神よりももっと神聖なもの・神道と天皇(140)

なんのかのといって人類は、文明発祥以来、ずっと「神」に支配されて歴史を歩んできた。
神を信じようと信じまいと、人類はもう神という概念を持ってしまったのであり、その概念の上にこの人類の世界が動いている。あなたがお金を欲しがるのも出世がしたいのも他人を説得し支配したいのも幸せになりたいのも、神という概念に覆われた世界に生きているからだ。
われわれの心は、神という絶対的な「権力」に支配されて生成している。人類はもう、心にそういう「権力」を持ってしまっている。支配されてしまっている。
自分=自己などといってもしょうがない。自分=自己だって神に支配されて成り立っている。自分=自己という「意識」のはたらきだって、この身体の外の世界で生成している。自分=自己とは世界であり、自分=自己などというものはない、ともいえる。
意識は、自己の外に憑依して生成している。その「外」とは、環境世界であり、この宇宙であり、「異次元の世界」でもある。そして文明社会は、それらのすべてを神が支配している、と発想し宣言した。
しかしここでいう「神聖なもの」が生成している「異次元の世界」とは「神なき世界」のことであり、われわれの心はもうすっかり神に支配されていると同時に、「神なき世界」をもずっと思い続けている。
人の心は「神なき世界」を思うようにもできている。われわれはもう先験的に神に支配されているからこそ、「神なき世界」であってはじめて「異次元の世界」だといえる。
意識のはたらきは、脳を「超出」していったところで生成している。「超出」してゆかなければ「意識」にならない。脳にとどまっている意識などない。
意識とは、「超出」してゆくはたらきのことだ。だから、つねに「超出」してゆく先の「外」の世界を思ってしまう。
人類が神という概念を持ったということは、神の外の「神なき世界」を思うようになった、ということでもある。あるいは、神という概念を持ったことによって、もともと「神なき世界」を生きていたことに気づいていった。
仏教伝来のときの民衆は、神の外に「かみ」を見出していった。自分たちが、神よりももっと「神聖なもの」として「かみ」を祀り上げていたことに気づいていった。
誰の心の中にも「神なき世界」がある。すでに神を知っているからこそ、「神なき世界」を思う。人の心というのは、そういうものではないだろうか。

宗教のもとに「神聖なもの」があると考えるべきではない。文明社会とともに生まれてきた宗教は、もともと人類が二本の足で立ち上がって以来祀り上げてきた「神聖なもの」を穢してしまった。
ほんらいは「すべてを許すもの」であった「神聖なもの」を、「裁くもの」としての「神」に変えてしまった。
つまり、文明社会の宗教者よりも神を知らない原始人のほうがずっと純粋に深く「神聖なもの」を祀り上げている、ということだ。
宗教者は清らかな存在であるということなどただの幻想なのだが、国家制度もまた「裁く」というコンセプトの成り立っているわけで、神の裁きのもとで生きている宗教者が尊敬される社会構造がどうしても出来上がってしまう。
人々は、「神の裁き」こそがこの世のもっとも「神聖なもの」だという幻想を抱いてしまっていたりする。
しかし、悪を裁いて罰することと、すべてを許すことすなわちこの世に悪などというものは存在しないという前提の世界と、いったいどちらが神聖で清らかだといえるだろうか。
善悪を「裁く」のではなく、世界の輝きを「祝福する」こと、仏教伝来のときの神道は、そういうコンセプトから生まれてきた。それこそが、二本の足で立ち上がって以来の原始人の生きる流儀だったわけで。
原始人は善悪で裁くことはしなかったが、「神聖なもの」を祀り上げることはしていた。そうやって「火」との親密な関係をつくってゆき、「埋葬という死者を祀り上げることも覚えていった。彼らにとって「きらきら光るもの」は「異次元=非存在の世界」の象徴としての「神聖なもの」だったし、生きることをやめた死者もまた、この生のいたたまれなさから解き放たれた「神聖なもの」だった。
原始時代は、「神聖なもの」を祀り上げる歴史だった。彼らはもう、この生に執着するよりも、この生を超えた「神聖なもの」を他愛なく無邪気に祀り上げていた。まあそれくらいの勢いを持っていなければ、二本の足で立ち上がるとか、どんな住みにくさも厭わず地球の隅々まで拡散してゆくとか、「火」を使うとか、「埋葬」をするとか、およそ猿の生態としては考えられないようなイノベーションが起きてくるはずがない。
善悪を裁くなんて、ほんとにどうしようもなく俗っぽいことではないか。そんな宗教のどこが「神聖」だというのか。清らかだというのか。それはもう、仏教伝来のときの日本列島の民衆の思いでもあった。彼らは、もっと「神聖なもの」を知っていた。

宗教なんか、俗っぽく不潔だ。それは、「清浄」なものを祀り上げる日本人の世界観にも生命観にも美意識にもそぐわない。
神や仏に生かされてあることに感謝するとかどうとか、そうやって宗教は、人をこの生に閉じ込め、この生を超えてゆく知性や感性を停滞させているし、それが国家権力による支配のコンセプトでもある。仏教伝来のときの民衆は、そういうことに抗って非宗教としての神道を生み出していった。
国家の支配には、人を思考停止に陥らせる罠がさまざまに張り巡らされており、、多くの人がその罠にからめとられてゆく。
大和朝廷の初期に仏教が輸入されたときもそれによって民衆を洗脳し飼い馴らそうとしていったわけで、しかしそのとき民衆は、それに対抗できるだけの文化的基盤を持っており、神道を生み出していった。そうやって「仏」に代わる「神聖なもの」として「かみ」を祀り上げていった。それは日本列島の文明制度の歴史における、いわば思春期だったのかもしれない。
個人の人生においても同じで、心が国家制度にからめとられないためには、思春期の通過の仕方がとても大事になる。思春期は、心が家族の囲いから離れ社会に向いてゆく時期で、第二の生誕の体験だともいえる。国家はその不安に付け込んで、彼らを飼い慣らそうとしてくるし、飼い馴らされてゆくものも少なくない。また、それに抗ってドロップアウトしながら非行に走ったりもするわけだが、走らないですむためにはそれなりの文化的基盤というか思考力を持たねばならない。
戦後の日本列島は、社会体制の変化によって文化的基盤を一から作り直すことになった。しかもそれが、伝統を否定しながらアメリカ文化に染まってゆくという方向だったために内容の底が浅く、最初のころは少年犯罪がとても多かった。それは、全共闘運動が終息したころからだんだん減少してきた。そしてあの大震災のときに粛々と助け合ってゆくことができたのも、民衆の社会に文化的基盤としての「伝統」がよみがえってきたからかもしれない。
団塊世代は、戦後のもっともアメリカナイズされた時代の中で育ってきており、もしかしたら現在のこの国でもっとも文化的基盤が脆弱な世代であるのかもしれない。彼らは、思春期の通過の仕方でつまずいている。しかしだからこそ、全共闘運動が終息したあとは一転してひたすら勤勉な会社の犬になってゆくことができた。
現在のネトウヨ老人は、団塊世代がとても多いのだとか。
まあ、国家制度にからめとられることは、神を信じていようと信じまいと、観念的には神に支配されることでもある。そうやって自分の中に支配=被支配の世界観をつくってしまっているから、何もかも「裁く」とか「分析する」というかたちでしか見ることができなくなってしまい、無条件で他愛なくときめき祝福してゆくというほんらいの人間性を失ってゆく。
今どきは、正義ぶったり物知り顔したりする人間があふれている。それは、神の裁きに支配されている「宗教者」の態度なのだ。
「神は存在しない」といっても、文明人の思考や行動はすでに神に支配されているのであり、神を信じよう信じまいと、われわれを取り巻く環境世界はすでに神という概念に覆われてしまっている。
「神」という言葉や概念などどうしようもなく安直で手垢にまみれたもので、誰だってかんたんに想起することができる。だからやっかいなのだが、しかし、ほんとうに「清らかで神聖なもの」とは何かと問うたとき、われわれの思考ははたと立ち止まってしまう。それは、もっとも原初的でもっとも高次の形而上学でもある。すなわちそれは、宗教以前であると同時に宗教以後であるところの、宗教の外にイメージされるものにほかならない。

宗教すなわち神という概念は、文明人の生そのものを支配している。それはまあ生そのものを支えているともいえるわけだが、しかしだからこそ、そこに宗教の限界があり弊害にもなっている。なぜならこの生のはたらきは、この生を超えてゆくことにあるからだ。
宗教は、この生を超えていったところにある「神聖なもの」を示さないで、「殺すなかれ」とかなんとか、この生を裁くことばかりしている。
もともと人は、宗教よりももっと「神聖なもの」を認識している存在なのだ。
宗教のような不潔で俗っぽいものが、どうしてそんなに尊敬されないといけないのか。
この世に宗教が存在するから、「性悪説」がはびこるのだ。宗教は、人としての根源も理想も、まるで認識していない。宗教が説く「幸せ」とか「救済」が、何ほどのものか。
キリストは目が見えない人を見えるようにしてやったという。そのことがもう、宗教の通俗性と思考の限界を指し示している。見えるようになることは「幸せ」で「救済」か。そんな「幸せ」も「救済」もこの生の内部の俗っぽいことにすぎないのであり、見えないまま生まれて死んでゆくことの尊厳というものがあるし、さらには生まれてこなかったことの尊厳も死んでゆくことの尊厳もある。そのように「この生の外部=異次元の世界」を思うのが人の心というものだし、そのようにして人の心は「神聖なもの」を祀り上げている。
神や仏よりももっと「神聖なもの」は、裁くことも救済することもなく、存在そのものを祝福している。それを神道では「かみ」というのだし、あるいは、存在そのものの輝きのことを「神聖なもの」という。
森羅万象の生々流転の不思議、それを「かみ」というのだし、人の心には、そのことに対する純粋な驚きとときめきがある。そのことなしに人類の学問や芸術すなわち知能の進化発展などなかったのだし、それを「神のしわざ」としてあらかじめ決定されていることだと納得してしまったら、そこにどれほどの驚きやときめきがあるというのか。
宗教は、人の心を停滞させてしまうものではないのか。まあ、停滞してしまうことによって「幸せ」や「救済」を得る、ともいえるわけだが、そこに原始人の心の本質や人間性の自然があるともいえないだろう。それだったら、人間だっていまだに猿のままだ、ということになる。
原始人がどれだけのものを支払って進化発展してきたかということを、彼らはなんにもわかっていない。
宗教者ほど「神聖なもの」とは何かということがわかっていない。「幸せ」とか「救済」ということを価値にしているからこそ、それが見えないのだ。それは、「幸せ」とか「救済」の外にあるわけで、見えない不幸のまま生きている人のほうが、ずっとよくわかっている。なぜならその人を生かしているものこそ、まさしくこの世界(=存在)の輝きとしての「神聖なもの」に対する遠い憧れにほかならないのだから。
宗教は、文明制度の手垢に汚れきっている。
「神聖なもの」に対する遠い憧れは、宗教者による「幸せ」や「救済」を欲しがる俗っぽい欲望よりも、ずっと厳粛で本質的なのだ。
「幸せ」や「救済」を欲しがったらいけないというつもりはさらさらないが、それを得たものには、それを得られないまま生きている人の「神聖なもの」に対する遠い憧れの切実で厳粛な心の内実はけっしてわからない。
世の中の宗教者は、ただ俗っぽいだけのものでしかない「信仰」などというものを振りかざして、どうしてあんな偉そうな顔をするのだろう。
「神聖なもの」は、宗教=神の「外」にある。それは、「神に見捨てられたものたち」がいちばんよく知っている。