なにやってるんだか

この国のコロナウイルスの感染者の実数は、いったいどれくらいだろうか。国は本気できちんと検査をしていないのだから、まるでわからない。「そのうち終息するだろう」という安易な考えで小手先のごまかしばかりをしているから、人々はよけいに不安になる。そしてその不安は、自分も罹患するかもしれないという怖れだけではない、どこかでだれかが見えない理不尽な力によって死んでいっている、ということに対する嘆きやかなしみや怖れでもある。その「どこかのだれか」を想う心が共有され、たちまち世界中に拡がっていった。一地域限定の災害と違って疫病は世界中に拡がってゆくし、今やインターネットも発達しているし、さらにはウイルスの正体や治療法もまだわかっていないという不安もある。すなわちその「不安」は「好奇心」でもあり、そうやって世界中に拡がっていった。

「わからない」からこそ、世界中がけんめいに対策を探究しているときに、この国の政府官僚ばかりが「放っておいてもそのうち終息する」と決めてかかって場当たり的な対応ですませてきた。そのために国民はますます疑心暗鬼が募り、そのあげくにトイレットペーパー騒ぎが起きたりする。

おそらくこの国のコロナウイルスのキャリアの数は、政府発表の10倍はいる、いや100倍はいるだろう、とだれもが思っている。

ここまでくればもう、今回の感染拡大に対してこの国の政府の考えていることややっていることがいかに場当たり的で支離滅裂かということは世界中に知れ渡り、当然のように批判されまくっている。彼らには、世界基準の「危機管理」とか「安全保障」のたしなみがまるで欠落している。そんなことでは世界としても大迷惑だし、また隙だらけだから抜け目のない国にかんたんにしてやられたりする。

ほんとにもう、世界中に恥をさらしまくっている。

 

 

この国の権力者ほど民衆の心から遊離してしまっている者たちもいない。そのことを、われわれはあらためて思い知らされた。彼らは伝統的に、民衆を強く支配しつつ、民衆から見放されてしまっている。つまり、両者のあいだに「契約」や「連携」の関係がないのがこの国の伝統なのだ。

日本列島では、権力社会から独立した民衆だけの自治の伝統がある。

とはいえ、このような事態になればとうぶん選挙はしないのだろうし、このままこの醜悪な政権が続いてゆくことになる。

また、選挙になったとしても、野党が勝てる可能性は低い。なぜなら、民衆の心を集めるスターがいないからだ。

山本太郎をリーダーに担ぎ上げて結束すれば風が吹く可能性もあるが、既存の野党どうしの駆け引きとか意地の張り合いとかで、いまのところそんなふうに動く気配はまるでなく、またまたみじめな敗北の選挙で終わることだろう。そんなことを、何度繰り返せば彼らは気がすむのか。まあそういう結果に終わっても、現在の政治家たちは政治家であり続けることができるし、枝野幸男玉木雄一郎は党首の座に座り続けることができる。

というわけでけっきょく、政治家たちは与党も野党もそれぞれの地位と既得権益は安泰のままで、末端の民衆だけがさらに窮迫してゆくことになる。

選挙に行かないサイレントマジョリティが立ち上がって選挙に行かなければ世の中は変わらないし、サイレントマジョリティの心を動かす可能性を持った政治家は、今のところ山本太郎以外には見当たらない。

しかし野党共闘をするといっても、山本太郎が他の野党の党首と互角に渡り合おうとするなら、れいわ新選組がもっと大きくなる必要がある。そのためには、今まで選挙に行かなかったサイレントマジョリティが大挙してれいわ新選組の活動に参加してゆくという現象が起きてこなければならないのだが、残念ながら今のところそうはなっていない。彼が街頭演説をすれば1000人も2000人も聴衆が集まってくるのだが、その熱気がそのまままれいわ新選組の人気になっていない。けっきょく彼が、仲間内の教祖様になっているだけで終わっている。

たぶん、れいわ新選組の名前を広げる戦略が決定的に間違っているのだ。

現在の山本太郎とそのまわりのスタッフたちは、れいわ新選組の地方組織は作らないというか党員は募集しないという方針を決めている。このことを「なぜか?」と問われて山本太郎は、「みなさんは<主体的>に立ち上がってみなさんの組織をつくり、その上でれいわ新選組と連携してゆきましょう。そういう<有象無象>の集団がいちばん強いのです」と答えている。

一見もっともらしい答えのようだが、じつはまったく薄っぺらな屁理屈である。

たしかに無主・無縁の「有象無象」の集まりこそもっとも人間的な集団であり、そういうかたちになってこそ、無限に広がり大きくなってゆくことができる。しかし、「主体的」に立ち上がった人々のことは、「有象無象」とは言わない。主体的ではない集まりのことを「有

象無象」というのだ。

近代合理主義に使い古された「主体」などという言葉=概念をありがたがっているのは今や時代遅れなのであり、そもそもあなたは「主体」という言葉の意味がちゃんと分かっているのか……と山本太郎に言いたい。

 

「主体的」であることの究極は、「今だけ金だけ自分だけ」という目的に執着している状態である。そうやって集団はきつく結束したり、またそれゆえに固定化されたまま大きくなってゆくことができなかったり、さらにはそうした自我(=主体)と自我(=主体)がぶつかり合って集団が空中分解してしまったりする。

主体的な集団は、内部で権力争いをし、外部とは戦争をする。したがってそこでは、ゆるく広くつながり合って連携してゆくという関係は生まれてこない。

主体的な集団の典型は、帝国主義国家である。それは「自我の確立」をスローガンとする近代合理主義とともに生まれてきた。そうやって明治維新から太平洋戦争の無残な敗戦に至る歴史を歩んだこの国は「国体」という名の「主体」を標榜してゆき、個人はその「国体」に憑依しながら「主体=自我」の確立を目指した。

「自我=主体」という概念は、近代合理主義のもとで育ってきた。しかしそれは日本列島の伝統にはないもので、だからこそこの国を席巻し、だからこそなんだかひねこびたかたちで定着していった。つまり、「自我=主体」を否定する文化の歴史を歩んできた者たちが、まるで新しい玩具に飛びつく子供のように夢中になっていったあげくに自家中毒を起こし、あの無残な敗戦へと突き進んでいった。

「無常」とか「あはれ・はかなし」という世界観や生命観で「自我=主体」を消してゆく文化が伝統の日本列島で「自我の確立」というスローガンを信じ込むと、ただの「自意識過剰」の「自家中毒」になってしまう。日本人が近代合理主義に洗脳されてしまうと、ろくなことにならない。

まあ、西洋には西洋の歴史があるし、日本列島には日本列島ならではの世界観や生命観の歴史がある。西洋の歴史は文明社会の病理を引きずりながらそれを克服しようとしてきたし、日本列島のそれは、原始社会の健康な集団性の文化を残しながら文明社会に対するあこがれを生きてきたことにある。だから、他愛なく文明社会の近代合理主義に洗脳されてしまったのだが、しかしそれは、原始性を色濃く残した日本人には消化しきれない思想だった。

 

人間は「自我=主体」を捨てて「有象無象」になれるからこそ、ゆるやかにつながり連携しながら無限に大きな集団になってゆくことができる。

だから、山本太郎の「有象無象の集団になってください」という主張は正しく普遍的である。しかし「有象無象」とは「主体的」になれない者たちのことであり、そこのところを彼はわかっていない。

「有象無象」の集まりであることこそ人類の普遍的な集団性であり、日本列島の伝統でもある。

もちろん「有象無象」ということには、ネガティブな面もあればポジティブな面もある。

あの極東裁判では、A級戦犯の者たちですら、戦争をしようとする意思の有無を問われたとき、だれもが一様に「あれは会議の<なりゆき>だったのであって自分が率先して主張したのではない」と答えている。この国の会議なんて、国会だろうと会社だろうと町内会だろうと、有象無象の集まりよろしくだらだらと続いて、なかなか決まらない。

「有象無象」とは主体的に立ち上がることをしない者たちであり、その代表が選挙に行かない者たちだ。山本太郎とそのまわりのスタッフたちはその「れいわ新選組」という名前を自分たちで独占しないで、いったん支持者のみんなに差し出す必要がある。差し出されてはじめて立ち上がるのが、「主体的」ではない存在である「有象無象」の習性なのだ。

山本太郎は、選挙に行かない50パーセントの人たちに「一緒にこの腐った世の中を変えていきましょう」と呼びかけたい、というが、このままでは彼ひとりが教祖様になるだけで、れいわ新選組の党勢が拡大してゆくことははなはだおぼつかない。

山本太郎の現在の人気からしたら、れいわ新選組の支持率だってとっくに10パーセントを超えていてもおかしくないのだが、依然として2パーセント前後を上下しているだけである。NHKや大手新聞に取り上げられないから、という言い訳は成り立たない。口コミだけでも日本列島を席巻することはできる。トイレットペーパーの騒ぎなど、一日で日本中を駆け巡ったではないか。それはまさに「有象無象」の連携によって生まれてきた現象なのだ。

人間性の自然・本質は「有象無象」であることにあり、それによって集団の活性化と拡大が起きる。

 

僕は山本太郎とれいわ新選組以外に現在のこの国における政治の希望はないと思っているひとりだが、彼らの組織運営に対しては「いきがって何をばかなことしてやがる」といいたくなることがいくらでもある。

「主体」などという言葉を振り回ししていきがっているんじゃいよ、ということ。

素粒子理論だか何だか知らないが、現在の物理学の最前線では、「すべての物質の内実はスカスカの空間である」という認識になっていて、だから量子がそこを突き抜けてゆくことができるらしい。つまり、物質の「主体」などというものはない、ということで、それを仏教では「色即是空・空即是色」という。そして現在の最先端の哲学でも、「自己=主体」などというものはない、という問題意識が主流になってきている。

科学においても哲学においても、「物質」とか「存在」とか「主体」とか「自己」とか、そういう問題設定が反省される時代に差し掛かっている。「非物質」とか「非存在」とか「空間」とか「客体」とか「他者」とか「受動性」とか、そういうアプローチをしないと解けない問題がさまざまに現れてきている。

「意識」の発生においては、最初に「他者」や「世界」が発見される。そしてそのあとにようやく「自己」の存在に気づく。

「意識」は、本質において「他者」や「世界」に気づく装置として生成している。そしてそのとき、「自己」の存在にはまだ気づいていない。「自己」などなくても「他者」に気づくことができるし、「自己」を忘れているときにこそ「他者」の存在に深く気づいている。

「意識はつねに何かについての意識である(現象学)」……ということはつまり、「意識」は「他者」と「自己」を同時に意識することはできない、ということだ。

人は、自分のことを忘れて他者にときめいている。だから、大きな集団をつくることができる。「主体的」であっては、大きな集団になることはできないのだ。

僕は、「主体的」という言葉を正義か真実であるかのようにして振り回されると、胸がむかむかする。れいわ新選組には大いに期待しているが、期待がかなうことにいささか悲観してもいる。

 

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初音ミクの日本文化論』

それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。

『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたものです。

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