祖霊信仰とまれびと信仰・「漂泊論B」37



一般的には、原始神道といえば先祖の霊を祀る「祖霊信仰」のようなことがいわれている。これは、柳田国男がしつこくそう繰り返していたことの影響だろうか。
「死後の世界」というイメージがないのなら、「先祖の霊を祀る」ということもない。
縄文人は、「死後の世界」というイメージを持っていただろうか。そんなはずはない。日本人ほど「死後の世界」をイメージするのが下手な民族もない。われわれは、心の底では天国も極楽浄土も信じていない。
そして、死が怖いか怖くないかは、そんなものを信じるか信じないかの問題ではない。縄文人は、そんなものを信じていたはずがないのに、たぶんあまり死を怖がっていなかった。われわれが気になるのは、そこのところだ。
宗教が衰退したから死が怖くなった、などとよくいわれるが、じゃあ宗教を持たなかった原始人は死が怖かったのか。そんなことはあるまい。
死後の世界を信じれば、死が怖くないのか。そんなことがあるものか。人間なんか、心の底では、誰もそんなものを信じてはいないのではないだろうか。
とくに日本人は、「死後の世界」をイメージするのが下手な民族であろう。下手だからこそ、この国には無数の「死後の世界」のイメージがある。まあ、なんでもありなのだ。どんなものでも信じられるし、どんなものもじつは信じていない。
天国も極楽浄土も信じられなくてなんでもありの社会だから、いつも先祖(死者)の霊と対話していなければならない強迫観念になってしまう。
家に「仏壇」を置くという日本人の習俗は、美風でもなんでもなく、日本人の強迫観念なのだ。
盆や彼岸の墓参りは現在の日本人の大きなイベントになっているが、これだって、天国や極楽浄土をうまくイメージできない民族だからだろう。うまくイメージできないで、先祖が、いつも仏壇の向こうからこちらを見ているような気がしている。
死者にいつも監視されているような気がする。
われわれは、何かしら死者との距離を近いものに感じてしまう。
日本人ほど「死者の祟(たた)り」ということを怖がる民族もない。平安時代に大流行した「御霊信仰」などはまさにそうやって起きてきたのであり、幽霊を見るという癖なんか、現代社会にもいくらでもある。
日本人ほどいつも死者を意識している民族もない。だから盆や彼岸の墓参りをせずにいられなくなる。
この国では、そうかんたんに「天国(極楽浄土)に行きました、めでたしめでたし」というわけにいかない。初七日とか四十九日とか一周忌とか三回忌とか七回忌とか命日の墓参りとか何とか、もう何度も何度もダメ押しのように死者をあの世に送るということを繰り返さなければならない。それほどに「あの世」をうまくイメージできないのだ。
またそんなあの世がすばらしいところで死者もたのしく暮らしているのならわざわざ盆に呼び寄せる必要もないのだが、どうもいまいちそれを実感できない。
死者に監視されているような気がする。先祖を祀るなんていっても、ようするにそういう強迫観念なんじゃないの?
そういう強迫観念で病気になるほど憔悴してしまう人もいる。夫婦の場合、憔悴してしまうのは、たいてい男の方だ。女は、逆に元気になることも多い。
この国には、死者に監視されている、という共同幻想があるから「幽霊」を見てしまう。
それは、天国や極楽浄土をうまくイメージできないからであり、霊魂というものをうまくイメージできないからだ。
つまりわれわれは、中途半端に霊魂という概念を持たされてしまっている民族なのだ。
その中途半端な霊魂観で、先祖を祀っている。
それは、縄文以来の原始神道の正味のかたちではおそらくない。霊魂という概念など持たない1万年の歴史を持っている民族が1500年前にいきなり霊魂という概念を持たされてしまったことの戸惑いから「祖霊信仰」が生まれてきた。
柳田国男は、どうしてこんなことを、日本列島のもっとも原初的な信仰のかたちだと本気で力説していたのだろう。そして、どうして多くの人々が賛同しているのだろう。
僕なんか、ぜんぜんピンとこない。
盆休みに日本中の高速道路が渋滞することの原因としてなら、わからなくもないけどさ。
柳田国男はそういう現代人の物差しで縄文人の心性や原始神道を推量し、いまなお多くの歴史家や宗教者がそれに賛同している。
そんなものは原始神道の本質でもなんでもないのだ。
原始神道においては、死者と対話するのではなく、死者を「思い出す」のだ。
ネアンデルタールが洞窟の土の下に死者を埋葬したのは、死者と対話するためではなく、死者を「思い出す」ためである。それと同じだ。
原始人は「死後の世界」をイメージしなかったし、それが日本的な心性の伝統でもある。
「死後の世界」をイメージできないものは、ただもうせつなく「思い出す」しかない。
その「思い出す」という習性が、仏教の霊魂観の洗礼を受けて、毎日仏壇に線香を上げないといけない強迫観念になり、さらには幽霊を見なければならなくなってしまった。
死者をせつなく「思い出す」ことと、毎日線香を上げて死者と対話し続けることと、どちらが人間の自然だろうか。
原始神道は、祖霊信仰ではない。



で、柳田説に対抗して、折口信夫が「まれびと信仰」というような説を出してきた。
このために仲がよかったはずの両者の関係がずいぶんぎくしゃくしていったそうである。
まあそんなことはどうでもよいのだが、折口のいう「まれびと信仰」だって、つまりは共同体(国家)の発生以降の「神」という概念の上に成り立っているのだから、日本列島の住民の根源的な心性の表出としての原始神道でもなんでもない。
折口のいう「まれびと」とは「神」であり「天皇」のことである。だからこの説は、戦前の天皇崇拝の思潮に大いに寄与した。
しかしその「神」という概念は、日本列島の住民が縄文時代以来あたためてきた「かみ」という言葉のニュアンスとはずいぶん違う。
大陸から輸入された自然の森羅万象をつかさどる「神」という概念と、原始神道における森羅万象そのものとしての「かみ」という言葉とは、また別のものである。
初期の万葉集古事記だって、「神」という文字表記などしていなかった。「加美」というような感じのややこしい万葉仮名を当てて一音一音の表記をしていただけであり、このころはまだ外来の「神」という概念は定着していなかった。
日本人がそれ以前から同じような「神」という概念を持っていたら、すぐに「神」という文字表記をするはずである。
日本人が「神」という文字表記をするようになるまでには、ずいぶん時間がかかっているのだ。
そして「神」は、森羅万象そのものだったのだから、人間ではなかった。したがって「まれびと」という「人(ひと)」のことを「神」だと思うはずがない。
神が身をやつして人間の世界にやってくる、というような話が生まれてきたのは、もちろん共同体(国家)の発生以降というか仏教伝来以降の話だ。
仏教には、金色に輝く阿弥陀如来が西の彼方(西方浄土)からやってくる、というような話があって、それをアレンジしてそういう話になっていったのだろう。
まあ、座禅などの修行においても「光のシャワーがあらわれる」という幻視体験をするそうだから、仏教がそのような「神を見た」とか「神がやってきた」という説話を持つのは当然のことである。
折口信夫は、そうやって海の彼方からやってくる神のことを「まれびと」といったのであり、それが日本列島の「かみ」のイメージのもっとも原初的なかたちである、といっている。
しかし、そうじゃないんだなあ。
縄文人は水平線の向こうは「何もない」と思っていたのであり、われわれ現代人だって、知識ではその向こうに大陸があることを知っていても、心の底では「何もない」という感慨が疼いている。
日本人は、その向こうに大陸があろうとなかろうと、ひとまず水平線の向こうは「何もない」という前提の心で歴史を生きてきたのだ。それが縄文人の「混沌=なりゆき」を生きる心であり、とにかくわれわれはそういう1万年の歴史を持ってしまったのだもの、その心の動きが後世の人間の中にも残っていないはずがない。
「混沌=なりゆき」を生きる心とは、「いまここ」がこの世界のすべてだと思い定めて生きる心のことである。そういう心の動きは、日本列島の住民の誰もがどこかしらに持っている。
僕は「まれびと」という言葉を否定しているのではない。それは「海の彼方からやってくる神」などではない、といいたいだけだ。
縄文時代の女子供だけの集落は、旅をする男たちの小集団がどこかからやってくるのをいつも待ち焦がれていた。そういう習俗の伝統から「まれびと」という言葉が生まれてきた。だから、「人(ひと)」であって「神」とはいわなかった。
神なら、神というさ。で、折口は「まれびと神」などという持ってまわったいい方をしている。笑わせてくれるよ。それが、原始神道の「かみ」なんだってさ。
どいつもこいつも、「神」などという文字を使う時点で、原始神道の探求においてはアウトなのだ。
外来の「神」という概念と、やまとことばとしての「かみ」を混同してしまっている。



日本列島の住民は、もともと「死後の世界」を思い描くのが苦手な民族なのだ。
縄文人には「死後の世界」というイメージはなかった。
大陸との交渉は一切なく、水平線の「向こうは何もない」と思っていた。それは「他界=死後の世界」は思い描かなかった、ということでもある。
そして死後の世界を思い描かなかったから、「未来を思わない」という「無常観」の文化が生まれてきた。
そういう世界観・死生観の上に原始神道が成り立っていた。
彼らは、この世界が自分の目で見えない向こうまで広がっているとは思わなかったし、この生が死後の世界まで続いているとは思わなかった。
この世界もこの生も、「いまここ」がすべてだと思っていた。
祭りとは、「いまここ」に消えてゆくカタルシスを汲み上げる体験である。そういう体験が縄文人を生かしていた。ネアンデルタールだってそうだったし。世界中の原始人がみな、そのような世界観・死生観で生きていた。
彼らにとっては、生も死も、「いまここ」に消えてゆくことだった。
われわれだって心の底にはそういう意識があって、そういう意識が生活感情の基礎になっている。だから、われを忘れて遊び呆けてしまうし、好きな人とは別れたくないと思ってしまう。
津波を前にした人が、「逃げて生き延びなければ」と思うことを忘れて「いったいこれは何なのだ」と思いつつ呑み込まれてしまったとしても、それはもうしょうがないことだ。人間とはもともとそういう生き物だし、「無常観」の文化を洗練させてきた日本人は、とくにそのような傾向が濃い。
原始神道は、この世界やこの生に「秩序と安定」をもたらす世界観・死生観として機能していたのではない。そこでは、「死後の世界」も「海の彼方の神」もイメージされていなかった。
われわれ日本列島の住民がこの世界やこの生をつかさどる「神」や「霊魂」という概念を知ったのは、じつはアマゾンやボルネオ奥地の原住民より遅いのかもしれない。そしてそれを知ったときはもう、いまさら心底からその概念に馴染んでゆくことができないほどに「無常=なりゆき」の原始的な世界観・死生観の文化を高度に洗練させてしまっていた。
日本列島の住民の根源的な世界観・死生観は、彼らのいうような「祖霊信仰」や「まれびと神信仰」にあるのではない。
原始神道は、「信仰」ではなく、「祭り」なのだ。
われわれは、この世界やこの生の「秩序と安定」だけを無上のものとして生きてゆくことなんかできない。この世界やこの生の「混沌=なりゆき」の中に身を置いている、という思いはふだんの生活感情としてつねに付きまとっている。
まあそれが、日本列島の住民であることの生きにくさであり、世界に発信できるチャームポイントでもある。
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