現在の古代史観Ⅱ

卑弥呼の前の時代は国中乱れて戦争ばかりしていた、「魏志倭人伝」にそう書いてあるのだとか。
こんなもの、ほんとかどうかわかりゃしない。おもしろがって、勝手にそう書いただけかもしれない。大陸人からすれば、ろくでもない国は戦争ばかりしているという意識があったのだろうし、それが卑弥呼の呪術で他愛なくおとなしくなってしまうような迷信深く原始的な連中なのだ、ということがいいたかったのでしょう。
ほんとに卑弥呼の時代の前は、戦争ばかりしていたのか。「魏志倭人伝」を離れて、もう一度ちゃんと調べなおし考え直してみるべきです。現在の研究者は、はなから戦争ばかりしていたと決めてかかっている。
文字はおそろしい。文字は、人を支配する。文字として残っているだけで、それが権力になり、真実になってしまう。たとえ嘘八百を書いただけのものでも、後世の人はその文字にしばられ、ひれ伏してしまう。現代人は、文字に支配されて生きている。そういう状況に浸された研究者が、魏志倭人伝の記述に縛られ、わけのわからないことをわめきたてている。
魏志倭人伝なんて、当時の役人が実際に視察をして書いたものではないはずですよ。ただの噂話をまとめただけでしょう。伝聞の伝聞、そのまた伝聞、そんなものが正確であるあるはずがない。そしてそれを真に受けた現代人が、百も千も邪馬台国の位置をでっち上げて大騒ぎしている。
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古事記日本書紀には、「卑弥呼」についての記述がない。それは、そのあとに大和盆地を制圧した勢力が大和朝廷を打ち立てたから、意図的に隠しているのだ・・・と言っている研究者がいます。
古事記の編纂から卑弥呼の時代までは、約400年の隔たりがあります。文字のない時代に、誰もそんな昔のことなどおぼえていないし、語り伝えだって、まったく別のものになってしまってもおかしくない。隠すも何も、そんな遠い昔のことなど、誰もおぼえていなかったはずです。
だいいち「卑弥呼」が、ほんとうに人の名かどうかということが疑問です。「日の巫女」、それは、ただの立場か能力のことを指しているだけなのかもしれない。
そのころ、日本列島のことを記した大陸の史書に、正確に人の名前を載せているものなど何もないのです。卑弥呼の時代から200年後の、例の「倭の五王」の記述にしても、天皇の名を、讃とか珍とか、ただの記号で済ませてしまっている。知らなかったからでしょう。ほんとうに彼らが中国の朝廷に朝貢していたのなら、そのときの名前を記した文書が残っているはずです。ようするに当時の中国の朝廷としては、自分たちの中華思想を満足させるために、そういうことにしておきたかったのでしょう。彼らにすれば、自分たちの脅威になるおそれのある地域とそうでない地域の見極めは、つねにはっきりさせておく必要があった。つまり、自分たちが世界の中心にいると思うほかない彼らの強迫観念が、無理にでもそういう文書を仕立て上げる習慣をつくっていたのかもしれない。
だったらその200年前の「卑弥呼」が、正しい人の名前であるとはとても信じられないし、彼女が何をしたかということや日本列島の情勢の記述だって、正確であるはずがない。
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弥生時代の戦争がどのようなものであったかということは、研究者であるのなら、その時代の人と人の関係にたいする意識がどのようなものであったのか、というところからちゃんと説明していただきたい。その延長で集落と集落の関係も生まれてくるのだろうし、はたしてそのころ、戦争ばかりしているような必然的な状況があったのか。弥生人の意識とは、戦争ばかりしたがるようなものだったのか。「魏志倭人伝」に書いてあるからそうだったのだ、というようなことでは、なんの説明にもなっていない。たとえば、もしそうなら、戦争で殺された死体の山が埋まっている遺跡がいくらでも出てくるはずです。ヨーロッパ・西アジアでは1万年前のそういう遺跡が発掘されているのだから、2千年前なら、もっとかんたんに見つかるでしょう。
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縄文時代は、男と女が一緒に暮らすという習慣がなかった。男たちは山野をさすらい、女たちの集落を渡り歩いていた。一緒に暮らすのではなく、出会いと別れを繰り返すのが、男と女の関係であり、人と人の関係だった。まあここに日本文化の原型があると思えるのだが、したがって、男も定住をはじめた弥生時代は、そこでようやく共同体が生まれ、一緒に暮らす人と人の関係が模索されていった時代だった。
男と女がが一緒に暮らして共同体をつくってゆくことの戸惑いと恥じらい、「恥の文化」はおそらくそこから生まれてきたのだろうし、弥生時代においては、よその土地を奪って自分たちの共同体を大きくしてゆくというような発想が生まれてくる段階ではなく、まだまだそれ以前の、自分たちの共同体をどう維持してゆくかということの試行錯誤をしていた時代なのではないでしょうか。この国の歴史は、そういう段階を経ているからこそ、現在の「恥の文化」があるのでしょう。
世界史的に見て、文字なしに国家をつくった、という例があるでしょうか。文字を持たないアフリカ人は、近代になってもまだ自前の国家をもつことができなかった。しかし弥生人は、それをしてしまった。そのためには、人と人の関係や共同体と共同体の関係を、どれほど繊細で自然なかたちでまとめてゆかなければならなかったか。まとめてゆくのに文字をたのみとしなかったということは、戦争による国盗り物語にうつつをぬかす前に、自分たちの共同体をどう調和させてゆくかということを懸命に模索していった時代があったということを意味しているのであり、それが弥生時代だった。男と女が一緒に暮らすという歴史が浅い彼らは、自分たちの共同体における人と人の関係をどうやりくりしてゆくかということに頭がいっぱいで、戦争による国盗り物語どころではなかったのだ。
「文字」と「力」で人を支配してゆくことが可能になったのは、弥生時代が終わってから何百年もあとのことです。