投票に行く理由

現政権は、この国をめちゃくちゃにしてくれた。多くの下層の民衆がすっかり疲弊し困窮している、という。これは、安倍晋三ひとりだけのせいだともいえない。そのまわりに群がって甘い汁を吸っている政治家や官僚や資本家やインテリやマスコミがたくさんいて後押ししている。

そこで、社会学者の宮台真司はこういっていた。「たとえ安倍晋三が退陣して後始末をしようとしても、既得権益を守ろうとする者たちの抵抗が激しく、新しい時代が来るどころかさらにひどい状況になり、さらにひどいバッシングを受けるだけだろう。だから、ほんとうに志と能力のある政治家はその仕事を引き受けるのを今はやめて、すっかり悪くなってからにしたほうがいい」、と。

つまり、まだまだ「このままでもかまわない」と思っている中間層までもが危機感を抱くようになるまで待ったほうがいい、悪くなるだけなってぺんぺん草も生えないような状況にならなければ「新しい時代」はやってこない、ということらしい。

たしかに「賢い」意見だ。しかし、そこに至るまでに、いったいどれだけの人がこの時代状況の犠牲にならねばないのか。そういう「犠牲」はしょうがない、というのだろうか。まあ彼自身はそういう「犠牲者」のひとりになる心配がないわけで、そういう高みに立ってそういう賢くて能天気なことをいってくれている。

それに対して山本太郎は、「これ以上ひとりも<犠牲者>を出したくない、抵抗勢力の強い圧力を受けるのは承知の上のこと、死ぬ気でやるから私に<後始末>をやらせてくれ」と全国街宣で訴え続けている。

まあ、まだまだのんきな「中間層」がたくさんいるのはたしかなことだし、そこを取り込めなければ政権交代なんて夢のまた夢だろう。そしてそんな「中間層」に「あなたを助けたいんだ」と訴えても、今のところ多くは響かないだろう。しかし、「あなたも困っている人に手を差しのべてください。現在のこの社会は、あなたが投票に行ってくれないと明日死んでしまうかもしれない人がいるんだ」と訴えれば、多少は届くものがありそうな気がしないでもない。彼らは自分のために投票に行くことはないが、「他者に手を差しのべようとする衝動」は、人間性の自然としてだれの中にもある。山本太郎はそういう衝動をだれよりも熱くたぎらせている存在であり、その「いつ死んでもいい」という勢いの「献身性」にこそ彼が多くの民衆から支持されるカリスマ性のゆえんがある。

徹底的に悪くなればいいだ……そんな「賢い」ことを言っていられる余裕なんか、山本太郎にはない。そこに至るまでにたくさんの人が立ち直れないほどに打ちひしがれ、死んでしまったりするのだ。

「落ちるところまで落ちればいい」と傍観しながら、この醜悪な現政権がしでかしてしまったことの「後始末」は「後回し」にしておいていいのだろうか。

そりゃあ、今よりももっと多くの人が困窮するようになっても、高名な社会学者である宮台真司の人生だけは安泰に違いない。

やれやれ……というため息ばかりの年の暮れ。

 

 

まあ「国家の再生」ということなら、落ちるところまで落ちたほうがいいのだろう。

しかしそれでは、「今ここ」で困っている人々は、いったい誰が救うのか?だれも手を差しのべないで、落ちるところまで落ちてゆけばいいのか?

また「落ちるところまで落ちる」とは、いったいいつのことか?

こんな人々の心が荒んでしまった世の中であっても、それでも「片隅」においては、人と人の他愛なくときめき合い助け合う関係が息づいている。だから、「落ちるところまで落ちる」といっても、いつになるかわからない。人類滅亡はめでたいことだけど、そうかんたんには滅びないのが人類の歴史である。

言い換えれば、「片隅」の人々の他愛なくときめき合い助け合う心がこの醜悪な政権の延命を可能にしているともいえる。

けっきょく宮台真司だって、あのバカな右翼たちと同じように、「国家」という単位で考えているだけで、「片隅」の「人々=他者」に対する視線の切実さがない。山本太郎にはあるが、宮台真司にはない。これは、政治の現場にいて悪戦苦闘している者と、その外側にいてのんきに眺めている者との違いだろうか。

そして右翼であれ左翼であれ、政治オタクというのはどうしても「国家」という単位で考えて、「人間とは何か」ということに対する問いに切実さや深さが足りない。

とくにこの国の民衆は伝統的に「国家」という意識が希薄だから、そのレベルであれこれ語っても、あまり大きな説得力にはならない。

ほんとうに落ちるところまで落ちれば新しい時代はやってくるのか?投票率は上がるのか?もしかしたら、もっと人々のあいだに「あきらめ」の気分が広がり、さらにファシズムが加速してゆくだけかもしれない。なぜならこの国はかつて、そうやって太平洋戦争に突入し、そうやってどんなにひどい状況になってもなかなか戦争をやめるということができなかったではないか。落ちるところまで落ちたら……本格的なファシズムがやってくるだけかもしれない。今止めなければ、あのときあの無残な敗戦を迎えるまで戦争がやめられなかったように、ほんとうに滅びてしまうところまで引き返せないのかもしれない。

「落ちるところまで落ちたら新しい時代がやってくる」なんて、そんな甘いものではないのかもしれない。そのときは今よりももっと投票率が低くなっているかもしれないし、じっさい年々低くなっていっているではないか。

おそらく、「落ちるところまで落ちる」ことがこの国の民主主義にとってもっとも有効なことでももっとも大切なことでもない。もっとも有効で大切なのは、この国の民衆社会の伝統である「他愛なくときめき合い助け合う関係性=集団性」を取り戻すことであり、またそのためのよりどころとして日本列島の長い歴史において天皇という存在が民衆から愛され祀り上げられてきたのだ。

自分のために投票に行くのではない。自分よりももっと困っている人のために投票に行く。「誰かに手を差しのべたい」という思いはだれの中にもあるし、そういう思いが結集されて投票率が上がってくるのだろう。

 

 

日本列島は四方を荒海に囲まれた島国だから、少なくとも民衆は「国家」などというものを意識しない歴史を歩んできた。日本列島の民衆は、歴史の無意識として、そうした「原始人の心」を残しているのであり、そこに立って文化を洗練させてきた。

文明人は、なぜ「国家」というものをことさら意識するのだろうか。おそらく、国と国が戦争するという歴史が長く続いてきたからだろう。

明治以前のこの国には国歌も国旗もなく、「国家」という意識がなかった。四方を荒海に囲まれた島国で異民族との確執がないまま歴史を歩んできたから、「国家」を意識する必要がなかった。つまり、権力社会には「民衆を異民族から守る」という意識がなかったし、民衆も権力社会に「守ってくれ」と頼む必要がなかった。そういう国家権力と民衆とのあいだの「契約関係」がなかった。だから民衆は、民衆自身の規範で自分たちの社会を運営してきた。

われわれは日本列島の住民であるという「事実」を背負って生きているが、「国家」などというもののかたちは時の政治権力によっていろいろと様変わりしてきたわけで、そうした権力社会の推移だけでこの島国の歴史の正味というか、この島国の住民の集団性(民族性)の本質がわかるわけではない。日本列島の民衆は、伝統的に国家の政治にあまり興味がない。しかしそれは、集団を運営するという政治そのものに対する意識が低いからではなく、国家の権力社会とは別の民衆独自の集団性(=政治)の文化を持っているからだ。

この国の権力社会は、民衆を支配しているという意識も民衆を守ろうという意識もない。民衆社会を直接支配し契約関係を結んでいるのは江戸時代でいえば「藩」であり、たとえば税の取り立ての規則も藩ごとに違っており、幕府は藩と契約を結び藩を支配しているだけで、藩が民衆を支配していた。このような二重支配の関係は古代以来ずっと続いてきたわけで、いつの時代も民衆にとっての暴君も名君もそうした地域の支配者であって、国家の支配者ではなかった。

この国の国家権力は、伝統的に民衆のことなど何も考えていない。悪意もなければ善意もない、ただただ冷淡なだけだ。それはもう、現在の総理大臣から官僚までの権力者たちを見ればよくわかる。とくに総理大臣は愚鈍であるからこそ、そうした国家権力の伝統の無神経で残酷な部分をそのまま体現してしまっているし、まわりの権力亡者たちがそれを意図的に支えるという構造も、昔からずっと続いてきたことだ。この国の権力社会は、避けがたくそういう傾向の生態になっており、民主主義の現在はそれが民衆社会の家の男たちの思考にまで及んで社会全体を停滞させている。

 

 

民主主義とは、民衆のための政治をするということであって、民衆が政治をすることではあるまい。

政治は政治家がするものに決まっているが、右翼であれ左翼であれ、民衆と同じ目線に立つことができる政治家はまれである。なぜならこの国の民衆社会には国家意識(ナショナリズム)の伝統がないからで、たとえば「よい国にしたい」というその思考自体が民衆の意識から乖離している。

民衆は国を守るために生きているのではない。隣人や家族を、そして生きられない弱いものを生きさせたいと願って生きている。しかし、「生きられない弱いもの」の存在は、国を守るための邪魔になる。そうやって国家の権力者と民衆の意識とのあいだに大きな乖離が生まれ、権力者は民衆に対して冷淡で民衆を守る義務なんかほとんど考えないし、民衆も国家権力に関心が薄いためにその冷淡な仕打ちを「仕方がない」と思ってしまう。

民衆にとって「世間=国」なんかいつの時代も「憂き世」に決まっているのであり、「よい国にしたい」となんか思っていない。ただもう「人と人とのよい関係」を生きていられたらと願っているだけだ。言い換えれば民衆にとっての「国」とは国家制度という「幻想=観念」ではなく、具体的な「人と人の集まり」という実体であり、それが「幻想=観念=規範=制度」になった瞬間から「憂き世」になってしまう、ということだ。

国家の存続のための政治なんかしてもらっては困る。生きられない貧しく弱いものを生きさせようとするのが民衆社会の伝統であり、それができないのなら国家なんか滅びてしまってもかまわないし、そう覚悟することによってはじめて国家が存続し活性化する。そう覚悟しなければ、この国の民主主義は成り立たない。

民衆社会は、人々が他愛なくときめき合い助け合う社会の実現を他愛なく夢見ることの上に成り立っている。その「他愛なさ」こそ、もっとも過激で本質的なのだ。国家のことなど、知ったことではない。大切なのは、人と人の関係なのだ。だからわれわれは選挙に行かないし、困っているだれかのためであるのなら選挙に行く。

権力者にとっての「公(おおやけ)」とは「国家」のことだが、民衆にとってはあくまで世の中の「人と人の関係」なのだ。

 

 

政権交代が起きるためには、投票率を上げることが喫緊の最重要課題だろう。

どれほど「これが正しい政策だ」と訴えても、それだけで民衆を投票所に向かわせることはできない。そのためには、魅力的なリーダー、すなわち「祭りの神輿」が必要になる。人と人が他愛なくときめき合い助け合う「祭りの賑わい」というか、そういうポジティブな人と人の関係が生まれてこなければならない。

であれば、「落ちるところまで落ちて」人々の心が疲弊しきったところから「新しい時代」を生み出す気運が生まれてくる、といえるほど甘いものではないともいえる。そうなったときの民衆は、ますます「諦めて」しまうかもしれない。

あの戦争のときに召集令状を受け取ったほとんどの民衆は「諦めて」それに従っただけであり、その証拠に、敗戦の後はあんなにも窮乏していてもだれもが「解放感」に浸っていたし、「二度と戦争はしない」と誓った憲法第九条にもろ手を挙げて賛成していった。

この国が立ち直るためには、あの敗戦と同じだけの惨状を必要とするのか?

自分だけは安全だという高みに立って「落ちるところまで落ちよ」などという傲慢でさかしらなことはいうな。明日死んでしまうかもしれない人に向かって、あなたはそんなことがいえるのか?

まあ現在だって度重なる大震災や原発事故も起きたことだし、すでにそういう惨状に達しているともいえるし、人がこの世に生きてあること自体がひとつの傷ましい惨状だともいえる。

この社会はいつだっていろんな意味で「惨状」であり「憂き世」なのだ。いつの時代もろくでもない人間がのさばっているし、災害は次々に起きるし、生きていればままならないことばかりで、最後にはだれもが必ず死んでゆかねばならない。

それでも、世界や他者はいつだって輝いている。

人は、「愛なき世界」を生きて、つねに「愛」を夢見ている。

自分が幸せか不幸かというような問題ではない。この社会に「他者」が存在するというそのことにおいて、この社会が立ち直る契機は、すでに「今ここ」にある。人が生きてある「今ここ」において、人と人が他愛なくときめき合い助け合う社会を夢見る心映えは普遍的根源的に生成している。そのための形見としてこの国には天皇が存在しているのであれば、それを実現しようとするリーダーが登場してくる土壌の伝統は広い世の中にも片隅にもあまねく息づいているわけで、みんながリーダーになりみんながリーダーを担ぐ存在になりながら「新しい」時代が生まれてくるのだろう。つまりそれは、だれもが他者にときめき他者に献身する存在になる、ということだ。

 

 

山本太郎の人気を見ればよくわかるように、人間社会における「リーダー」であることの本質は「献身」にある。つまり、相互的な「献身」こそが、人間的な集団性の起源であり究極のかたちにほかならない。

この国の天皇の存在の本質においても、それは、世界や他者の輝きに祝福しひざまずいてゆく人であることにある。天皇とは、きわめて原始的で本質的な存在であり、したがって人間社会における究極の「リーダー」の姿を体現する存在でもある。

原始共産制」の社会にはリーダーが存在しなかったと同時に、すべての集団員がリーダーだった。まあ、そんな人間ほんらいの集団性の形見として天皇が祀り上げられていった。

人間社会のもっとも本質的な「リーダー」は、「命令」する存在でも「説得」する存在でもなく、「献身」する存在なのだ。原始社会においては、だれもが「献身」する存在だったがゆえに、だれもが「リーダー」だった。それは、原始人の心が清らかだったとか、その考えるところが倫理的だったとか、そういう問題ではない。だれもが生きることに四苦八苦していたから、自分のことを忘れてしまわないと生きていられなかったために、自分を忘れて他愛なく世界や他者の輝きに他愛なくときめいてゆく体験を深く豊かに体験をしていたからで、その「他愛ないときめき」が相互的な「献身」や「贈与=ギフト」の行為になってゆき、そのようにして「原始共産制」が成り立っていた。

現代の選挙だって、本質的には他者への「献身=贈与=ギフト」の行為として成り立っている。自分のために選挙に行くのではない。この世界の生きられない弱いものを生きさせるために選挙に行くのであり、その「もう死んでもいい」という勢いの「献身性」にこそ人類700万年の歴史の無意識が宿っている。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

初音ミクの日本文化論』前編……250円

初音ミクの日本文化論』後編……250円

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