かなしいコロナウイルス

このブログの現在のテーマは天皇制を中心にした日本文化論であったはずだが、ここにいたってはもう、何かコロナウイルスのこと以外のことを書いてはいけない気になってしまう。しかも、現在の政府や官僚の対応があまりにも愚劣で醜悪で、なんだかありえないことが起きている夢の中にいるような心地になってくる。

今どきの社会心理学においては、「リスクコミュニケーション」という命題があるらしい。すなわち、人々や社会の対する「愛と献身」の心意気で対話や議論を重ねながらその社会的リスクをできるかぎり回避しようとすること。カミュの『ペスト』などを読めばわかるようにヨーロッパにはそういう共同体の文化の伝統があるが、この国においては極めてあいまいだ。というか、「国は何もしてくれない」というのが伝統なのだ。

現在の世界的なコロナ感染に対して、世界は過剰に反応しているのに対して、この国の政府だけが過少に扱ってきた。生物兵器だか何だか知らないが、もしもこのウイルスがどんなに凶悪なものかということを世界中の支配者が知っているのだとしたら、この国の支配者だってそれ相応の対策を取ったにちがいない。武漢の情報は、1月の早い段階で官僚たちが収集していたはずだ。それでも積極的に検査をすることもなく「たいしたことはない、オリンピックは必ずできる」という態度に終始してきた。それはきっと、このウイルスがどうのという以前に、この国の権力者のメンタリティや生態の特異性の問題であり、世界の支配者だってこのウイルスの正体はよくわかっていないのかもしれない。しかしわかっていなくても、彼らはできるかぎりの対策を取ろうとしている。

ペストの致死率は70パーセントくらいだったらしい。それに比べたら今回のコロナウイルス肺炎の致死率は、それほど高くはない。それでも世界(特に欧米)の支配者たちは大いに警戒する態度を取った。

今回の伝染病の特徴は、致死率はそれほど高くなくてもかんたんには終息できないことにあるらしい。だから中国の支配者は、あえて武漢を封鎖するということに踏み切った。それをしないと、中国が世界中から悪者にされてしまう。だから、真っ先に収束させた、というところを世界にアピールする必要があった。習近平にすれば自国の人民が死ぬことなんか大した問題ではないが、共産党支配の正当性が危うくなるという心配があった。武漢を封鎖するということは武漢の人民を見殺しにするということで、そうやって事態の早期収束を目指した。武漢の実際の死者の数は、共産党発表の10倍あるいは100倍だといわれたりしている。とにかくまあ、彼らは秘密主義だから、正確な数はわからない。

この国の感染者数だって、そもそもほとんど検査をしていないのだからわかるはずもないし、検査を受けないまま肺炎で死んだ人はたくさんいて、その人たちも感染者かもしれないという前提で葬っているらしい。

この国が検査をしたがらないのは、オリンピックをしたいからということもあるが、てきとうにごまかしておけば民衆が大騒ぎすることはないと多寡をくくっているからだ。何しろ「民衆革命」が起きたことがないお国柄で、政府の発表をナイーブに信じてしまう民衆が一定数いる。それほどに支配者と民衆とのあいだに乖離があって、民衆には支配者を監視しようとする意識が希薄だ。だから、支配者になめられる。何しろ50パーセントが選挙に行かないのだもの、なめられるに決まっている。

われわれは、完全になめられている。野党はすっかり弱体化してしまっているし、現在のこの国の政府に圧力をかけることができるのは、世界の情勢だけかもしれない。世界からすっかり幻滅され孤立してしまえば、そのときようやく目覚めるのかもしれない。

 

まあ、本格的な防疫対策を取らなくても、この国の人口が劇的に減少するということもないのかもしれない。ほとんどの人は感染しても無症状だし、多少の症状が出ても治癒に向かう。免疫力の弱い人だけが重症化して死ぬ。とすれば、普通のインフルエンザとたいして変わりない。もともと老人が多すぎる国だし、国の経済のことを考えれば、老人の人口が減少することはべつに悪いことではない。生物学的にも「自然淘汰」の範疇だと言えなくもない……そういう考えは許せないといっても、そういう政府なのだからしょうがない。

人が死ぬことは、幸福でも不幸でもない。ただ、人は他者の死を深くかなしむ存在である、ということがある。そういう無意識を持っているのが人間であり、だから今、世界中がコロナウイルスのことで大騒ぎになっている。

「伝染病が発生する」とは、どこかでだれかが死んでいっていることに心が大きく動揺する、という体験なのだ。人の死はいつのときでも世界中であたりまえに起きていることだが、ふだんは忘れている。が、伝染病によって改めてそのことに気づかされ、大いにうろたえる。うろたえないのは、そんな人間としてのあたりまえの感性がすっかり鈍麻してしまっていることを意味する。トランプや習近平でさえどこかでだれかが死んでいっていることに動揺し、それなりの対策を講じようとしているのに現在のこの国の支配者たちだけが能天気を決め込み、その場しのぎのあいまいな対応に終始しており、世界中がそれに幻滅し苛立っている。こんなことを続けていたら、民衆は衛生的にも経済的にもますます窮迫してゆくし、この国自身が世界中から敵視されてしまう。何はともあれ中国の習近平はそのことを察知して「武漢閉鎖」という思い切った手を打ったわけだが、この国の政治経済の支配者たちは、いざそのことが現実になるまで気づかないにちがいない。何しろ四方を荒海に囲まれた島国に孤立している歴史を歩んできた民族であれば、他国(=異民族)と敵対し争うことも仲良く連携することもよくわかっていない。

民のことを想う支配者が育ちにくいのが、この国の歴史風土なのだ。つまり、民を異民族から守ってやる必要もなければ、民とともに異民族と連携してゆく必要もなかった。したがって民もまた、支配者に対する関心や要求を強く抱く伝統がない。

この国の支配者には、世界と連携しようとする意識も、民衆を守ろうという意識もない。民衆なんか放っておいても自分たちでなんとかするだろう、というくらいにしか思っていないし、世界における自分の国の役割というものもちゃんと考えることができない。だから外交交渉が下手くそなのだし、民衆に対してだって、一方的に支配するだけで、調和した関係を結ぶということがうまくできない。

 

日本列島にはコミュニケーションの文化がない、というのではない。権力者と民衆のあいだにはそれがないというだけのことだし、権力社会にはコミュニケーションの文化がない、というだけのことだ。だから国会の議論が平板でつまらないのだし、外交交渉が下手なのだ。現在は、そういうこの国ならではの権力社会の非人間的な野蛮さが民衆社会にまで下りてきて、もともと民衆社会に根付いてきたコミュニケーションの文化の伝統を侵食している。現在の無能な政権与党や強欲な大企業資本家等によって、そうしたコミュニケーションを喪失した社会構造がますます加速してしまっている。

しかし民衆社会の伝統が消えてしまったわけではないし、たとえば政治権力が今とは逆向きの民衆に寄り添った勢力へと反転すれば、時代の気分も社会の構造もあんがいかんたんに変わる可能性がある。

日本列島にコミュニケーションの文化はあるのだ。あの大震災のときに人々が混乱や暴動を起こすことなく粛々と連携していったのは、まさに日本的なコミュニケーションの文化の伝統にほかならない。

コミュニケーションとは心を通い合わせること。言葉によるコミュニケーションとは言葉を捧げ合うことであり、言葉とは本質において他者への「捧げもの」なのだ。

伝染病だって、ひとつのコミュニケーションだろう。だから、世界中の支配者が今、国は国民のために何をなしうるかということを本能的に模索しているというのに、この国の支配者たちだけがあいまいな態度に終始して世界中から幻滅され批判されている。ほんとに彼らは、どうしようもなく鈍感で無能だ。そして支配者が鈍感で無能でも国のいとなみは何となく回ってゆくという伝統がこの国にはある。この国には、支配者と民衆のあいだに「契約関係」がない。

とくに現在の支配者たちは極め付きの鈍感で無能だから、国が国民のために何かをするということなど、ほとんどあてにできない。また、現在のコロナウイルス対策で政府の言っていることのほとんどは、「要請」という名目の「民衆どうしの協力で守れ」というようなことばかりである。

この国の社会は、権力者と民衆のコミュニケーションが希薄であるという関係性を歴史的構造的に抱えている。

 

われわれは政治の話など嫌いだ。それは、民度が低いからではない。民衆社会のことは権力者など当てにせず民衆どうしでやってゆくという意識が高いからだし、そういう歴史を歩んできたのだ。この国の民衆は、そういう歴史の無意識を抱えている。だから、インテリだろうと無知な民衆だろうと金持ちだろうと貧乏人だろうと、選挙に行かない人がとても多いし、こんなにも無能で醜悪な政府を許してしまう。

われわれは「民衆どうしの協力で守れ」といわれてうなずいてしまう。とはいえうなずいても、地域社会のコミュニケーションの文化の伝統があやしくなってきている御時勢だから、協力や連携がまるでできていない。

どうしてこんな世の中になってしまったのだろう。たしかにろくでもない政府だが、民衆社会の退廃がそれを許してしまっている。選挙に行かないということだけではない。こんなにも腐敗した自民党政府がいいとか自民党政府でもかまわないと思うような怠惰な心の民衆が3割も4割もいるということが、すでに絶望的だともいえる。

選挙に行かない者たちを責めても説得しようとしても、彼らを投票所に向かわせるのはけっしてかんたんなことではない。彼らの半分は、意識が低いのでも関心がないのでもない。政治なんか嫌いだ、というかたちで関心を寄せているのだ。彼らを投票所に向かわせるために必要な情報は、政治についての知識を与えることでもなければ、正しい政策を提示することでもない。すでに知っていようといまだに知らなかろうと、彼らはそんな情報などほしがっていない。

この国の投票率の低さは、たしかな民衆社会の集団性(=コミュニケーション)の文化の伝統を持っていることの証しでもある。

では、どうすれば投票率が上がるのか?

まあ、罰金制度にするとかネット投票ができるようにするとかいろいろ方法はあるだろうが、「嫌われ者」である現在の政権がそんなことをするはずがないし、なんのかのといっても投票に行く者たちの半数近くは現政権に投票してしまうのだ。

現状では、投票に行く者たちの意識が変わらなければ、この醜悪な政権が倒れて新しい時代がはじまるということはない。しかし因果なことに彼らは本質的に変わりたがらない者たちであり、やはり変わることができる者たち、すなわち新しい時代を受け入れることができる者たちが選挙に参加してこなければならないのだろう。そしてこの者たちの心を動かすのは正しい政策ではなく魅力的な政治家の登場なのだ。彼らはもともと政治なんか嫌いなのだから、そのとき選挙は政治的な手続きというよりも、「祭り」のイベントとして盛り上がっていかなければならない。

新しい政治が生まれることは古い政治が滅びることであり、政治が滅びることが新しい政治が生まれることだ。新しい政治が生まれる選挙は政治を滅ぼす選挙であらねばならないのであり、したがってそれは「政治的な手続き」としての選挙ではなく、政治を滅ぼす「祭りのイベント」であらねばならない。

つまり、「政治の話なんか嫌いだ」という者たちがいなければ新しい政治は生まれてこない、

政治オタクが寄ってたかってしゃらくさい議論をしていても新しい政治は生まれてこない、ということだ。

「政治の話なんか嫌いだ」という日本列島の民衆社会の伝統は、必ずしも悪いことだけではない。それこそが新しい政治が生まれてくる原動力になったりもする。彼らは、この社会が政治によって動いているとは考えていない。この社会は人と人の関係(=コミュニケーション)の総体として成り立っている、と考えている。そういうことに豊かな体験をしてときめいたりかなしんだりしながら生きていれば、人を支配する政治という世界に対する関心はあまり強く湧いてこない。むしろ拒否反応になる。そんなわずらわしいことはごめんだ、と思う。この社会の片隅で生きていれば、それはごく自然な感慨ではないだろうか。

 

インテリだろうと無知な庶民だろうと、政治に関心のある者たちが政治をだめにしているという側面はたしかにある。

なぜなら政治とは人を支配することで、政治に関心があるということは支配欲が強いからだともいえる。もちろん社会に献身したいという願いで政治とかかわっている者もいるにはいるだろうが、政治家になって権力を持つとどうしても支配欲を膨らませてゆくことが多い。それはたぶん、もともと支配欲が強いくせにないふりしていただけなのだろうし、政治とは「愛と献身」の名のもとに人を支配することだ、ともいえる。

ともあれ今回の伝染病の蔓延という事態に陥ると、だれもが避けがたく「愛と献身」の思考や態度を余儀なくさせられる。ふだんは強欲なだけの権力者たちだって、世界中で「愛と献身」の態度を余儀なくさせられている。

なのにこの国の政府官僚や資本家たちだけが、自分たちの利権にこだわっていつまでたってもいじましく意地汚い態度を取り続けている。なんと愚劣で醜悪な者たちであることか。彼らは、現在のこの国の社会システムに寄生して甘い汁を吸ってきたそのぶんだけ、この非常事態においてその愚劣さと醜悪さをさらしてしまっている。たぶん、思考停止に陥って、どうしたらよいのかわからなくなっているのだろう。もともと利権を漁ることしか能のない連中なのだ。

トランプやボリス・ジョンソンでさえできる「愛と献身」が、どうしてこの国の総理大臣にはできないのか。彼はこの国の権力者の愚劣さと醜悪さの伝統をもっとも濃密に引き継いでいるわけで、それは、そんな権力者を他愛なく許してしまう国民性とはまた別の問題なのだ。民衆が許してしまうからこんな愚劣で醜悪な権力者があらわれてくるのだし、その「許してしまう」ことは必ずしもネガティブなことだともいえない。それだって、ひとつの「愛と献身」だろう。

なんともなやましい。

いずれにせよ、カミユの『ペスト』の物語のように、「愛と献身」がなければこの非常事態を終息させることはできないにちがいない。つまり、だれもが自分の命より他者の命を優先させる心意気を持たなければ、この事態に立ち向かえない。立ち向かう人がいなければ克服できない事態であり、権力者がその先頭に立たなければならないことを歴史の教訓として彼らは知っている。

疫病の歴史は世界中のどの地域でも持っているが、とくにヨーロッパはネアンデルタール人の原始時代以来もっとも広く頻繁に往来のあった地域であれば、世界でもっともその対策に苦慮し格闘してきた歴史を持っている。そんな歴史の無意識として、「愛と献身」の心意気を持たなければ克服できないということを骨身に染みて知っている。

トランプやボリス・ジョンソンに人間的な誠実さがそなわっているなどとはだれも思っていない。それでも彼らは、その歴史風土に促されながら、無意識のうちに支配者としての「愛と献身」の態度を実行しようとしている。

しかしこの国の歴史においては、疫病や飢饉に際して朝廷や幕府が献身的に民衆の面倒を見たということはない。いつだって地方の藩や村ごとの連携によってしのいできた。

この国の権力者は、民衆がみずからの「受難=死」を甘んじて受け入れる人種であることをよく知っているし、そこに付け込んで支配してゆくのがもっとも上手な政治であると考えている。

まあ日本列島は台風や火事や地震等の災害が頻発する土地柄であるが、それらはあくまで地域限定で起きることであり、日本列島全体の支配者が面倒を見ることではない、という伝統になっている。この国の権力社会には、民衆に対する「愛と献身」の伝統はない。昔も今も、地域的な藩や県や市町村の名君は数多いても、朝廷や幕府や政府の名君など二・三の例外を除いてまずいない。その伝統が、今回のコロナウイルス騒動によってみごとにあらわれている。因果なことに現在のこの国の総理大臣の愚劣さと醜悪さは、この国の権力社会の伝統そのものでもある。

こうなったらこの国はもう滅びるしかないのかもしれないし、「滅びる」ということを受け入れるのが民衆社会の伝統でもある。そうして、そのときようやく「新しい時代」がやってくるのだろうか。

 

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