団塊世代とビートルズ・8

ビートルズ解散後にジョン・レノンが発表した「ラブ」は、シンプルな歌詞とメロディが胸にしみるとても美しいバラードです。歌詞もメロディも饒舌なポール・マッカートニーの「イエスタデイ」と比べると、同じビートルズでも感受性や才能の質はずいぶん違うものだと思わせられる。しかし世界を均質化(普遍化)してとらえようとする視線においては、やはり二人ともビートルズなのです。
「ラブ」の歌いだしは、こうだ。「ラブ・イズ・フィール(感じること)、フィール・イズ・ラブ」。この歌詞に美しいメロディとジョン・レノンのすこし鼻にかかったせつなげな声が乗れば、これだけでもう、すっかり恋をしている気分にさせられる。そういう魅力的な歌であるが、確かにここには、世界を均質化してとらえようとする意識がはたらいていることも見え隠れしている。
愛とはこういうものだよ、と差し出したり、こういうものだよねえ、と同意を求めたりすることは、けっしてロック的ではない。それは、愛とはすばらしいものだという社会的な合意の上に乗っかったひとつのスローガンである。そうやって世界をひとくくりにしてしまおうとするのはきわめて資本主義的であり、また港町的な無国籍の発想である。無国籍であるからこそ、平気で社会的な合意に乗っかることができるのだ。
無国籍であることは、とても社会的制度的なのです。たとえば現在のアメリカ的グローバル資本主義を最先端で牛耳っているのはユダヤ人たちであろうし、中国人華僑の世界中に進出して金儲けをしてしまう才能や進出した先でつねに自分たちのコミュニティをつくって固まってしまう共同性など、無国籍的であることが良くも悪くもいかに人を社会的存在にしてしまうかを物語っている。ユダヤ人や華僑だから社会的制度的で金儲けがうまいのではない。人は無国籍的な立場に置かれると、社会や制度にたいする拒否反応をなくし、むしろより強くそれに擦り寄ってしまうということだ。
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戦後日本もまた、歴史を清算し、いわば無国籍的な理念の上に国づくりをはじめた。
その無国籍的な理念を、幼児体験としてもっとも濃く刷り込まれているのが、団塊世代です。
特攻精神のことを、散華(さんげ)の精神、とも言います。60年代に、自衛隊に乗り込んで割腹自殺するというパフォーマンスを演じて見せた三島由紀夫は、「葉隠れ」という武士道を説いた本に心酔し、それを実践しようとしたのだといわれています。まあ、特攻隊の散華の精神と同じようなものです。はかなく潔く散ってゆく桜の花のような精神、というところでしょうか。
桜の花に対する愛着は、日本列島の伝統です。
戦争に負けたのだから、この国の伝統の何もかも潔く捨てて「一億総懺悔」し、出直そうじゃないか。これだって散華の精神です。 
散華するつもりになれば、本気で散華してしまうのがこの国の人間です。いざとなったら、何もかも捨ててしまう。何もかも捨ててぼろぼろになるまで戦争をし、負けたら負けたで、あっさりと伝統=歴史まで捨ててしまった。いざとなったら、国民の命だろと伝統=歴史だろうと、平気で捨ててしまう。伝統だって捨ててしまうのが伝統です。
ただし、そういう伝統の上に育った戦前生まれの人たちにおいては、です。
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で、そのような散華の結果として、いわば伝統が滅んだ廃墟で育てられた戦後生まれの子供たちには、ビートルズ的な無国籍の精神がしっくりと体になじんだ。
団塊世代より少しまえの戦前生まれの人たちは、カラオケで軍歌や寮歌をよく歌いたがる。したがって、戦争にも行っていないくせに散華の精神も好きです。
われわれ団塊世代は、眉をしかめてそれを聞いている。
とはいえ、うっとりしてビートルズを歌うのも、何だかなあ、と思いますがね。
年齢にしたら、たった三つか四つの違いです。それでも、それくらいの断絶がある。彼らは、散華の精神という伝統を幼児体験として刷り込まれている日本人だが、われわれ戦後生まれの子供たちは無国籍だ。
とくに団塊世代には、そういう無国籍的な、手段を選ばないしたたかさがあると同時に、考えることが通俗的だからかんたんに群れることができる。伝統の上に成り立った精神なら、良くも悪くも、ひとりひとりが「やむにやまれぬ」というような固有の精神の運動を持っている。
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三島由紀夫にしろ、生首少年にしろ、歴史を背負ってしまった者の精神です。お母さんの生首を持って自首してゆくなんて、おそらく三島由紀夫よりもっと高度な散華の精神です。たったひとりでやって見せたのですからね。
良くも悪くも、それは、固有の精神の運動だったのだ。彼の孤立感は、すでに、恋とはこんなものだよ(=ラブ・イズ・フィール)といって善男善女をたらしこむような論理が通用する場所には立っていなかった。
たったひとりの祝祭。それが、歴史を背負ってしまった者の散華の精神です。三島由紀夫だって、生首少年ほどではないにせよ、まあそんなようなものです。
しかし、港町育ちで無国籍的なジョン・レノンには、人間の歴史がいまここで終わる、というような、歴史を背負ってしまった者の精神の運動はなかった。つねに、未来における制度的な連帯が目指されていた。
誰もが恋をするが、恋は、誰とも共有できない自分だけの祝祭です。ジョン・レノンだって、オノ・ヨーコとそういう恋をしていたのだろうが、ビートルズという看板を背負ってしまったかぎりには、表現者としてはもう、そういう「たったひとり」の場所に戻ってゆくことはかなわなかった。つまり、「たったひとりのロックン・ローラー」という場所に、ということでしょうか。
戦後の、歴史を清算した場所で育てられた団塊世代が、ついに「たったひとりの祝祭」という少年時代を経験することなしに、けっきょく仲間どうしや社会の共通理解のうえでしか生きられなかったように。
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ひとまず「団塊世代ビートルズ」は、これで終わりにします。明日一息入れてから、今度は、「ザ・フー」と60年代の団塊世代と、そして若者とは、ということなんかを考えていってみたいと思っています。生首少年を擁護することを書いてしまった行きがかりで、こんな展開になってしまいました。