鎮守の森・ネアンデルタール人と日本人92


「山の中に入ってゆく」ことは、「気づく」とか「発見する」ということと同じ心の動きをもたらす。人類の知性や感性の発達の歴史は、「発見」するという体験の歴史でもある。
人の心は、根源において「山の中に入ってゆく」という体験に惹かれている。そして日本列島の歴史は、そうした人間性の自然とともに流れてきた。
なのに戦後社会はもう、そうした歴史意識をかなぐり捨てて「生活者の思想」だの「市民意識」だのという文明の手法に邁進していった。それによってひとまず高度経済成長を獲得したが、日本人が身体化しその生態の基礎となっている歴史意識との齟齬にも悩まねばならなくなった。
現在の大人たちによる自我意識をまさぐり続ける「生活者の思想」や「市民意識」よりも、若者たちの無邪気な「ジャパンクール」の知性や感性の方が、ずっと深く日本列島の歴史意識に根ざしている。その「非日常」に向かってフェイクしてゆくというタッチこそ、日本列島のはじまり以来の「山の中に入ってゆく」という風土の表現にほかならない。



日本列島の近世・近代の文化は、ひとまず江戸・東京の平地のメンタリティがリードしてきた。日本列島の住民が少しずつ「山の中に入ってゆく」という歴史意識を失ってきたのは、そういうこともあるのだろうか。
とはいえそれは、山があろうとなかろうと、「非日常」に向かってフェイクしてゆく、という作法のことである。平地で暮らしても、まだまだ江戸社会にはそうした考え方感じ方のタッチ=作法は残っていたに違いない。
やはり「生活=日常」に対する信仰がどんどん強くなってきたのは、戦後社会になってからのことだろう。それによって人々は、現実的な「生活=日常」を処理してゆく能力を獲得したが、他者や世界に対する想像力を失っていった。それはもう、現在の大人たちの顔つきに現れている。
まあいい、とにかく日本列島の住民とっての「山の中に入って行く」ことは、とても親しみ深い体験なのだ。
そのことを確認しておきたい。



もちろんその基礎は、多くの人々が山の中に入って暮らしていた縄文時代1万年の歴史の上につくられているのだろうが、日本人の知性や感性はもう、そういう考え方や感じ方をするようになってしまっているわけで、現在の世界の文明社会の流儀とうまく折り合えない部分もある。
しかし人類は、文明そのものに対する反省も持ちはじめているわけで、そこのところで、現在のこの国の「かわいい」のファッションとかマンガやアニメなどが「ジャパンクール」として注目されたりしている。
「かわいい」の文化は、縄文時代土偶や火炎土器の文化の継承だともいえる。まあ「かわいい」の文化こそ、日本文化の正統なのだ。それは、「非日常」に向かってフェイクしてゆくという作法であり、この国の歴史の底に流れる「山の中に入ってゆく」というメンタリティからもたらされている。
日本人は、どうしてこんなにも山が好きなのだろうか。この国の日本文化論は、「山の中は禁制の場所である」という前提で考えるばかりで、「なぜ好きなのか」という問題意識を持たなかった。
まあそれは近世以降の山の民が差別されてきたという歴史があるし、日本列島は海に囲まれていて海が好きな民族だという思い込みもあった。そうして、江戸という平地で文化がリードされてきた。
ともあれ「山の中に入ってゆく」ということは日本人の歴史的な無意識の問題であって、表の意識の問題として考えれば、どうしても「日本人は海が好きで山を禁制の場所だと思っている」ということになってしまう。
しかし、日本的な知性や感受性の根源のかたちは、「山の中に入ってゆく」ということにあり、「あはれ」も「はかなし」も「わび」も「さび」も「無常」も「幽玄」も、山の中から生まれてきた世界観であり生命観であり美意識にほかならない。



人は、進んで山の中に入ってゆくのではない。引き寄せられてしまう。引き寄せられてしまうような生きてあることのかなしみを持っている。
縄文人は山の中に入ってゆかなくてもいいのに、入っていってしまった。入っていったら暮らしにくくなるのに、それでも入っていった。それは、原初の人類が地球の隅々まで拡散していったのと同じで、人間の行動を根源において決定しているのは、幸せを求めてとか生きのびるためとか、そういうことではないのだ。これはたぶん無意識の問題で、気がついたらそういう行動をしてしまっていた、ということがある。体が勝手に動いてしまっていた、ということ。
人類の生態は、けっきょく無意識的な行動の集積によってつくられてきた。べつにどのようにしたいという目的があったわけでもないのだが、気がついたらこんなになってしまっていた。そういうふうに考えないと、人類がより住みにくい所住みにくい所へと拡散していったわけは説明がつかない。生きのびようとする衝動を先験的に持っているのなら、そんなことはしない。生きのびることが困難ところに向かって拡散していったのだ。
ただもう、気がついたらそういう行動をしてしまっていた。しかし、そういう行動習性をダイナミックに持っているのが人間だった。
人間をそういう行動に駆り立てるのは、おそらく生きてあることのかなしみとかいたたまれさなのだ。そこからせきたてられるように人間的なダイナミックな生態が生まれてくる。
生きのびるためなら、チンパンジーと同じようにアフリカの赤道周辺をうろうろしていればいいだけだったのである。
生きのびようとする意識的な衝動は、けっしてダイナミックな行動も思考も生まない。
気がついたらそうしてしまっていた、という無意識的な行動こそが人間的なダイナミズムを生み出してきた。
そしてそれはもう無意識的なのだから、子供でもそうする。まあ、二本の足で立って立っていることだって、気がついたら誰もがそうしていたのだ。
人間は、無意識的にそういう行動を起こしてしまうような生きてあることのかなしみやいたたまれなさを持っている。そしてそれこそが、生きのびようとする衝動によるよりももっとダイナミックな行動になるのだ。



縄文人は、住みにくくなるのもかまわず、どんどん山の中に入っていった。女たちは山奥に10戸か20戸程度の小さな集落をつくり、男たちはもう一年中山の中を歩き回っていた。縄文人のすべてがというわけではもちろんないが、そういう人たちがたくさんいた。
彼らは、そんなことがしたかったわけではない。しかし、気がついたらもう、そうしてしまっていたのだ。
人間は、山の中に引き寄せられてしまうような契機を持っている。現在の富士の樹海に入っていってしまう人と同じように、生きてあることのかなしみやいたたまれなさを根源(無意識)において抱えている存在だから、引き寄せられてしまう。
まあ縄文人でも、かなしみやいたたまれなさの深い人ほど引き寄せられていってしまったのだろう。
つまり、日本文化の基底が「山の中に入ってゆく」というコンセプトの上に成り立っているということは、日本人は無意識のところで生きてあることのかなしみやいたたまれなさを共有しているということことを意味する。その「嘆き」を共有しながら人と人の関係の文化を紡いできた。
そして日本列島では、「嘆き」を共有できないのなら、人と人の関係はどんどんぎくしゃくしていってしまう。おそらくそれが、戦後の現在なのだろう。



日本人の生態のあらゆる面に、「山の中に入ってゆく=非日常に向かってフェイクしてゆく」というコンセプトが機能している。それに対して戦後社会は、「生活=日常」をどこまでも拡大してゆくかたちで経済繁栄に邁進してきた。その矛盾が、今あららわれてきているし、ほんらいの歴史意識取り戻そうとするムーブメントも起きてきている。
神社のことを、鎮守の森という。そこは、「山の中」である。
日本人は、山を眺めても、すでに山の中を思っている。そのようにして、山を愛着している。
物語のクライマックスを、「山場」という。しかしそれは、「山の頂上」という意味ではない。「山場」とは「山の中」のことである。「山の中に入ってゆく」ことが物語のクライマックスなのだ。だから、「道行き」という悲劇的なカタストロフィの展開が愛される。
山の中に入ってゆくことなんか、幸せなことでもなんでもない。それでも日本人は、「山の中」を愛着している。
日本人は、平地でも森や林になっていれば、そこを「山」と呼ぶ。森や林は、まさに「山の中」である。



鎮守の森は、「山」である。日本人は、平地で暮らすようになっても、あちこちに鎮守の森という「山」を確保してきた。一面の田んぼを見渡してそれで満足するということはできなかった。どうしてもそこに鎮守の森をつくらずにいられなかった。
農民にとっての田んぼは苦労と心配の種であり、そこからの解放としての祭りを催す鎮守の森はどうしても必要だった。鎮守の森があればこその田んぼだった。とくに江戸時代などは、米をつくってもほとんどは年貢として没収されてしまう。それでも、鎮守の森の祭りがあればその苦労も忘れられるし、苦労があるから祭りのときめきや盛り上がりもひとしおになる。
鎮守の森が年貢制度を成り立たせてきた、といってもいい。平安時代以降、年貢の取立てが厳しくなるのと比例するように鎮守の森が増えていった。
なぜ「鎮守」というのか。すなわち「鎮めて守る」ということ。べつに豊作祈願ではない、平安時代に大流行した「御霊信仰」とともに、悪霊退散の名目で次々に建てられていったからだ。だから、鎮守の森は「天神様」が多い。天神様は菅原道真系の御霊信仰である。そしてそれはまあ、自分たちのかなしみやいたたまれなさを鎮めて守るという願いも込められていたのかもしれない。
それと、弥生時代からはじまった日本列島の集団的な米作りをはじめとする農業は、それを知っている山の民が平地に下りてきて広がっていったのであって、もともと平地の民であったはずの海のそばの地域の縄文人はただもう海の幸を漁るだけで農業などというものは何も知らなかった。海の民は、その日暮らしの気分になりやすい。それはまあ水平線そのものが未来に向かう意識を遮断しているということもあるのだが、とにかく海にもぐればいつでも何かしらの食い物は得られる。彼らは、山の民と違って、食い物としての植物との対話をしてこなかった。
というわけで、日本列島の農民はみな、山の民の末裔なのである。だから、そういう歴史意識とともに鎮守の森をあちこちにつくっていった。
日本列島の住民は、「山の中に入ってゆく」ようにしてこの生を宥め、この生のときめきやダイナミズムを汲み上げてきた。それは、意識が非日常に向かってフェイクしてゆくという原始的な心の動きだった。とにかく鎮守の森は、非日常の異空間(他界)だった。たんなる豊作祈願の森であるより「鎮守の森」といったほうがずっとしっくりくるというのは、誰もが生きてあることのかなしみやいたたまれなさを抱えた存在だったからであり、その契機があってはじめて「山の中に入ってゆく=非日常に向かってフェイクしてゆく」という体験の醍醐味が汲み上げられる。
それは、日本列島の農民がどれほど権力に虐げられてきたかという問題ではない。人間は存在そのものにおいてすでに「非日常に向かってフェイクしてゆく」心を持っている、ということだ。
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