出会いのときめきの文化・神道と天皇(138)

人と人の関係の基礎は、家族とか親族とかというのではなく、見ず知らずのものどうしの関係にある。だから人類はこんなにも大きな集団をつくることができているわけで、家族や親族がふくらんでいって村や町や都市や国家になっていったのではない。どこからともなく人が集まってきて、村や町や都市や国家という集団になっていったのだ。
見ず知らずのものどうしの関係が基礎だからこそ、成長すれば、心は自然に家族から離れてゆく。
家族の関係こそ人と人の関係の木瀬である、だなんて、いいかげんもう、そういう制度的な幻想は捨てた方がよい。
男と女が出会ってセックスすることは自然かもしれないが、そこからの延長として家族をつくってゆくということは、べつに自然の法則でも人間性の基礎でもない。原始人は、家族なんかつくっていなかったし、この国の男女が家族をいとなむようになってきたのは、古代以降のことだ。それまでは、子供の父親が誰かということなどわからない社会だった。だから日本列島の女は伝統的に貞操観念が薄いし、吉原の花魁のように娼婦を女神のように祀り上げる文化も育ってきた。
見ず知らずのものどうしがときめき合う関係こそ、もっとも基礎的原始的で、もっとも純粋で高度な関係であり、そういう認識の上に日本列島の女の貞操観念の薄さや娼婦の文化が成り立っている。そしてそれは、宗教を超えた「神聖なもの」を祀り上げてゆく文化でもある。

いつの時代も、多くの若者は、家族との関係よりも友情のほうを大切に思っている。
友情は、ときに恋愛や家族愛や人類愛よりも純粋で清らかな関係として、人々の感動を大きく喚起することがある。それは、セックスの関係でも、血縁関係でも、利害関係でもない。つまり、結び付くべき契機あるいは必然性が何もないのに、それでも何か同じ星のもとに生まれたような、そこはかとない連帯感がある。単純に「人間どうし」というそのことでつながっている。この世に生まれ出てきて出会ったというそのことがもう、「奇跡」であるかのような貴重な体験として心に響いている。
「奇跡」という「神聖なもの」、人の心の「神聖なもの」に対する遠い憧れを共有してゆくことが「友情」を成り立たせている。結び付く契機が何もないというそのことが、彼らを結び付けている。
だから人は、動物を飼うということをする。ウマやイヌにだって、「神聖なものに対する遠い憧れ」がある。そこに親密な関係が生まれることは、遺伝子=本能によってではなく、環境世界が決定している。
キリストが起こした奇跡が嘘か本当かとよく議論されたりするが、そんなことは嘘に決まっている。嘘に決まっているが、それでも人の心から「奇跡は神聖である」という感慨を消すことはできない。人の心はすでに「異次元の世界」のイメージを持ってしまっているし、ありえない嘘に決まっているからこそそれは神聖なのだ、ということになる。
生きものは必ず死ぬ。必ず死ぬのなら生きていなければならないわけなど何もないのに、それでも生きている。それはまさしく「奇跡」であり、その「何もない」というそのことに「神聖」が宿っている。
「鰯の頭も信心から」というが、神道では、この世界のすべての森羅万象に「かみ」が宿っているという。なぜすべてに宿っているかといえば、「何もない」というそのことが「神聖=かみ」だからだ。すべての森羅万象に「何もない=かみ」が宿っている。
だから、つながるべき契機=必然性が「何もない」関係の「友情」こそもっとも純粋で清らかだ、ということになる。
人の心は、「神聖なもの=異次元の世界」から照射されている。誰だって「神聖なもの=異次元の世界」を想う心を持っている。そうやって人類は、人と人の関係性や集団性を育てながら地球の隅々まで拡散してゆき、それぞれの地域集団の文化が生まれてきた。
動物どうしが親密な関係になるときは、血縁性とか集団性とか、それなりに科学的な根拠があるといわれているが、とにかく人類はそうした根拠が「何もない」ところで親密な関係を結ぶことができる。

コウモリは、自分が吸った血を同じ集団の仲間に分けてやり、違う集団の相手には絶対に分けてやらない。R・ドーキンスはこれを、「同じ血(=遺伝子)を共有しているからだ」と説明しているが、だったら、生まれてすぐに別の集団に移っていった兄弟にも分けてやるのかということになるし、またある鳥は、まったく別の種類の鳥が自分の巣に産み付けていった卵も自分の卵のように温めて育てるということをどう説明するのか。卵から孵った鳥の雛は、最初に見つけた相手がたとえ模型でも自分の親だと思ってしまう、とよくいわれるし、オオカミがネコの子を育てることだってあるのだし、動物の意識や行動が「血=遺伝子」によって決定されているとはいえない。
それは、環境世界のなりゆきが決定している。
動物は、意識的にも本能的にも、遺伝子を共有しているかどうかということなどわからない。生きものの意識や行動は、「遺伝子」によってではなく、「環境世界」によって決定されている。動物だって、生後の環境から学習してゆくことがたくさんあるわけで、動物のそういう習性をつくっている「環境」すなわち「自然の摂理」のようなことを、ここではさしあたって「神聖なもの」といっている。
動物にだって友情はある。コウモリが仲間に血を分けてやることは、その命のはたらきが「生き延びる」ためのものではないことを意味している。それは、あたりまえに考えて自分の命をそぎ落とす行為であり、ドーキンスがいうような、集団の延命が自分の延命だと本能的に知っているからでも、自分と同じ遺伝子をつないでゆくためだというようなことではない。そんなことはただのこじつけの屁理屈にすぎない。それは「遺伝子=本能」が決定するのではない、「環境世界」のなりゆきがそういう生態にさせている。
コウモリにだって良心も友情もある、というだけのこと。
ドーキンスはたぶん、「ミーム」という概念を持ち出してきたように、心=意識の問題も「遺伝子」のはたらきによって解けると思っているのだろうが、心は脳の外で生成しているのであり、脳はそれを「情報」として受け取るだけなのだ。つまり、心=意識は脳の外で生成しているのであり、脳=遺伝子の支配下にあるのではない。

心=意識は、環境世界によってつくられる。だから人は「もらい泣き」をする。そのときの「私の心」は、「他者の心」である。
性格の形成といっても、環境世界に反応する「体質」が大きな要素だったりする。病弱な人と健康な人では、同じ脳=遺伝子を持っていても、同じ性格にはならない。
心=意識は、環境世界に反応し、環境世界からの情報をキャッチしてゆく。
女の体にときめいて勃起する。女の体という環境世界が、男をときめかせ勃起させる。女の体がなければ、ときめき勃起することはない。心=意識を自分から引きはがし、女の体に憑依してゆく。心=意識が自分のもとにないからこそ、ときめき勃起することができる。
心=意識のはたらきは、自分の外で生成している。それはつまり、遺伝子に支配されているのではない、ということだ。遺伝子だってもともとは環境世界の産物にすぎないわけで、発生したくて発生したわけではないのだから、主体的なはたらきなど持っているはずがない。
すべての生命は、環境世界にはめ込まれて存在している。
心=意識は、みずからを自分=身体から引きはがそうとするはたらきを持っており、それによって活性化する。それは、環境世界に憑依しときめいてゆくことであり、その究極のかたちとして「異次元の世界」の「神聖なもの」を祀り上げている。心=意識は、自分=身体から無限に遠去かってゆく。
心=意識は、自分=身体(脳)において生成しているのではない。
「神聖なもの」は、「自分=身体」の無限遠点にある。だからそれは、永遠に「遠い憧れ」の対象であるほかない。人類の知能は、そうやって「不可能性」を抱きすくめてゆくことによって知の荒野に分け入ってゆく「探究心」や「好奇心」等を獲得し、そこから心が「飛躍」し「異次元の世界に超出」してゆく「ひらめき」や「ときめき」とともに進化してきた。つまり「神聖なものに対する遠い憧れ」とともに進化してきたということ、それが知能だけでなく、人と人の関係や集団性の進化にもなっていった。

「神聖なものに対する遠い憧れ」は、原初の人類が二本の足で立ち上がって「青い空」を見上げたとき以来の伝統でもある。
猿は空を見上げることなんかしない。森の中で暮らしていれば空の広がりなんか見えないし、4本足のままでそういう体勢をとることには無理がある。立ち上がるから、そういう方向に顔を向けることができるのだ。それは意識が「上」に向いてゆく体験であり、そのようにして猿であることをやめて新しい次元の世界に入っていった。すなわち、見上げる青い空の向こうの「異次元の世界」に思いを馳せていった。
まあこの体験は、それによってどんな利点がうまれたかというようなことを考えてもしょうがない。それは、姿勢は不安定だし、胸・腹・性器等の急所をそとにさらしたままで、猿よりも弱い猿になってしまうことだった。しかしそれでも「生態」そのものが変わる画期的な体験にもなった。そうやって猿よりも豊かにときめき合うようになり、一年中発情している猿として圧倒的な繁殖力を獲得しながら集団として生き残ってくることができた。
それは、繁殖の生態だけのことではない。関係を結ぶべき必然性がなくてもときめき合ってゆく「友情」も豊かに発現してきたはずだし、さらには見ず知らずのものどうしが他愛なくときめき合いながら新しい集団をつくってゆく生態も生まれてきたに違いなく、その生態こそが、その後どんな住みにくいところでも住み着きながら地球の隅々まで拡散してゆく原動力になった。
それは、みんなして「神聖なものに対する遠い憧れ」を共有してゆく体験だったのであり、それによって人類の歴史は進化発展してきた。

「神聖なものに対する遠い憧れ」とは、ひとつの「良心」のことだともいえるのかもしれない。つまり、人類は二本の足で立ち上がることによって「良心」を発見した。
性善説」と「性悪説」、現在の世界でどちらが優勢かといえば、おそらく「性悪説」のほうだろう。
人類の世界は競争原理・闘争原理の上に成り立っているというし、古人類学でも、原始時代から戦争の歴史ははじまっていたといわれることが多い。あの有名な『2001年宇宙の旅』という映画でも、猿のような原始人の戦争シーンが挿入されていて、誰もその設定に異をとなえないのは、それが現代人の共通理解になっているからだろう。
現在は自我=自意識の時代だし、自意識の強い人ほど「性悪説」をとなえたがる。意志=理性の力で邪悪な本性を克服するのが人間性の尊厳である、と彼らはいう。宗教に「殺すなかれ」という戒律があるのも、性悪説の上に成り立っているわけで、どうしてわざわざそんなことをいわねばならないのか。
動物だって同類殺しはいくらでも起きている、といってそれが「自然」であるかのように吹聴されたりもしている。
まあ生物界の「食物連鎖」という自然や、人間が「堕胎」や「間引き」をしたり自殺したりする例を考えれば、げんみつには殺したらいけないという理屈は成り立たないわけだが、人間には「良心」というものがある。人間性の自然として、「神聖なもの」のもとに「すべてのものは許されている」という認識が共有されている。殺したらいけないということもないが、人類の無意識は「すべてのものは許されている」という先験的な認識があり、ほんらいなら「殺す」という発想をしない。発想してしまうのは、戦争と競争の歴史を歩んできた文明制度に浸された観念による。
性悪説」をとなえるものたちの観念は文明制度に浸されている。「善をなさねばならない」という宗教者もしかり、「善」という観念は、「性悪説」のものたちによって見い出された。
性悪説」は「善」を追い求める。「善」だって「性悪説」に属している。「善」なんか、悪人が欲しがるものだ。みずからの邪悪さの不在証明として「善」を求め、みずからの邪悪さを正当化するものとしてそこに「善」を貼りつける。
「神聖なもの」を祀り上げる人間性においては、「善悪」の観念はない。だから「殺したらいけない」とも思わない。

人間社会の老人や赤ん坊の介護にしろ、鳥が雛を育てることにしろ、他者を生きさせようとするのは生きものの自然にちがいない。
人類は二本の足で立ち上がることによって「神聖なもの=異次元の世界に対する遠い憧れ」を共有していった。それは「良心の発見」だったのであり、たとえ見ず知らずの相手とも許し合いときめき合いながらたがいに相手を生きさせようとする関係の集団性を発展させてゆき、それによって地球の隅々まで拡散していった。そうして文明国家の発祥とともに第三者を「悪」とみなして排除しながら結束してゆく集団性で戦争の歴史に突入していったのだが、そうやって「善=正義」を標榜したがること自体が、人類がもともと「性善説」の歴史を歩んできたことの証しかもしれない。
性悪説」の人たちは、「善」に対する負い目がある。人間性の自然が「性悪説」にあるのなら、「性悪説」のまま生きればよいだけではないか。また、「性悪説」のまま生きているくせに「自分は善=正義を生きている」と主張したがったりする。「善=正義」を振りかざして「悪」をする。ネトウヨたちは、どんなに卑怯卑劣なことをしても、みずからの「善=正義」を信じている。
性悪説」のものたちは、なぜそんなにも「善=正義」に執着するのか。彼らは「善悪」を裁く。それは、「善悪」を超越した「神聖なもの」に対する意識が希薄であることを意味する。
いっぽう「性善説」のものたちは、「善」に興味がない。善悪を超出したところにしか「性善説」は成り立たない。
善悪の概念は文明制度から生まれてきたのであり、原始社会にはなかった。すなわち原始社会は「性善説」で動いていたということ。