若者論としてのザ・フー・6

60年代の全共闘運動は、若者が、大人たちと同じ土俵に立って繰り広げられていた。それは、共同体にたいする拒否反応を喪失した若者が、共同体に干渉していった現象です。つまり戦後生まれの子どもたちが若者といわれる世代になり、大人と同じように社会のことを考え始め、社会をいじくりまわしたがるようになった、というだけのことです。
大人も若者も同じ人種になってしまい、社会が自家中毒を起こしてしまった。60年代の若者は、けっして社会の大人にたいする異質な存在ではなかった。そういう不健康な現象として、全共闘運動が起きた。
だから、団塊世代以降の大人たちは、今なお社会を分析することばかりに熱心で、人間とは何かと問う視線を持っていない。けっきょく日常生活においてそういう視線を持っていないから、EDやら鬱病やらボケ老人になってしまうのだ。
大人と同じように社会をいじくりまわしたがる60年代の団塊世代の若者と、大人なんか関係ないという同じころのイギリスにおけるモッズの若者たちと、いったいどちらが若者として本質的だったのだろうか。
現代のニートや引きこもりや秋葉系オタクの若者は、大人たちとはまったく別の土俵に立っている。彼らのほうがずっと健康で普遍的な「異人」としての聖性をそなえている、と僕には思える。
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ザ・フーがデビューして8年目に出された「四重人格」というアルバムは、そのモチーフの鮮やかさとといい、演奏の充実したボリューム感といい、ある意味で彼らの最高傑作だともいえます。
コンセプト・アルバムで、60年代なかばのモッズ少年が抱く不安と嘆きがみごとに描かれています。そしてこれは、そのまま現代の都市の少年の姿とオーバー・ラップしてくるところがすごい。
極めつきは、なんといっても「5:15(ファイブ・フィフティーン)」という曲です。
 
 どうして気をつけなきゃいけないのか?
 どうして気をつけなきゃいけないのか?
 
 15歳の女の子はもうセックスのことを知っている
 劇場の案内係は、コカインを嗅ぎながらオーデコロンの匂いを振りまく
 座席にはあやしい腰つきの独身女
 かわいい女の子たちは、いい女になる研究に余念がない
 魔術にかかったみたいに退屈で静かな街角
 気ままなフラストレイションが僕たちの頭やあんたのつま先にある
 僕たちの世代は静かな嵐
 上にも下にも、どちらにでも血は流れる
 
 内でも外でも・・・・・・ひとりにしておいてくれ
 内でも外でも・・・・・・家はどこにもない
 内でも外でも・・・・・・僕はどこにいるのだろう
 5時15分、僕はもう、わけがわからなくなる
 列車の中で、わけがわからなくなる

家出少年の歌だといえば、まあそうなのだけれど、この気分は、60年代の団塊世代少年のものではない。現代のニートや引きこもりといわれる若者たちの気分と通底している。
団塊世代の少女たちは、まだまだ「夢見る15歳」を演じていた時代で、セックスなんか知らなかった。それは、彼女たちの意識が、家に囲い込まれて、家を居場所にしていたからだ。「夢見る15歳」を演じながら、蚕のように、体も意識も顔つきも着々と大人になる用意を整えていた。
それにたいして現在の15歳の少女の意識は、すでに家から逃げ出している。だから、大人になる準備もできないで、幼い顔をしたまま、セックスを知ってしまう。
そしてそれは、15歳の少年だって同じなのだが、悲しいことに15歳の少女がセックスを知る相手は、15歳の少年ではない。もっと年上の、安全で、自分を「いい女」にしてくれる相手を選ぶ。
だから15歳の少年は、途方に暮れて思考を失い、ストリートを目指す。あるいは、自分の部屋に引きこもる。どっちだって、同じです。「家」という囲い込みに対する信頼を失い、ひとりぼっちのこの自分の身体をうまくはめこむことができる空間を探しているのだ。
「僕」の居場所は、この社会にも家にもない。そして、同じ世代の女の子にも置き去りにされてしまっている。それが、現在の15歳の少年なのだ。
「5:15」という歌は、現在のこの国の状況をまるで見透かしているのではないかと思えるくらいリアリティがある。
そのような60年代のイギリスの状況を、われわれは今体験しているのだ。
そして、ビートルズで育った団塊世代のパパにもママにも、この気分はわからない。