集団農業をするようになり、小さな集落どうしの連携が生まれてきて、それが「村」という単位になったのだろう。
折口信夫は「最初に共同体=国(くに)があり、そこに村という単位が挿入されていった」といっているのだが、そうではない、「共同体=国(くに)」という単位に先行して「村」が発生したのであり、そこから人々の暮らしが拡大してゆくとともに起きてくる「村」どうしの連携や対立を調節してゆくかたちで「国(くに)」という集団の単位が規範を持った「共同体」として生まれてきたのだ。
折口信夫のいうことは、ほんとにくだらない。
「むら」というやまとことばだって、けっしてポジティブなニュアンスではない。「むら(斑)がある」とか「むらむらする」とかというように、「わずらわしい」というニュアンスで生まれてきた言葉であり、「むらがる」の「むら」だ。
弥生時代に「村」という集団の単位が生まれてくるに際しての日本人の心の痛みがあった。もともと「絆」の意識の淡い人たちが、そうした絆の中に入ってゆかねばならなかったのだから、ただ楽しいだけではすまなかった。
市や鎮守の森は、そうした絆からの解放をもたらす場所だったのであり、そこにおいてはじめて「楽しい」ということが生まれてきた。
ましてや「国(くに)」というさらに大きな単位の絆など、考えたくもなかった。だから「憂き世」といった。
というわけで折口信夫はまあ「アニミズムとともに国や村の絆を確認してゆくことが古代人のメンタリティの基礎であり、そのようにして日本文学が発生してきた」といっているのだが、そうではないのだ。その「絆」からの解放として「歌」という文学が洗練してゆき、村にはその「歌」や踊りの場としての「市」が発生していった。そういう集団の「絆」に対する心の痛みこそが古代人のメンタリティだったわけで、中世にはその歴史意識とともに日本各地に「鎮守の森」がつくられ定着していったのだ。
中世になると、市は物々交換などのあくまで経済活動の場になって、歌や踊りや飲めや騒げの混沌の賑わいは権力から禁止されていった。おそらくそれに代わる場として鎮守の森がつくられていった。
鎮守の森は、村はずれにある。そこは、村の絆の外である。だから、人と人の関係は混沌としてゆくし、よその村にも山の民にも開放されている。山姥が村の祭りにやってきておそろしく飲み食いしたり土産をいっぱい袋に詰めて帰ってゆく、というような話はいくらでもある。
「絆」から解放されて他愛なく人にときめいてゆく体験がないと日本人は生きられない。おそらく神道はその発生のときからずっとそのような場を提供する装置として機能してきたのであり、神がどうのということなどはそのための口実に過ぎない。
われわれが神社に行ったときは、身も心もさっぱりするとか、日常の憂さを忘れて華やいだ気分になるとか、そういう体験ができればそれでいいのであり、神道の教義がどうとかこうとか、そんなことは日本人の知ったことではないのだ。



だれかれなく他愛なくときめいてゆく心が日本文化の基礎である。
たとえば与謝野晶子が「清水へ祇園をよぎる桜月夜 今宵逢ふ人みな美しき」と詠ったような、まあそういう体験が必要だ。
たぶん、中世以前の日本列島には、そういう体験があった。
中世の鎮守の森で催されるお祭り広場の賑わいは、得体の知れない風体をした漂泊民たちの歌や踊りが盛り上げていった。
古代の市というお祭り広場で盛んだった男女の集団見合いのような「歌垣」は、人妻も参加するその場かぎりのものだったといわれている。
それがいいとか悪いとかという以前に、そういう他愛なくときめきあってゆく「非日常」の空間こそが、日本人の人と人の関係にダイナミズムをもたらす。
「絆」なんか押し付けたってだめなのだ。そうやって恒常的な集団を組織しようとするよりも、他愛なくときめきあうという体験がたまにあればいい。べつに、一年に一回でもいいのだ。
どうせこの世は、仮の宿りだ。
日常の絆よりも、たった一回の非日常のときめき。
神や仏や霊魂に対する信仰や集団の絆に対する信頼が古代・中世の人々の心を支えていたのではない。
何はともあれ他愛なく人にときめいてゆく体験こそが彼らの生を支えていた。
日本列島では、たとえ村にだって「絆」などというものはないのだ。その代わり日本人は、他愛なくときめき合える人恋しさを持っている。
原初の直立二足歩行の起源がそうであったように、縄文人だって絆から離れて山の中に入っていった。それが、日本文化の基礎になっている。
家族の関係だろうとネットワークの関係だろうと、そうやって集団を組織しようとすること自体が人間性から逸脱した関係として日本人を戸惑わせる。戦後社会はそういう関係性を組織しながら高度経済成長を達成し、同時にさまざまな社会病理を招いてしまった。
関係を組織しようとするその絆意識自体が日本人の伝統的なメンタリティにそぐわない。まあ団塊世代はその意識を本能のようにもっていてそれがアドバンテージにもなってきたが、それが現在の社会病理の病巣のひとつにもなっている。
家族もネットワークも現代社会を生きるよすがとして避けることのできない関係ではあるとしても、人間性の基礎とか日本文化の基礎というのなら、どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合ってゆくというその一期一会の醍醐味にある。その「山の中に入ってゆく=非日常に向かってフェイクしてゆく」タッチとして、日本的な「おもてなし」の作法が生まれてきた。
絆からの解放としてのその一期一会の醍醐味は中世以前の農民だって知っていて、そこから「鎮守の森」が生まれてきた。われわれが「鎮守の森」から学ぶことができるものがあるとすれば、それは絆意識ではない。
人間は、絆からの解放を願う生き物である。絆からの解放として二本の足で立ち上がったのだ。
村なんて、絆意識を淡くしていないとやっていけない場所だったのだし、淡くできる資質を日本人は歴史意識として持っている。他愛なくときめいてゆく人恋しさの歴史意識として。
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