現在の古代史観Ⅲ

大和盆地は、弥生時代になっても、まだほとんどが湿地帯だった。だから人々は、浮島のかたちの少し小高く干上がっている地域に寄り集まるように住みついていった。そういう地域が、おそらく山すその平地に点々と散在していたのでしょう。その状況があったからこそ、しかし、たくさんの人が一ヶ所に寄り集まって暮らすという形態は、奈良盆地がもっとも進んでいたのであり、そこから他の地域に先がけて都市が生まれ、大和朝廷を中心にした共同体が形成されていった。べつに地方の豪族が寄り集まってつくったのではないはずです。豪族ではなく、もともと歴史的に列島中の民衆が集まってくるような地理的条件があったのであり、しかも湿地帯であったために浮島のような台地に集落がかたまってしまうという条件が重なり、そこから都市が生まれ共同体が形成されていったのだ。
大和盆地は、周囲をたおやかな姿をした山なみに囲まれている。古代人にとって、こんな魅力的な景観は、ほかの地域にはなかった。だから、誰も大和盆地を出て行きたがらなかった。そしてそれぞれの集落は、湿地帯に囲まれて、人々はもうたがいに寄り集まってゆくしかなかった。そういう二重の条件を与えられた大和盆地は、したがって、どこよりも深くダイナミックに人々が寄り集まって暮らすことの構造が充実してゆく必然性をそなえていた。
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弥生時代は、それほど人口は増えていない。つまり、住みやすい土地に住み着いたからといってたいして人口が増えたわけではなく、人がたくさん集まってくるところでないと人口は増えなかったのです。そしてそのころの日本列島では大和盆地がもっとも人が集まってくる条件を備えており、しかもかたまってしか住めない土地だったから、大きな都市になり共同体になっていったのです。
卑弥呼の時代のころ、北九州には、たくさんの共同体があった。それは、大きな共同体がなかったことを意味する。そして古代人の心性として、山の向こうの共同体と連携してゆくなどということはしなかったはずです。彼らはあくまで、目の前の山を世界の果てと認識して暮らしていたのです。その観念において、山の内側で世界は完結していたのだ。しかしだからこそ、完結させることができないではみ出したりこぼれ落ちたりする個人や小集団が、出て行ったり入ってきたりするということがたえず起きていたはずです。おそらくそのころの共同体には、まだ、そういう者たちをとどめおくことのできる能力も禁制もなかった。
古代の大きな権力は、共同体どうしの連携から生まれてきたのではない。そんなことができるのなら、大和朝廷だけが強大化して日本列島がひとつの国家になってゆくということには、ぜったいにならなかったはずです。日本中のあちこちで連携して大和朝廷に対抗しようとする勢力が生まれてきて、いくつにも分立していったはずです。連携しなかったから、ひとつの国家になれたのだ。
そして、大和朝廷だけが強大化していったのは、連携したからでも、生産力があったからでもない。弥生時代後期においては、まだまだ湿地帯だらけの、ほかの地域以上に住みにくい土地だった。しかし列島中からたくさんの人が集まってきて、その条件を克服していった。しかも、どこよりも人々がかたまって住むということをしなければならない土地だった。だからこそ、かたまることを成り立たせるために、自分たちで天皇をまつり上げるという習俗が育っていったわけで、地方の豪族が連携して担ぎ上げたのではない。
地方の豪族なんか関係ない。奈良盆地じたいが、人が多く集まり、共同体に発展してゆく条件を、どこよりも確かに備えていたのだ。
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大和盆地には、弥生時代中期までの遺跡がほとんどなく、後期になって一気に増えている。だから、地方の豪族がそこに集まって大和朝廷を中心とした共同体をつくっていったのだ、という話が生まれてくるのだが、そんなふうなことができる土地なら、はじめから人が集まっていてすでに共同体をつくっていますよ。それまでほとんど集落がなかったということは、そこがまだ湿地帯で人が住める条件を持っていなかったということを意味する。住めるところなら、とっくに住み着いているはずです。なぜなら、まわりの山野には、たくさんの高地性集落が散在していたのだから。つまり、大和朝廷ができる前から、すでに列島中から人が集まってきていたのです。そうして、大和盆地が干上がってゆくにしたがい、そこここの干上がった台地に寄り集まって住み着いていった。
権力者が都市をつくったのではない。民衆が集まって都市がつくられてゆく過程で権力者が生まれてきたのだ。
まず一ヶ所にまとめて集落をつくり、そのまわりに耕作地を広げてゆく。これが、大和盆地の人々の住み着き方だった。各自が耕作地のそばにぽつぽつと離れて家を建てる、というようなことはしなかったし、できなかったのです。そしてそういう住み着き方をした人々だったからこそ、そのころの日本列島でもっとも進んだ都市や共同体を形成していったのでしょう。