結束なんかしない・ネアンデルタール人論228

日本人の自我意識の薄さということは、考えるに値する問題だと思う。
それが日本人の限界だとは思わない。
むしろ可能性ではないだろうか。
社会的に成功して自意識過剰のまま生きていられればそれがいちばんの幸せかといえば、きっとそうなのだろうが、それがその人の知性や感性の限界になっていたりする。成功したエリートだろうと、下層の庶民だろうと、自分に執着することによって、自分の外の世界に対するときめきを失ってゆく。
幸せな人間が人間であることの真実をいちばんよく知っているとはかぎらない。そうやって幸せに呆けてしまうことによって思考が停滞し衰弱してゆくのだし、幸せを守ろうとしてというか幸せをむやみに欲しがってというか、騒々しくサディスティックな言動や行動になったりもする。いやこの場合は、幸せというより「自我の安定」といったほうがいいのかもしれない。むやみにそんなものに執着してばかりいる人がいる。幸せだろうと不幸だろうと、彼らの思考はいつだって正しいが、いつだって底が浅い。人間はそれだけではすまないんだ、といいたくなってしまうが、まあいっても聞き届けられることはない。。
戦後社会は、そういう自意識過剰な人間をたくさん生み出した。日本人の自意識の薄さが限界だという彼らは、自分=幸せに執着しつつ、自分に当てはめた物差しでしか物事を見ることができないし、いいか悪いかと裁くことばかりしている。
「幸せな未来を実現するために」などといわれても、幸せってなんなのさと思ってしまうし、幸せにならなければならないとも思わない。幸せなあなたたちが人より豊かにときめき感動し、人より深く思考しているとでも思っているのかといいたいところだけど、因果なことに彼らはそう思っているんだよね。まあ世の中は、そういうことをいいたがる知識人に追随している民衆がたくさんいるから。
いまや多くの大人たちが、自意識過剰になってしまっている。それが、「戦後」という時代によってもたらされたものらしい。
その自意識過剰こそ、あなたたちの思考の限界だ、と思う。
自我が薄いということは、べつに頭が悪いとか知能程度が低いということではない。「自分」からはぐれていってしまう傾向を持っているということだ。そしてそのことこそが、じつは人間性の自然であり、そしてそのことによって「自分」の外の世界や他者にときめき感動し、人間的な文化や知能が育ってくるのだ。

日本人は、自分は日本人だという意識が薄い。それが日本列島の伝統だ、と先日のこのブログに書いた。
日本列島で暮らすかぎり、自分は日本人だという意識など持たなくてもすむ。それは、みんなが同じ日本人だからだということではない。そういう「同質性」なんか意識していない。
誰もが自分は「ひとり生まれてひとり死んでゆく」存在だと思っているからであり、そうやって「この世」からはぐれてしまった心を共有しながらときめき合ってゆく歴史風土の上で暮らしているからだ。
みんな「ひとりぼっち」なのだ。
自分が日本人だと思っていないということは、この国にいる外国人を、自分よりももっと「この世」からはぐれてしまっている存在として、そのことに対するそこはかとない「憧れ」を抱いているということを意味する。だから、道を聞かれたら、とても親切に教えてやったりする。ときには、その場所まで連れていってやることもいとわない。また、岡目八目というように、外国人のほうが日本人に対する客観的な視線を持っているのだから、日本人とは何かということは彼らのほうがよくわかっている、とも思う。
日本列島においては、この世の一員として居座りふんぞり返っている人間よりも、この世からはぐれてしまっている人のほうが愛され尊敬されたりする。われわれは、みずからの主観というものをあまり信じていない。彼らや外国人の客観的な視線の方が信用できる、と思っている。
日本人であるということは、日本人のことがよくわかっていないということだ。日本という国の一員のつもりの人間ほど、日本人のことをよくわかっていない。
それは、自我意識の薄さでもある。日本人であることは。われわれの誇りでもなんでもない。それが誇りだという右翼のひとたちの考えなどとんでもない倒錯であり、日本列島の伝統から外れていると僕は思う。
そんなふうに自意識過剰になってもみっともないだけだよ、と日本人なら思う。
同じ日本人だという意識で固まって結束してゆこうなんて、醜いと思う。それは、日本人の美意識にそぐわない。
みんなこの生からもこの社会からも「はぐれて」しまっているのだ。その「かなしみ」と「ときめき」を共有しながら、「私」の前に「あなた」が立ちあらわれている。はぐれているから「出会いのときめき」が体験できるのだし、一緒に暮らしていてもその関係の中に「出会いのときめき」が生成している。そしてはぐれているのだから、「別れ」を受け入れることができる。

井伏鱒二は「さよならだけが人生だ」といったが、「結束」しようとばかりして「別れ」を受け入れることができないのは、愛でもやさしさでもなんでもなく、「ときめき」と「かなしみ」を失ったひとつの自己撞着という病理だ。現代社会はそうやって心を病んでいる人も多いが、それでも人の世であるかぎり、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」はいつでもどこにでも生成している。
この生やこの社会からはぐれてしまっている「ひとりぼっち」の心は誰の中にもあるではないか。なれなれしくされるのは嫌だし、なれなれしくしないことによって、人間的なこの大きな集団が成り立っている。
夫婦や恋人どうしであれ、家族であれ、国家であれ、なれなれしく「結束」してゆこうとしている集団は、いずれ必ず自家中毒を起こす。
人は、「出会いのときめき」がたえず生成している集団であろうとして、「おはよう」等のあいさつを交わす生態を生み出した。というか、そういう生態とともにどんどん大きな集団になっていったのだろう。
まあ、「結束力=絆」などというものは、猿の群れのほうがずっと豊かにそなえている。