女は新しい時代を夢見ている

国会内の「桜を見る会」疑惑騒動をよそに山本太郎は、相変わらず精力的に全国街宣を続けている。野党陣営はこれで政権与党を倒すことができるともくろんでいるのだろうが、おそらくそうはうまく行かない。

今すぐ総選挙になっても野党が勝てる要素はほとんどないし、野党にすれば解散総選挙を先送りさせるための戦略でもあるのだろうか。

これは総理大臣個人のスキャンダルであり、いよいよとなれば総理大臣の首をすげ替えてケリがついてしまう。

ロッキード事件のときは今よりももっと大きな騒動になったが、けっきょく総理大臣が変わっただけで、与野党逆転は起きなかった。

投票率が低ければ、組織票を持っている与党が勝つ。野党が勝つためには、どんなことがあっても投票率を上げなければならない。そのためには、総理大臣のスキャンダルだけではだめだ。どうせその程度の総理大臣だというくらい、みんな知っている。

野党自身に「魅力」すなわち「華=セックスアピール」がなければ、投票率は上がらないだろう。今や野党自身が国民から幻滅されているのだもの、投票率など上がるはずがないではないか。

山本太郎を担ぎ上げないかぎり、野党に勝ち目はない。それはもうきっとそうなのだが、ぐずぐずと主導権争いの駆け引きばかりして、いつまでたっても国民の関心をひとつに集めるというムーブメントにはならないだろう。

今のところ国民の関心を集めることができるのは、山本太郎以外にいない。現在続けている全国街宣によって、その人気というか支持率は、これからじわじわと口コミで広がってゆくにちがいない。

もしも衆議院解散総選挙があるとすれば、年明け早々だろうといわれている。そのころに野党間の勢力関係はどうなっているのだろう。おそらく立憲民主党や国民民主党は、今よりももっと山本太郎とれいわ新選組が脅威になっているにちがいない。

桜を見る会」疑惑によって総理大臣の支持率が失墜したとしても、魅力のない既存の野党の人気が上がるわけではない。

 

 

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けっきょくリーダーの「華=セックスアピール」こそがその人気を決定する。

政治家としての「華=セックスアピール」は、芸能人のそれと同じではない。政治家は、男でも女でもない。政治家は政治家であり、人間として世界や歴史と対峙しているその熱量やスケールを感じさせなければならない。

山本太郎は、あるときの街宣でこういっていた。「こっちは殺される覚悟でやっているんだ!」と。それを冷笑する者たちには、彼のような「華=セックスアピール」はない。

「冷笑」などというものは仲間内だけで共有されるものであり、広く伝わってゆく「華=セックスアピール」にはならない。貧相なネトウヨたちが彼を冷笑しつつさかんに貶めようとしているが、それは狭いネット社会の空疎な戯れにすぎない。

山本太郎とれいわ新選組に対する支持は、確実に広がりつつある。

この国の民衆社会には、リベラルな社会民主主義を受け入れる歴史的な土壌=伝統があり、その中心的な存在は女たちだ。だからこそ、彼女らのリーダーになる政治家には「華=セックスアピール」がどうしても必要になる。

与野党逆転するためには、投票率を上げることが必要不可欠だ。そのためには、主婦をはじめとする名もない女たちが立ち上がり、そのムーブメントの中心になってゆかねばならない。女学生からおばあちゃんまで、女たちの「噂話」や「井戸端会議」こそ、この世の中のもっとも広く有効な「クチコミ」なのだ。

時代が変わることほどワクワクすることもないし、それをいちばん待ち望んでいるのは女たちであり、女たちは生きてあることそれ自体にいたたまれない思いを抱えている。

総理大臣のスキャンダルなど置きざりにして新しい時代に飛び込んでゆこうとする動きが生まれてこなければならない。

人々は「このままでいい」と思っているのではない。魅力的な新しい時代のかたちが見えていないだけだ。彼らが投票に行かないのは、魅力的な新しい政治家が登場してきていないだけだ。

「正しい未来」などというものはない。人々の心は、正しかろうと間違っていようと、「魅力的な未来」に向かって動いてゆく。

 

 

枝野幸男玉木雄一郎野党共闘のリーダーでは、与党との勝負にならない。

どれほど「桜を見る会」疑惑が深まろうと、それで選挙に行かない無党派層が選挙に行くようになるとも思えない。

今すぐ選挙をすれば、投票率は上がらないまま、与党は議席を少し減らすだけで過半数を確保し、「やっぱり野党はだめだなあ」という印象を残して終わることだろう。

既存の野党では投票率は上げられない……これはもう安倍政権のもとで何度も行われてきた選挙によって証明されている。

投票率を上げるためには、女たちが立ち上がらねばならない。中世の「一揆」も幕末の「ええじゃないか」も大正の「米騒動」も、すべて女たちが立ち上がったところからはじまっているのだ。それが日本列島の伝統であり、「新しい時代を夢見る心」は、女たちのもとにこそもっとも豊かに宿っている。

枝野幸男玉木雄一郎には、女たちの心を引き寄せる「華=セックスアピール」がない。それはつまり、民衆の中の「新しい時代を夢見る心」を喚起することができない、ということだ。だから、何度選挙をしても投票率が上がらなかった。

与野党逆転のための喫緊の最重要課題は、投票率を上げることにある。投票率を上げるためには、示された政策が正しいかどうかということ以前に、「華=セックスアピール」のあるお神輿を担ぐことができるかどうかということにある。そのお神輿が枝野幸男玉木雄一郎ではもはや望みはなく、山本太郎を担がないかぎり民衆の気持ちは盛り上がらない。そのことはもう、多くの野党議員が薄々自覚していることかもしれないが、きっとそうはならないだろうという現在の政治状況があるらしい。

具体的なことをいえば、選挙になっても、もう立憲民主党にも国民民主党にも風は吹かない。それはきっと確かなことで、現在の両党が民衆から支持されるための最良の方法は、合流してより大きな勢力になることではなく、それぞれがいったん解党して出直すことだろう。だって、それこそが多くの民衆が望んでいることなのだもの。少なくとも無党派層の民衆のほとんどはそう望んでいるし、そうなって、はじめて投票率が上がる。おもしろくなければ、セクシーでなければ、投票率は上がらない。

彼らが解党すれば、投票率は上がる。そういう段階に差し掛かっている。だって、山本太郎という新しく魅力的な神輿がすでに登場してきたのだから。

山本太郎の全国街宣の評判は、ここにきてじわじわと「口コミ」で広がり始めている。これから先もさらに広がってゆき、立憲民主党や国民民主党の存在感は時間がたてばたつほどますます薄れてゆくことだろう。でもそうなったときこそ山本太郎を神輿に担ぐチャンスが到来するわけで、与党にすれば今すぐ選挙をしたほうが得なのかもしれない。

 

 

桜を見る会」疑惑で、立憲民主党や国民民主党の支持率がアップしたわけではない。共産党がわずかに見直されたぐらいのものだろう。

しかし共産党だって、天皇制を否定しているかぎり、民衆の広い支持を得ることはない。

共産党をはじめとする世の多くの左翼は、「天皇の存在が民主主義の実現を阻んでいる」という。しかし彼らの敵は、右翼たちであって、天皇その人ではない。

天皇制こそが「差別」の元凶である、などというが、天皇はこの世のだれよりも差別しない人である。古来より天皇家は被差別民=無縁者との親密な関係を結んできたし、何より天皇自身が現在でも戸籍を持たない「無縁者」なのだ。

天皇の存在はほんらい、差別をしない心のよりどころになってきたともいえる。天皇のように生きようとするなら、人は差別をしない。

右翼はこの世でもっとも差別心が旺盛な者たちであるが、彼らは、天皇を祀り上げつつ天皇を利用して人を差別し支配しようとしている。つまり、天皇の権威を借りてマイノリティ=無縁者を侮蔑し、自分の差別心を満足させている。差別心は、他人と自分を見比べる競争心であり、そのあげくに他人を追い落とし排除してゆこうとする。自分は「天皇の赤子(せきし)」であるとか自分は「日本人」であるという自覚とともにマイノリティ(無縁者)や外国人を差別し排除しようとしている。

日本人とはいえないような日本人が「日本人に生まれてよかった」と合唱していい気になっていやがる。あなたたちは、ほんとに「日本人とは何か」とか「日本列島の伝統とは何か」ということがわかっているのか。

「日本人とは何か」ということなどわからないのが日本人であり、日本列島の伝統なのだ。だから、外国人から日本人とはこうだということを指摘され、そこではじめて「ああそうか」と納得したりする。

「日本人とは何か」と問い続けているのが日本人であり、日本列島の伝統なのだ。したがって「日本人に生まれてよかった」などとは思わないのが日本人であり、日本列島の伝統なのだ。

天皇日本国籍を持たない「無縁者」であり、天皇は「日本人に生まれてよかった」などとは思っていないし、天皇のようにありたいと願っているのが民衆なのだ。だから「日本人とは何か」ということがよくわからないのだし、ただもう天皇のように、世界や他者の輝きを祝福しながら生きていたいと願っている。それが天皇制の真の伝統であるのなら、天皇制を否定する根拠などないし、天皇制はそのまま「民主主義」にも人類ほんらいの「共産制」のも通じている。

桜だって日本人のそうしただれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく心映えの形見としてその「あでやか」で「たをやか」な輝きが長く愛されてきたのであり、なのに無知で無神経で無節操な安倍晋三一味によって、それを無残に汚されてしまった。それは、法律に違反しているかどうかということ以前に、この上なく醜悪なのだ。

 

 

天皇は、明治以来の大日本帝国が吹聴したようなこの国の権威でも権力でもなく、日本列島の長い歴史の伝統においては、ただもう無邪気に他愛なくときめいてゆくことができる対象として民衆から愛され続けてきただけなのだ。

人間性の普遍においては、人はただもう無条件に愛しときめいてゆくことができる対象をもっとも大切に思うのであり、権威とか権力などというものをありがたがるのは文明社会のたんなる「病理」にすぎないし、それが「差別」につながっている。

天皇を差別の元凶にしてしまったのは明治以来の帝国主義者たちであって、天皇自身には何の罪もない。この国の天皇制はほんらい、人々が他愛なくときめき合い助け合ってゆく「無主・無縁」の集団性を盛り上げるための「よりどころ=象徴」として生まれ育ってきたのであり、天皇の存在こそ「差別」をなくすための希望だともいえる。しかしそのためには、天皇を右翼の権力者たちの手から民衆のもとに取り戻さねばならないわけで、おそらくその先にこの国の民主主義がある。

この国の真の伝統においては、「天皇制」も「共産制」も、民主主義と何ら矛盾しない。そういうことを、共産党をはじめとするこの国の左翼たちは何もわかっていないし、右翼だって天皇という存在のほんとうのありがたさ尊さをまるでわかっていない。

天皇の存在の本質について考えれば考えるほど、既存の右翼も左翼もろくなもんじゃない、と思えてくる。

すなわち、民衆にとっての天皇とは何か、ということを考えるなら、右翼の天皇観も左翼のそれもどうでもいいしくだらないだけなのだ。

この国の民衆の女たちの伝統は、だれもが他愛なくときめき合い助け合ってゆく「無主・無縁」の集団性を願っていることにあり、そのための「よりどころ=象徴」として天皇を祀り上げてきた。そして、まさにその心映えを体現している存在である山本太郎とれいわ新選組に今、熱い支持を寄せはじめている。

果たして彼女らの夢見る「新しい時代」はやってくるだろうか。

 

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』

初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。

初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。

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『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円

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