「フラッシュモブ」という集団パフォーマンスがあるらしい

フラッシュモブ」という集団パフォーマンスがあることを、恥ずかしながら今日初めて知りました。
欧米で始まったらしく、今や世界中に広まりつつあるのだとか。それは街の広場などで催されることが多く、最初のひとりまたは少人数の歌や演奏や踊りがしだいにふくらみながら大きな集団のパフォーマンスになってゆくという演出で、何も知らない通りがかりの人たちを驚きよろこばせて拍手喝采を得る。
まあ演出が上手くないと、迷惑がられたり無視されたりすることもあるのだが。
表現がへたくそならたいして面白くないが、プロのオーケストラのメンバーが集まってきて、たとえば本格的な「第九」の演奏になってゆくというような仕掛けは、一種の「サプライズ」としてかなりの感動を生むことが多いらしい。だんだん盛り上がってゆくということ、「第九」の場合は途中からコーラスが加わってくるから、そこで一気に盛り上がる。そうやって、いつの間にか感動の渦に巻き込まれている。
日本列島では、東日本大震災の支援活動をきっかけにして定着してきたともいわれている。それは、知らないものどうしがときめき合う体験をもたらすパフォーマンスであり、支援しようという気持ちの盛り上がりをうながす効果もあったのかもしれない。。
まあ、知らないものどうしなのだから、いきなりときめき合うというわけにはいかない。
基本のかたちは、「どこからともなく人が集まってくる」ということ。表現者も通りがかりの観客もみな、どこからともなく集まってきた人たちであり、そこから盛り上がってゆく。つまり、政治的な予定調和の「結束」ではない。
このブログでは、原始人の人類拡散はどこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合いお祭り騒ぎになってゆく現象として起きてきた、とずっといってきたわけだが、「フラッシュモブ」はまさにそうした人としての普遍的な生態の上に成り立ったパフォーマンスだといえる。人類発祥以来の生態なのだ。だから世界中に広まっていったのだろう。国民性以前の、人間性の自然の問題なのだ。
生きてゆくことは、「今ここ」の「不意の出来事」との出会いであり、そこでこそ「ときめき」が生まれる。われわれは「不意の出来事」として生まれてきて、「不意の出来事」として死んでゆく。
というわけで「フラッシュモブ」は芸術運動のひとつとして生まれてきたらしいのだが、政治運動や経済活動だって、人としてのいとなみであるかぎり、盛り上がるためにはそうした「出会いのときめき」が必要であるのかもしれない。
「どこからともなく人が集まってくる」ということ、その見知らぬものどうしの「出会いのときめき」が人類の集団性の基礎になっている。それに対して戦争は、集団のアイデンティティ共有していることの、その同質性の自覚で結束しながら異質なものを排除しようとする衝動とともに起きてくる。
現在の世界は、民族主義とか国家主義が強くなってその露骨で醜悪な暴力性が露出してきており、それに対するカウンターカルチャーが模索されている時代でもある。民族主義国家主義は文化を停滞・衰弱させる。だから、芸術運動のひとつとして「フラッシュモブ」が生まれてきた。まあ政治的な民族主義国家主義はひとつの「憎しみ」の上に成り立っており、それに対して学問であれ芸術であれセックスであれスポーツであれ「文化」というのは、あくまで「ときめく」という体験のその官能性の上に成り立っている。