アフリカ・ネアンデルタール人論2


 人類は、その歴史のはじめから拡散してゆくような生態とメンタリティを持っていた。
 拡散しようとしたのではない。二本の足で立ち上がることは、拡散してしまうような存在になることだった。
 つまり、拡散しようとしたのではないということは、知能の発達によって拡散していったのではないということです。知能の発達はたんなる結果にすぎない。
 人類は、二本の足で立ち上がることによって人間になった。人間であることの与件にせかされて拡散していった。それは、あくまで受動的な体験だった。
 人間は、生きたくて生きているのではない。すでに生きてしまっている存在なのです。すでに生きてあることに気づき、それを受け入れてゆく。人間は生きてあることを受け入れてしまう。生きてあることなんかろくなことじゃないのに、それでも受け入れてしまう。そういうメンタリティと生態によって、どんな住みにくさも厭わず地球の隅々まで拡散していった。
 知能の発達が人類の歴史をつくってきたのではない。歴史によって知能の発達がもたらされたにすぎない。
 知能が発達していれば生きられるというものでもないでしょう。
 それは、心のはたらきにせよ体のはたらきにせよ、生きてあるという事実を受け入れることができるか、という問題であるはずです。
 生きることは、自分に与えられた心と体を受け入れ、どうやりくりしてゆくかという問題であって、自分以外の心や体になれるわけでもない。誰だって、自分の心と体で生きている。生きることは、生きてあるという前提を受け入れること、その作法でみんな生きている。
 人類は、拡散しようとしたのではない。われわれの無意識は、「受動的」なはたらきなのです。その受動性こそ、人間の思考や行動を根源において決定している。誰もが生きてあるという前提を受け入れながら、気がついたら拡散してしまっていただけです。その長い長い人類史のいとなみを無視して、アフリカ人がいきなりヨーロッパに移住していっただなんて、考えることがあまりに安直過ぎます。
 歴史は、そんなパズルゲームのようなお手軽な思考で解き明かせるものではない。
 もしも4万年前のアフリカ人がヨーロッパに移住していったというのなら、そのときのアフリカ人はそのような行動を起こすようなメンタリティと生態を持っていたということが説明されなければならない。
 歴史は、受動的な現象なのです。
 なんにおいても、そうしようと思えばそうできるというわけではない。生きることは、自分の心と体を受け入れやりくりしてゆくいとなみです。
 そのときアフリカ人は、ヨーロッパに移住してゆくような心と体になっていたか?



 中央アジアグルジア共和国の遺跡で発掘された180万年前の人骨は猿に近いレベルの身体のものだが、同じころのアフリカ中央部には、すでに現在のアフリカ人のような高身長の人々がいた。
 200〜300万年前の最初にアフリカの外まで拡散していった人類は、アフリカの暮らしに適合できなかった未発達な種族だった。
 言い換えれば、発達しなければアフリカの暮らしに適合してゆくことはできなかったし、適合してしまえばもう拡散してゆく必要がなかった。
 アフリカのホモ・サピエンスがヨーロッパに移住していったといわれている4万年前になればもう、アフリカの人びとのほとんどはそこでの暮らしに適合できる心や体になっていたはずです。ましてや、アフリカよりもヨーロッパでの暮らしの方が合っている心や体の持ち主なんか一人もいなかったはずです。
 しかし現在の「集団的置換説」によれば、4万年前にアフリカからヨーロッパに移住していった人々がまるで水を得た魚のように楽々と住み着き、先住民のネアンデルタール人を駆逐していった、という。いや、ヨーロッパだけでなく、世界中でそういうことが起きて現在の人類がすべてアフリカ発祥のホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになっている、ともいいます。
 しかしこんなことは、人類の生態に照らし合わせればありえないことです。
 原始人が大集団を組織して道なき道の原野を旅してゆくなんて、できるはずがない。いまだに家族的小集団で行動するのが伝統のサバンナの民が、いったいどうやって大集団を組織できたというのか。
 まあホモ・サピエンスの遺伝子が長生きできるような特徴を持っていれば、その遺伝子は、べつにアフリカ人が出てゆかなくても、集団から集団へと手渡されながら、あっという間に世界中に広がってゆく。これが、人類世界の普遍的な生態です。
 人類は、ホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになったことによって、平均寿命が伸びていった。これは、確かかもしれません。しかし、これがそのまま地球上の人類はアフリカ人に覆われてしまって先住民のほとんどは滅んでしまったという証拠になるはずもありません。
 先住民のすべてがホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアになっていっただけです。
 数万年前のアフリカ人がヨーロッパに移住していって爆発的に人口を増やしながら先住民のネアンデルタール人を駆逐していったということなど、あるはずがない。そのころヨーロッパに移住していったアフリカ人などひとりもいない。
 人類史の状況証拠として、数万年前(もしくは十数万年前)のアフリカ中央部の人々は、すでに拡散してゆかない人種になってしまっていたのです。だから、その後の氷河期明けにおいて、「暗黒大陸」などと呼ばれるような、文明から取り残される歴史を歩まねばならなかった。



 人類拡散は二本の足で立ち上がったときからすでにはじまっていたが、同時に、現在のアフリカ中央部で暮らしている人たちは、700万年前からずっとそこに住み着いて、拡散していった種族とはべつの進化の歴史を歩んできたのです。これは、現在のゲノム遺伝子の解析によって、世界中のほとんどの人類にネアンデルタールの遺伝子の痕跡が残っているのに、アフリカ中央部にはその痕跡のない純粋なホモ・サピエンスの人々がいる、という結果として報告されています。
 アフリカ中央部のサバンナ地帯という環境は、人類の心と体をどのように進化させてきたか?
 彼らは、世界中に拡散していった人々とは別の進化の歴史を歩んできたのです。彼らの中に人類のプロトタイプの痕跡があると同時に、彼らもまたすでにプロトタイプの人類ではないし、彼らの中に現在の人類の生態やメンタリティが集約されているのでもない。
 何はともあれ彼らは、拡散してゆかない種族として700万年の歴史を歩んできたのです。したがって、ホモ・サピエンスになった十数万年前から数万年前に急に思い立って拡散をはじめたということなどありえない。べつに、拡散する種族として降って湧いたように発生してきたのではない。そこでの700万年の進化の結果として、拡散しない種族としてホモ・サピエンスになっていっただけです。
 しかしそれは長生きができる遺伝子だったから、拡散の歴史を歩んできた別のグループによって世界中に広められた。それだけのことです。



 二本の足で立ち上がった原初の人類は、ひとまず猿よりも弱い猿になった。これが人類史のはじまりです。これによって世界や他者にときめいてゆく心の動きは豊かになったが、とにかく「危機」から逃れる能力は大幅に後退した。それは、不安定な上に胸・腹・性器等の急所を外にさらし、攻撃されたらひとたまりもない姿勢です。だから、仲間どうしが戦って順位争いをするという猿としての生態は捨てるほかなかったし、ライバルの猿や肉食獣などの天敵からはもう、逃げるどころではなく、ひたすら隠れて暮らすしかなかった。
 生き物の敵から襲われたときの「危機」に対する反応は、おおよそ3つあります。ひとつは「逃げる」こと、次に「消える=隠れる」こと、そしていよいよとなって「戦う」こと。
 弱い猿になってしまった人類にはもう、「消える=隠れる」ことしか危機に対応するすべはなかった。そうして、「消えようとする=隠れようとする」メンタリティと生態が特化していった。
 原初の人類が発生した森は、奥地のジャングルではなく、サバンナの中の孤立した小さな森であったはずです。
 人類の祖先がもともと弱い猿としてそういうサバンナに近い場所に追い払われていたのであり、そのころの地球気候の乾燥化によってさらにサバンナが広がり、気がついたらそこはもうサバンナの中の孤立した小さな森になっていた、というようなストーリだったのでしょう。
 最初のうちは、ひたすら森の中に隠れて暮らしていた。
 隠れて暮らしているぶんには、ひとまずライバルの猿のこともサバンナの肉食獣のことも気にする必要がなかった。
 ジャングルの中でライバルの猿たちと共存して生き抜いてゆくよりも、よほど気が楽だったのかもしれない。だから、二本の足で立ってさらに弱い猿になってしまうことが可能だった。
 ジャングルの中で生存競争をしている現在のチンパンジーが二本の足で立つ猿になる機会は、永遠にやってこない。
 その代わり人類は、ひたすらその小さな森の中に隠れて暮らすしかなかった。そうやって「消える=隠れる」という生態がどんどん特化していった。



 しかしやがて、その集団からはぐれてサバンナを横切り別の森に移住してゆく者たちがあらわれてきた。これが人類拡散のはじまりで、移住していったのは、集団に適合できない未発達のものたちだった。
 そうやってやがて人類は、サバンナの森の中にとどまることのできる種族と、とどまることができないでどんどん拡散してゆく未発達な種族に分かれていった。
 人類拡散がアフリカの外にまで広がってゆく200〜300万年前のころには、身長が180センチにもなるすらりとした体型の種族もいれば、猿とそう変わりない120センチくらいの種族もいるという状況になっていました。
 そしてこれまでの人類学の常識ではこの高身長の種族が身体能力にものをいわせて拡散していったことになっていたのだが、グルジアの遺跡の発掘でそれが覆された。じつは未発達の種族が拡散していったということがわかった。
 高身長で脚力があってすばやくサバンナを横切ったりすることができるのなら、サバンナの暮らしを捨てる必要はない。やがてサバンナの森はどれもますます小さくなっていったが、彼らは、それらの森を転々とする暮らしに適合したメンタリティと生態をそなえていった。
 サバンナは大きな集団で行動することはできない。いつ天敵の肉食獣と出遭うかわからない。人間の二本の足で立つ姿勢は、大きな集団で一斉に走り出せば、将棋倒しになってしまう。彼らは、家族的小集団で移動生活をしていた。
 地球気候の乾燥化によって、サバンナの中に点在する森は、どんどん小さくなっていった。彼らは、サバンナを横切ってその小さな森を転々とするというかたちで歴史を歩んできた。
 この暮らしができないものたちは、拡散してゆくしかなかった。そうして、知らないものどうしが出会ってときめき合って新しい集団になってゆくというメンタリティと生態を育ててきた。ここから、人類の集団は、際限なく大きくなってゆくことになる。
 それに対してサバンナでは、どうしても大きな集団になる生態が育たない。だからアフリカは、いまだに国家の建設運営が遅れている。彼らは、大きな集団の中で暮らすメンタリティを持っていない。そういう人たちが、いきなりヨーロッパに移住して大きな集団をつくりながら定住してゆくという暮らしに移ってゆくことができるでしょうか。
 アフリカの中央部では、700万年かけて「ミーイズム」の伝統を育ててきた。サバンナには肉食獣がたくさんいるから、森の中に隠れて暮らさねばならない。そして灼熱の日差しを避けるためにも、森の中の日陰に隠れていた方がいい。もともと人類は危機に対して「消えようとする=隠れようとする」反応を特化させながら歴史を歩みはじめたのであり、その反応によって彼らはサバンナの暮らしに適合していった。
 サバンナでミーイズムが発達していったのは、歴史の必然だった。そうやって適合・進化していった者たちがサバンナに残り、適合できなかった種族がアフリカの外へと拡散していった。



 ホモ・サピエンスの遺伝子は、十数万年前のアフリカ中央部のサバンナ地帯で生まれてきたといわれている。しかしその遺伝子のキャリアになったサバンナの民には、すでに拡散してゆこうとする衝動も生態もなかった。彼らは、そういう行動を起こすような歴史を歩んでこなかったのです。
 それでも、その遺伝子が「長生きする」という特性を持っていれば、じわじわ世界中に広まってゆく。「幼形成熟ネオテニー)」、ゆっくり成長して長生きするという形質です。
 これに対して北ヨーロッパネアンデルタール人の遺伝子は、寒さの中で生き抜くために早く成長して早く死んでゆくという形質をもたらした。
 もし仮にホモ・サピエンスの遺伝子が15万年前のサバンナの民に共有されていたとすれば、それがヨーロッパ大陸まで伝播していったのが4万年前以降だから、11万年かかったことになる。
 この時間はちょっと長すぎます。一説によれば、東南アジアやオセアニアでは6〜7万年前ころにはすでに伝播していたということだから、それらの地域よりもずっと近いヨーロッパ大陸に上陸するのが4万年前というのは、いかにも不自然です。スエズ運河あたりから地中海沿いに北上して行けば、ギリシャブルガリアはもう目と鼻の先の距離です。
 ヨーロッパとアフリカの中間の中東地域ですら、7万年前にまだホモ・サピエンスの遺伝子は定着していなかった。なぜでしょうか。
 7万年前といえば、地球気候は氷河期に入ったころです。おそらくそのときすでにヨーロッパ大陸まで伝播していったが、その遺伝子のキャリアの個体は生まれてすぐに死んでいった。そのころ人類はまだ、そのゆっくり成長するという形質の乳幼児を寒さの中で生きのびさせる文明を持っていなかった。それは、アフリカ中央部や東南アジアのような赤道直下の地域でしか機能することができなかった。
 氷河期の赤道直下は、乳幼児を育てるには理想的な環境だった。現在のような灼熱地獄になることなく、一年中25度前後の気温で推移していた。そういう恵まれた環境で、「ゆっくり成長する」という形質の遺伝子が定着していった。
 だから、寒いヨーロッパでホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアの乳幼児を育てることができるようになるのは、一時的に氷河期の寒さがゆるんだ4万年前になってからのことだった。
 しかもその現象は、南より北のほうで先に起こってきた。なぜなら北のほうが、弱い乳幼児を生きのびさせる介護の文化が進んでいたからです。
 南ヨーロッパや中東地域でホモ・サピエンスの乳幼児を育てることができるようになるのは、北ヨーロッパよりもあとのことだった。
 まあ、アフリカ人が北上して移住していったいったというのなら、とうぜん中東地域のほうが早くホモ・サピエンス化していなければならない。じっさいその地域では、10万年前の温暖期にはすでにホモ・サピエンス化していた、という痕跡があります。しかし7万年前以降の氷河期になれば、またネアンデルタール人の形質でないと生きられなくなっていった。中東地域は、つねに北と南の遺伝子が入り込んできていた。といっても、人類学者がいうように、温暖期にはアフリカ人がやってきて住みついたとか、寒冷期になるとヨーロッパのネアンデルタール人が南下してきてアフリカのホモ・サピエンス人を追い出したとかというような話ではない。そこに住み着いていていたのはいつだって中東の先住民であり、ただ伝播してきた遺伝子によって温暖期と氷河期が入れ替わる数万年ごとに形質もまた変わっていった、というだけのことです。



 氷河期の中東以北の地域では、なんといってもネアンデルタール人の遺伝子のキャリアのほうが生き残る確率が高かった。
 しかし4万年前の間氷期になると、ホモ・サピエンスの「ネオテニー」の遺伝子を取り込んでも乳幼児が生き残ることができる文化水準になっていった。 
 べつにアフリカ人がヨーロッパにやってきて住み着いたのではない。ネアンデルタール人がその遺伝子を取り込んでいっただけのことです。
 そう考えないと、状況証拠としての歴史のつじつまが合わない。そう考えてはじめて、4万年前以降は北ヨーロッパから先にホモ・サピエンス化していった、ということの説明がつく。
 そのときアフリカ人であれ中東人であれ、北ヨーロッパに行ってホモ・サピエンスの遺伝子のキャリアの乳幼児を育てることができる文化を持っていなかった。それは、北ヨーロッパネアンデルタール人社会においてのみ可能になることだった。
 そのころのアフリカ中央部の赤ん坊なんか、ほったらかしにしておいても育つような恵まれた気候環境だった。だから「ネオテニー」のホモ・サピエンスの遺伝子が定着していったのであり、それは、そこでは乳幼児を育てる文化などたいして発達していなかった、ということの証明でもある。そういう人たちが、どうして極寒の北ヨーロッパに移住してゆくことができよう。彼らは、中東にすら移住してゆくことができなかったのです。
 まあ、そのころのヨーロッパでアフリカ人とネアンデルタール人のどちらが生き残るのに有利だったかということがよく議論されるのだが、そのためのいちばん大きな要素は、乳幼児を育てる文化の高さにこそあるのです。
 それほどに北ヨーロッパは、乳幼児がかんたんに死んでしまう環境だった。氷河期においては、早く成長するネアンデルタール人の乳幼児ですら半分以上が死んでしまっていたのです。
 現在のネアンデルタール人の遺跡から発掘される骨の半分は乳幼児のものです。乳幼児の骨は、大人のそれよりもずっとかんたんに土に溶けていってしまう。それでもなお、半分は乳幼児のものなのです。
 人類学者の多くは、アフリカ人がやってきて伝染病を撒き散らした、などともいっているのだが、そんなあるかないかわからないような憶測(空想)を並べてもせんないことで、その前にアフリカ人などひとりもやってきていないのだから話にならない。
 とにかく、原始時代の北ヨーロッパでは、いかにして乳幼児を育て上げるかということこそ最大の生のテーマだったのであり、それはもう、集団存続の死活問題でもあった。そしてそのことにおいてアフリカ人は、文化的にまったく無力だったのです。
 ホモ・サピエンスの遺伝子の特徴が「幼形成熟ネオテニー)」にあるというそのことが、4万年前のヨーロッパにやってきたアフリカ人などひとりもいないということの確かな「状況証拠」なのです。
 まあ、4万年前のアフリカ人が拡散したがる人種でないことの状況証拠は、いくらでも挙げることができる。
 その衝動は、行き止まりの地にたどり着いたネアンデルタール人のほうがずっと豊かにそなえていた。
 現在の人類学者たちは、人類が地球の隅々まで拡散していったことによってどのようなメンタリティや生態を獲得していったかということについての考察をほとんどしてない。「住みよい土地を求めて」とか「狩の獲物を追いかけていった」とか、そんな陳腐なことをいっているかぎり、できるはずがないのです。
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