骨の人格と死後の世界・「漂泊論B」38



原始人に「あの世=死後の世界」という意識などなかった。
この国の古代において、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、という神道の死生観があった。しかしそれが生まれてきたのは、縄文時代の1万年を死後の世界などイメージしない歴史を歩んでしまった民族としては、外来文化によって「死後の世界」という概念を与えられればもう、そのようにイメージするしかなかった……という思考回路の結果かもしれない。そのようにイメージしないことには、死後の世界など持たなかった1万年の歴史の伝統とのつじつまが合わなかった。
それはたぶん、縄文人の死生観ではなかった。
縄文人は、死んだ子供の体は、家の床下に埋めておいた。そんなことをしたら、あの世に旅立てなくなるではないか。あの世なんかイメージしないで、いつも思い出していたかったからそうしただけだろう。そういう「かなしみ」こそ、人類の埋葬の起源である。
そして、大人たちの死体は集落の外の共同墓地に埋めたのは、生き残ったものたちがむやみに思い出さないための配慮かもしれない。
縄文信仰(=原始神道)は、世界の宗教に比べると、とても現世的なのである。ほんとうは「信仰」とすらいえない。これは多くの歴史家や宗教家の合意事項になっている。それなのに彼らは、それが「神」だの「霊魂」だの「死後の世界」だのという概念の上に成り立っていたように語って矛盾を感じないのだろうか。
神道の教えの傾向が現世的であるということは、縄文人は「死後の世界」などというイメージを持っていなかったことの大きな可能性なのだ。持っていたら、その後に「何もない黄泉の国」などというイメージは湧いてこない。いったん持ってしまったら、それだけではすまなくなる。実際、その後の神道においても、神のいる世界だの魔物がいる世界だの、魔物に使役されることになるだの、生まれ変わるだの、さまざまな「死後の世界」観が生まれてくることになる。
今でも「死後の世界」や「生まれ変わり」のようなことは、多くのオカルト趣味の人たちによってあれこれ盛んに語られている。
縄文社会には「死後の世界=あの世」などという概念はなかったのであり、そこにこそ神道の本質というか真髄がある。



「もがり」という葬送儀礼は、日本列島のそれのもっとも古いかたちだともいわれている。
死体が骨だけになってしまってからあらためて埋葬するという習俗。
「大化の薄葬令(646年)」以降は貴人だけしかしなくなっていったらしいが、それ以前は庶民もしていたらしい。
日本人は、骨に人格が宿っているというような見方をする。だから、骸骨を見るのを怖がる。
西洋人は、ただの霊魂の抜け殻だと思っているから、少しも怖がらない。教会の陳列棚に歴代の僧侶の骨を平気で飾っていたりする。
日本列島の中世には、骨から生きた人間を再生させる呪術がまことしやかに語られたりしているし、能には骨と会話をするという物語もある。日本人の心の底には……死んでも霊魂は離れないし天国にも極楽浄土にもいかない、離れるような霊魂なんか存在しない、骨そのものが人格だ……というようなイメージがあるらしい。
もしも霊魂などというものがあるのなら、それは骨に宿っている……日本人なら、そう思ってしまう。
だから、骸骨が怖い。
「もがり」という葬送は、骨だけになってはじめて死んだといえるという思いがあったからだろうし、その骨を洗ったりしていたのは、そこから離れて極楽浄土に行く霊魂などイメージしていなかったからだろう。骨そのものに対する敬意があった。
このごろ、若者のあいだで骸骨の絵柄のTシャツとか小物が流行っているらしい。
しかしそのTシャツをこの国の若者が着るのと、西洋の若者が着るのとでは、少し気分が違うはずである。
この国の若者はその絵柄を自分の守り神のような気分になっているし、西洋の若者にとってはそれが自分自身のスピリットの表現になっている。
この国の若者は、その骸骨に死者としての敬意を払っている。それが「もがり」の伝統ではないだろうか。
霊魂という概念など持たない文化風土だから、そういう気分になるのだ。



どうして、縄文人もこの世界やこの生をつかさどる神や霊魂の存在を信じていたかのように決めつけるのだろう。
そしてどうしてこの社会には、昔も今も、神や霊魂がどうのこうのとえらそげに吹きまくるただの俗物にかんたんにしてやられる空騒ぎがあるのだろう。
神道の本質とか真髄とか原始神道というのは、そういうことじゃないのだ。
それは、この世界やこの生をつかさどる神や霊魂という概念を持たない「混沌=なりゆき」の世界観・生命観にある。
つまり原始神道とは、宗教的な「信仰」ではなく、あくまでこの生のダイナミズムとしての「祭り」だった、ということにある。
日本人は、どうして「神をまつる」とか「先祖をまつる」というのだろう。それは、もともと「祭り」だけがあって「宗教」などなかった民族が、むりやりそれを受け入れさせられようとしたとき、ひとまず「まつる」という言葉で和解していこうとしたのだろうか。
そのとき古代人は、「祭り」しか知らなかったのだ。「混沌=なりゆき」に身をまかせる「祭り」しか。
その「信仰」という制度性の不条理を前にして、「まつる」という言葉で懸命に「祭り」のカタルシスを汲み上げてゆこうとしたのだろうか。
いつの時代であれ、日本人が根源において求めているのは、この世界やこの生の秩序や安定よりも、「混沌=なりゆき」に身をまかせながら生きてあることを忘れてしまうカタルシス(浄化作用)にあるのではないだろうか。
日本人なんか、本気で神や霊魂を信じてゆくことなどできない民族なのだ。
浄土真宗の坊主はこういう。「死んだら極楽浄土に行きたいとか行けるだろうかと心配したりするようなことをしてはいけない。ひたすら阿弥陀如来にすがって、なむあみだぶつ、と唱えればよい」、と。
まあこれなんか、信じることはできないが「なりゆき」に身をまかせることは上手な民族のためにやりくりされた、ひとつの信仰のかたちかもしれない。信じなくてもいい、その代わりひたすら「なりゆき」に身をまかせなさい、といっているのだ。
たぶん、じつは世界中の人間が本気で信じてゆくことなんかできないのではないのだろうか。
なぜなら、そんなところに人間の自然(普遍性)も原始人の心の真実もなかったはずだから。



ともあれ、仏教伝来のときの日本列島の住民の心の混乱はわれわれの想像以上のものがあったのだろう。その混乱を、「祖霊信仰」というかたちでひとまず収拾していったのだろうか。
祖霊信仰は、日本列島の心の源流ではない。
多くの歴史家が「原始神道は祖霊信仰からはじまっている」といいたがるのは、伊勢神宮にはアマテラスとか出雲大社オオクニヌシというように必ず祭神が祀られていて、それが「祖霊信仰」の原型になっているといいたいのだろう。祭神=祖霊。
しかしそういう祭神は、もしかしたらあとから付け加えられたものかもしれない。
おそらく縄文時代には名前のついた神などいなかった。
それらの神は、古事記などの共同体の創世神話と一緒に生まれてきたにすぎない。
縄文時代は、ただ「かみ」という感慨をあらわす言葉があっただけであろう。
神社といっても、起源はただの芸能の舞台のような施設だったのかもしれない。
唄ったり踊ったりすることは、縄文人もしていたはずだ。
原始神道は宗教というより「祭り」のようなものであったにちがいないわけで、ここでは、そこのところを探求したいのだ。
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