現在の古代史観

初期の大和朝廷は、3世紀末に列島中の豪族が奈良盆地に集まり、天皇を担ぎ上げてできたものだ・・・・・・これが、現在の古代史研究の趨勢なのだそうです。そして北九州だけがこの動きに参加することを拒んだために、その地に君臨していた邪馬台国大和朝廷の軍隊によって滅ぼされたのだとか。
まったく、人間の歴史をただのパズルゲームのように扱ってなんの反省もない、この幼稚で愚劣な思考というのは、いったいなんなのでしょう。
つまり、そのころの東アジアにおける「世界情勢」との兼ね合いで、われわれも「日本」という国として自立する必要があると悟った各地の豪族が、列島の中央に位置する奈良盆地に集まり、協議していったのだそうです。そういう世界情勢を知っているのは、海を支配している豪族たちであり、そういう「海人」たちによってつくられたのだとか。
しかし、そのころの人々がどれほど「世界地図」や「日本地図」を正確に把握していたか、大いに疑問です。たまに海流にのって大陸から人や船がやってくることはあっても、その流れに逆らってこちらから行くことなど、もう命がけであったはずです。ないとはいわないが、めったにあることではなかったはずです。研究者は、山のようなうねりのある玄界灘を、公園の池か何かのように考えている。
そんなにしょっちゅう大陸と行ったり来たりできるのなら、銅製品や鉄製品が貴重なものになるわけがない。たとえば、地方の豪族が大和朝廷から三角縁神獣鏡を下賜されて恭順を誓った、などという話は成り立たない。彼らのいう通りなら、下賜される前に、すでにどこも持っているでしょう。前方後円墳だって、奈良盆地より先につくっていますよ。
現代社会の政治ごっこや権力闘争みたいなことを、弥生時代後期の人々がやっていたはずないでしょう。この国をどうとか、そんなことを、庶民を置き去りにして一部の豪族だけで協議していたなんて、なんと下品な発想だろう。大和朝廷は、大和盆地で長い歴史的な時間をかけて生まれてきたのであって、一部の権力者が一晩や二晩でつくったのではないのだ。何かというとすぐ「大陸の影響」がどうのと吹きまくるくせに、こういうときだけは、日本はとくべつなのだ、という。
そんなに大陸と行ったり来たりして大陸の影響をこうむったのなら、まず文字による支配が定着していったはずです。しかし実際にその動きが起きてくるのは、それから3百年も4百年もあとのことです。初期の大和朝廷は、文字を持たない権力だった。それは、民衆によってつくられた、ということを意味する。豪族どうしの協議でつくったのなら、彼らの合意の文書が必要だし、文字がなければ、上からの権力が民衆を支配するということもできない。
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大和朝廷は、大和盆地の人々がつくったのだ。
天皇は、大和盆地の人々がまつり上げたのであって、地方の豪族が勝手に協議して担ぎ上げたのではない。そんな存在であるなら、民衆の心に天皇を神とあがめるような意識が生まれてくるはずがない。天皇を神とあがめてゆくような大和盆地の歴史があったのだ。そこのところを考えないで、何が「連立政権」だ。そうやって権力ゲームの問題だけで歴史を扱おうなんて、考えることが安直過ぎる。
歴史のあけぼのである古代において、一部の権力者が勝手に庶民を引きずりまわすなどということを、そうかんたんにできるものか。そういうことは、文字が定着して権力構造が整備されてからの話だ。
大和盆地は、べつに地方の豪族が人を送り込まなくても、自然に、列島で、人がいちばん多く集まってくるような地勢になっていたのであり、地方の豪族が集まって好き勝手にいじくりまわせるような、そんな貧寒とした土地ではなかったのだ。地方に豪族が生まれるような時代であったのなら、大和盆地にはもっと強い豪族が生まれていたはずです。大和盆地の政治組織に地方の豪族が参加していったということはあるだろうが、地方の豪族が集まって大和盆地を好き勝手にいじくりまわしたなどということがあるものか。
歴代の天皇の宮廷は、防御の城壁がなかった。だから担ぎ上げられただけの弱い権力だったのだ、と彼らは言います。しかし、弱い権力だったから城壁をつくらなかったのではない。それほどの民衆と親密な関係にあったからであり、城壁などというものをつくらない縄文時代以来の歴史=伝統があったからだ。ほんとうにその時代に権力ゲームだの戦争だのということばかりやっていたのなら、天皇の宮廷だって、とうぜん戦国時代のような城壁をつくるでしょう。
弱い権力だから城壁をつくらなかったなんて、いうことが安直過ぎます。すくなくとも大和朝廷が成立した当初は、こちらから侵略することもされることもない時代だったのでしょう。文字がなかったあの時代に、侵略しても民衆を支配してゆくことなど不可能だったはずです。弥生時代後期とは、侵略する、などという発想が浮かぶ前の、共同体どうしの「関係」が模索されていった時代だったのではないでしょうか。