自然法としての性善説と性悪説・神道と天皇(139)

日本列島の文化の伝統は「性善説」であり、古代以前に善悪の概念はなかった。このことは古事記から類推できる。そこでは、善も悪もない混沌とした世界が語られている。ヤマトタケルもスサノヲも、平然と殺しをはたらく。それでも彼らは神であり、神社の祭神として民衆に篤く祀り上げられてきた。それはきっと、縄文・弥生時代以来のというか、古代以前の奈良盆地がどこよりも大きな都市集落へと膨らんでいったダイナミズムの源泉となった「すべてを許す」集団性の文化の伝統だったのだろう。
日本列島の文化の伝統は、善悪を超えた「異次元の世界」の「神聖なもの」を祀り上げてきた。
古代以後は大和朝廷という国家制度や仏教伝来などによって善悪の概念が広まっていったが、それでも民衆社会は、原始神道とともに善悪を超えた「神聖なもの」を祀り上げるメンタリティを守ってきたし、古代以前においてはまるごとそのようなメンタリティに覆われた社会になっていた。
まあ世界中どこでも民衆社会にはそのような伝統が残っているのだが、日本列島ほど洗練発達していないのは、大陸の場合は支配者に異民族の侵略から守ってもらわねばならないという事情を抱えていたからだろう。外部の第三者との緊張軋轢を抱えていれば、あるていど善悪の観念も持つしかない。「あいつらは悪だ」とみんなで合意してゆく……そうやって民衆社会の「良心」という「神聖なもの」を祀り上げる伝統が汚されてゆく。まあ、現在のこの国だってその例外ではない。
明治維新以来のこの国は、天皇を神として崇めながら、皮肉なことにほんらいの「神聖なものを祀り上げる伝統」を失ってきた。それはもう世界史の避けがたいなりゆきだったのだけれど、それでもそうした伝統が民衆社会から消えてなくなったわけではないし、現在、ひそかに少しずつよみがえりつつある気配がないわけでもない。
ただ、現在の右翼は「失った」という自覚などさらさらなく、むしろその「国家神道」こそが日本列島の正統だと思い込んでいる。夏目漱石のように「ただの安普請のバラックだ」と、どうして思えないのだろう。彼らは、一般的な日本人から気味悪がられることはあっても、あまり好かれてはいない。

明治以来の帝国主義は、国家神道のもとに、国家や天皇に対する国民のつとめとか、家父長に対する家族のつとめとか、女は男に付き従いサービスをするとか、そうやって民衆を徹底的に支配して縛っていった。日本会議をはじめとする現在の右翼は、そのシステムを復活させたいと願っている。
明治以来の帝国主義は、そういう支配=被支配の関係の安定秩序の充足がないと生きられない人たちをつくり出した。文明社会は、そうやって「結束」しながら第三者を「敵」として排除してゆく。それはもう、アメリカだろうとイスラム社会だろうとこの国の左翼と右翼だろうと同じで、だからまあ左翼が右翼に「転向」するということもしばしば起きてくる。けっきょく「結束」する集団性の中に身を置こうとするわけで、それは文明社会の普遍的なシステムであって、この国の伝統でもなんでもない。
この国の民衆の集団性の伝統は、「結束」のない「混沌」の中で「連携」してゆくことにある。あの大震災のときは、この世の終わりのような風景の中の誰もが途方に暮れている「混沌」の中で粛々と「連携」していった。「結束」しないところでこそ「連携」が生まれてくる。
明治以来の帝国主義は、民衆の「連携」の集団性を、権力社会の「結束」の集団性に染め上げていった。で、いったん敗戦の反動で「連携」の集団性を取り戻したかのように見えたが、政治の世界では、いわゆる55年体制として、けっきょく左翼的な「結束」の集団性と帝国主義的な「結束」の集団性との対立になっていっただけだった。まあそれが政治の本能だから、しょうがない。そうして今や帝国主義的な「結束」の集団性が民衆社会にも下りてきているのだが、しかしだからこそ民衆ほんらいの「連携」の集団性がよみがえりつつある気配もないではない。
まあ世界的に「連携」の集団性が模索されはじめている時代だともいえる。人間なのだもの、神や独裁者に命令されないかぎり、そうそう「結束」できるものではない。大きなスタジアムでの大掛かりな人文字なんて、北朝鮮や宗教団体しかやりたがらない。
ポップスターのコンサートやスポーツ観戦のように、どこからともなく人が集まって来てワイワイガヤガヤ群れてゆくということはいくらでもあるが、人はそこから「連携」の集団性をつくってゆく。

文明制度は、集団の「結束」を目指す。それは、第三者を排除することによって生まれてくる。あいつらは「悪」だ、ということ。その認識は「性悪説」の上に成り立っている。したがってそれがいかに間違っていようと、文明社会から「性悪説」がなくなることはない。
なんのかのといってもこの世の中は「性悪説」を語りたがるものばかりで、「自然法」というとき、つねに「性悪説」の上に成り立っているもののように認識されている。「汝、殺すなかれ」は、原始的な自然法なんだってさ。そうやって原始人も戦争や人殺しをしていた、という歴史認識になっている。それは文明社会の発祥とともに顕在化してきたきわめて不自然な行為であり規範だというのに、彼らにそういっても、けっして納得しない。
「人間だけが同類を殺す」などとよくいわれるが、チンパンジーだってしばしばそういうことをしているのであり、原初の人類はそういうことをしない猿として二本の足で立ち上がっていったのだ。
チンパンジーの世界は、テリトリー争いや集団の中の順位争いなどによってむやみに個体数が増えない仕組みになっているが、原初の人類はそういうことをしないことによって他愛なくときめき合いながら一年中発情してゆき、どんどん人口を増やしていった。最初は二本の足で立つことの心身のストレスによって寿命が短くなり、外敵に殺される機会も多くなったが、それでも人口は無際限に増えてゆき、それにともなって居住域もどんどん広がっていった。
性悪説」は猿の社会を成り立たせ、そして文明社会を成り立たせている。しかしそれによっては、人と人が恋をしたり友情を温め合ったり、さらには誰もが他愛なくときめき合いながら際限なく大きな集団をつくっていった歴史における人間性の自然を説明することはできない。

アフリカでは、部族が違うというだけであっさりと相手を殺してしまったりして、そういう事件が後を絶たないのだとか。そういう民族性だから、ルワンダなどの部族間闘争という内戦が起きたりする。
で、これは原始的な人間性かといえば、そうではない。アフリカでは、部族間の関係が断絶してきた長い歴史がある。それが近代国家になって混在して暮らすようになれば、そのことの違和感というかストレスはとても大きなものになる。彼らだって、近代の文明制度に翻弄されているのであり、歴史的には、殺し合いをしてきたのではない。100年以上前の部族どうしは、顔を合わすこともない関係だった。憎み合う歴史だったのではない、たがいに無関心だっただけだ。そしてそれぞれの部族内ではとても親密な歴史を歩んできたからこそ、文明制度の競争原理や闘争原理の洗礼を受けると、その排除の論理の歯止めが利かなくなる。彼らは、ヨーロッパの近代文明によってむりやり異民族と同じ地域で暮らすようにさせられた。それまでの平和的な「棲み分け」の生態を壊された。彼らにとって同じ地域の異部族は、みずからのテリトリーへの侵入者に見えてしまう。それに、さんざん奴隷狩りをされてきたという歴史の反動もある。つまり、文明制度がそうさせているのであって、殺し合うのが彼らの歴史的な本性であるのではない。
人と人はもともと他愛なくときめき合う存在だからこそ、文明制度の洗礼を受けて殺し合う関係にもなってしまう。
文明制度は「性悪説」の上に成り立っているが、それは原始人の心性でも人間ほんらいの心性でもない。
現代人は、文明制度に洗脳されて「性悪説」をとなえている。
人類の「自然法」においては人殺しなんかしないし、原始時代は善悪を超越したところで他愛なくときめき合いながら集団をいとなんでいた。
「神聖なもの」を祀り上げてゆくのが原始人の生態であり、人類の「自然法」はそこにこそある。
人類が二本の足で立ち上がったことは、この生を超えてゆく体験だったのであって、この生を充実させることだったのではない。この生を喪失する体験だった、と言い換えてもよい。その喪失感とともにテリトリー争いや順位争いを捨て、誰もが他愛なくときめき合っていった。

日本列島の伝統は「喪失感」を抱きすくめてゆくところから生きはじめることにあり、それこそがじつは原初以来の人間性の自然だった。
赤ん坊だって、胎内の安定した世界を失って生きはじめる。すべての生きものがそのように生きている。
どんな生きものにとっても生きることは命をすり減らすことであり、とくに妊娠・子育てなんか、自分の命と引き換えにしてなされることにちがいない。猫や鳥や魚だって、そうやって命をすり減らしながら「献身」という行為をしている。
すべての生きものの生きるいとなみが「神聖なもの」に照射されて成り立っているわけで、人間だけがそれを自覚することができる。何を「性悪説」を語る必要があろうか。それは、文明制度に毒された人間観にすぎない。
文明制度は、「悪」という概念を生み出した。いったい「悪」とは何かとあらためて考えてみれば、けっきょくよくわからない。
誰だって、誰かの役に立ちたいという思いはある。それは「善」か?そんなことはない、ただの人間性の自然であるだけのこと。
誰の心だっておおもとは「良心」に決まっているのだが、文明制度という社会環境に毒されて歪んでゆく。
人間性の自然は、「性悪説」では説明がつかない。
原始人が戦争ばかりしていたということなどありえない。原初の人類は、ほかの猿と戦うために二本の足で立ち上がったのではない。彼らにとって生き残ることは、逃げてゆくことであり、他愛なくときめき合ってどんどん繁殖してゆくことだった。
まあ、「性善説」が衰退している時代だから、「非婚・少子化」になっているのかもしれない。
性善説」のためには、「善」とか「正義」なんか説いても、なんの説明にもならない。それを説くこと自体が「性悪説」なのだ。
憎しみを克服して愛することに目覚めてゆく、などといっても、そうやって作為的な意志や理性で愛するということ自体、自然な他愛ないときめきを失っていることの証しでしかない。愛なんていらない、そんな「善」や「正義」は、「性悪説」に居直ったものたちの作為にすぎない、ともいえる。
性善説」は、善悪を超えた「神聖なもの」を祀り上げてゆく。そしてそれは、すべての生きものの生きるいとなみの自然でもある。鳥や魚がそれを本能的にしているとすれば、人類は自覚的に「文化」として洗練発達させてきた。
この世のもっとも「他愛ないもの」が、もっとも「神聖なもの」を知っている。文明制度に取り込まれている人格者や宗教者やインテリが差し出す手垢の付いたうんちくなど、何ほどのものか。
自然法」は「性善説」であり、文明制度において「自然法」は存在しない。それは、文明制度の外にある。

日本列島の古代および古代以前の民衆社会は、権力社会の「法」とは別に、民衆自身の「すべては許されている」という「性善説」=「自然法」によって集団をいとなんでいた。善悪で裁かない。もめごとは、集団の話し合いのなんとなくのなりゆきで調停されていた。「なりゆき」の文化。それは、「無主・無縁」の「祭りの賑わい」から生まれてきた集団性であり、それが神道の基礎にもなっている。古代以前においては、そういう集団こそがもっともダイナミックなエネルギーを持っていたのであり、それが奈良盆地だった。
「処女=思春期の少女」はこの世のもっとも浮世離れした存在であり、その「異次元性」を祀り上げて神社には「巫女」がいる。異次元的でなければ「神聖なもの」ではない。
古代以前の奈良盆地では、おそらく仏教伝来以前から、神社のような祭りの場所に、「かみ」にもっとも近い存在としての「巫女」を置いていた。しかしだからといって「呪術」のようなことをしていたのではない。「神聖なもの」は「異次元の世界」にあるのだから、何もしてくれないし、何も裁かない。「存在しない」というそのことが「かみ」であることの証しなのだ。
「巫女」の仕事は祭りのときにみんなの前で踊ることであり、人々はそれを祝福し祀り上げてゆくことが至福のカタルシスだったわけで、彼らには神におねだりするような習性はなかった。そんな物欲しげなことをしていたら、「神聖なもの」に対して恥ずかしいではないか。
人の心は「神聖なもの」を思う。それはもう、原初の人類が二本の足で立ち上がったときからの伝統だ。なぜ青い空を見上げることが胸にしみるのか。自分の裸を人に見られるのが、なぜ恥ずかしいのか。心の中に「異次元の世界」の「神聖なもの」に対する遠い憧れがあるから、そのいかにも現世的な生々しい姿をさらしてしまうことに戸惑いうろたえてしまうのだ。だから人は、服を着る。
人類は、異次元の世界を夢見て歴史を歩んできたのであって、現代人のように目先の生き延びることを第一義にしてきたのではない。いや現代人だって、俗っぽいことを恥ずかしがる気持ちはある。それもこれも、人は先験的に「神聖なもの」に対する遠い憧れを抱いている存在だからだろう。

神社の祭神は森羅万象に「隠れて」いる。だから触ることも触られることもないし、見ることも見られることもない。つまり神道の「かみ」は、人間を助けることも、善悪で裁くこともしない。ただもう、人間のほうが一方的に祀り上げているだけであり、祀り上げることのカタルシスがあった。他者を裁かないで、ときめき祝福してゆくことのよりどころとして、祭神が「神聖なもの」として祀り上げられていった。それが、古代以前の民衆の集団性だった。
日本人はシャイだといわれるのも、神道のそういう伝統があるからかもしれない。「隠れる」ことの「神聖」を祀り上げる文化なのだ。
日本列島における「神聖なもの」は、西洋の「神(ゴッド)」のように「正しい」とか「全能」とか「偉大」というのではなく、触れることも見ることもできないもの、すなわちそういう「異次元性」のことをいう。
宗教としての仏教の「戒律」は、「性悪説」の上に成り立っている。それに対して古代の民衆の集団性は、「性善説」だった。したがって、仏教に対抗して民衆のあいだから神道が生まれてくることはもう、必然的な歴史のなりゆきだった。彼らは、裁くことからも裁かれることからも無縁でありたかった。「善」であったのではない、「善」も「悪」もどうでもよかった。
日本列島の精神風土は仏教の上に成り立っている、などと安直なことをいってもらいたくない。この国の民衆が仏教になじんでいったのは中世以降のことであり、その新しい仏教もそうとう日本的にデフォルメされたものだった。
日本的な精神風土は、「非仏教的」なのだ。
日本列島の民衆社会には、「性善説」の伝統がある。そしてそれは、原始時代以来の人類普遍の伝統でもある。
日本人は、なぜ「かわいい」と他愛なくときめいてゆくのか?それは、神道で「すべての森羅万象に神が宿っている」というように、「世界は輝いている」という前提を持っているからだ。
世界を恨んだり憎んだり、何ごとにもまるで感動がなかったりする、その「性悪説」が人間性の自然だというわけでもないだろう。ときめいて感動するという心の動きがなければ、人類の知能が進化発展することなどなかったはずだ。
また、平安朝の「あはれ・はかなし」の美意識から現在の演歌の泣き節まで、日本人はなぜ「喪失感=かなしみ」を抱きすくめてゆくことをするのか?それは、「異次元の世界」に対する憧れであり、「異次元の世界」に超出してゆくことはこの生の現実を喪失することだからだ。
他愛ないときめきは、われを忘れて(=喪失して)ゆくことによって体験される。
日本人の喪失感を抱きすくめてゆくメンタリティは、「異次元の世界=神聖なもの」に対する遠い憧れの上に成り立っている。そしてその「性善説」は、世界中で共有している。
誰だって、恋や友情を体験するし、美しいものや楽しいことが好きではないか。「性悪説」というのなら、原始人が恋も友情も知らずに憎み合いながら、目を血走らせて明日の食い物を漁ることばかりしていたとでもいうのか。
現代人よりも原始人のほうがずっとたくさんの「余暇」を持っていたし、彼らなりの余暇を楽しむ文化を持っていた。だから、火を使うとか、洞窟に壁画を描くとか、埋葬をするとか、言葉を生み出すとか、そういうイノベーションが起きてきたのだ。また、ときめき合い助け合わないと生きられない条件を抱えていたわけで、トラやオオカミのように単独で生きられるような原始人はひとりもいなかった。原初の人類は、猿よりも弱い猿だったのだ。人類がこんなにも大きな集団をいとなむことができるようになっていることの基礎は、「性善説」の、ときめき合い助け合う歴史を生きてきたことを意味している。
「良心」こそが、人間性の基礎。言い換えれば、宗教や道徳でわざわざつくらねばならない良心など、何ほどのものか。人間ほんらいの「良心」は、自然で純粋で無邪気で、そして原始的なのだ。