現在の世界のとどまるところを知らない競争社会化が人々の心をむしばんでいる、という意見は多い。
世界は病んでいる、と。
そこで多くの良識派がなんというかといえば、「健全な競争社会」にしなければならない、という。
いや、そうじゃないだろう。
「健全な競争社会」などというものはないのだ。そういう幻想に引きずられてわれわれはここまで来てしまったのではないのか。
競争は悪だというのではない。人間とはそういうことをする生き物なのだろう。人間社会はもう、そういう競争原理を背負ってゆくしかないのだろう。
とはいえ、競争によって人の心が癒されるわけではないし、競争しようとすることが根源的な「生きられる意識」のかたちになっているわけでもない。
人が「健全な競争社会」というとき、「生き物は生きようとする本能を持っている」という認識が前提になっている。そこが、問題なのだ。
人が「健全な競争社会」というとき、「貨幣は等価交換の道具である」と信じられている。そこが、問題なのだ。
人が「健全な競争社会」というとき、どこかしらで他人に対する「優越感」を持ちたがっている。ひそかに優越感をまさぐっていないと生きた心地がしない、そのいじましい競争意識。そこが、問題なのだ。
「健全な競争社会」などというスローガンは、ただの幻想にすぎない。そんなものはありはしない。
人の心は、競争社会の渦中にあって、競争社会それ自体の不健全を自覚するようにできている。だから「家族」という競争のない空間をつくってひと息つこうとする。
この世界に家族という空間があるということは、「健全な競争社会」などというものはない、ということを意味する。
競争社会が不健全だから、家族という空間が生まれてきたのだ。
人類の歴史において、はじめに家族があったのではない。共同体という競争社会それ自体の根源的な不健全さが、家族という閉じられた空間を生み出したのだ。
家族は本質的に閉じられた空間なのだから、そこから共同体に発展拡大するということは原理的にあり得ない。
人類はもともと家族など存在しない集団で暮らしていた。そこから集団が肥大化しして競争社会化してゆき、そこで体験されるストレスや矛盾をひとまず収拾する機能として、家族という競争のない空間が生まれてきたのだ。
今となってはもう、競争のない社会などつくりようもないが、競争しないことこそ人間性の根源的なかたちだということは自覚しておいてもよい。
「健全な競争社会」などというスローガンは、他人に対する優越感なしには生きられない現代人のただ幻想なのだ。
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原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、誰もが群れの中でいちばん弱い存在になった。それは、とても不安定で無防備な姿勢だった。二本の足で立ち上がるとは、「弱い存在になる」ということだった。ここから人類の歴史がはじまっている。
なぜそんな姿勢を取れたのかといえば、生き物の根源に生き延びようとする本能などはたらいていないからだ。
彼らは、生き延びることよりも、「いまここ」でこの生を完結させてしまうことの方が大切だった。人間は、根源的にそういう衝動を持っている。
そういう衝動を封じ込めながら他者に先んじて未来を獲得しようとしてゆくのが、競争社会である。
つまり、原初の密集した集団において、「おまえ邪魔だからあっちに行け」と追い払うような、未来に向かって生き延びようとする「競争」はせず、誰もが「いまここ」でこの生を完結させようとしていったのが、直立二足歩行の起源である。
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だから人間は、根源的に、競争することにどうしようもなくストレスを覚えてしまう。
「健全な競争社会」などというものはない。健全な競争をしているつもりで、人の心はどんどんいびつになってゆく。ストレスのない競争社会などというものはない。
人はつねに、そのストレスからの解放を試みて生きている。
「生き物は生きようとする衝動(本能)を持っている」と思うこと自体が、競争社会で生きているストレスによる幻想なのだ。そういう衝動が本能としてあるのなら、もう、競争社会を生きるしかない。ひとまずそういうことにして、競争社会を生きる自分を正当化しようとしている。他人に対する優越感を持とうとしている自分を正当化しようとしている。
この競争社会で、他人に対する優越感を持てることは気持ちのいいものである。誰もがその気分を持とうとしながら生きている。
と同時にそれは、持たなくてもいい劣等感を避けがたく持たされてしまってもいる、ということだ。
僕の中でも、他人に対する優越感と劣等感が嵐のように渦巻いている。
ただ、だからといって、「健全な競争社会」などという薄っぺらで通俗的な幻想にすがるつもりは毛頭ない。
薄汚い優越感をまさぐりながら生きているだけのくせに「健全な競争社会」などというお題目を掲げていい気になっているなんて、ほんとにアホだなあと思う。
人間は、根源において、競争することにストレスを覚える生き物なのだ。
競争することが人間の自然であるのなら、今ごろ全人類が住みよいところばかりに集まってひしめき合っていることだろう。ところが、じつは、そうやって競争することを避けながら地球の隅々まで住み着いていったのであり、これが、ほんらいの人間の自然だ。
いかにも制度的なわれわれのこの競争意識は、人類史700万年の、せいぜい1万年前から肥大化してきたにすぎない。
じつは、人間ほど競争することにストレスを覚える生き物もないのだ。
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「競争する」ことと「関係する」ということとはまた別のことだ。
たがいの身体のあいだに競争することが不能な「空間」を確保し共有してゆくことが「関係する」ということの原点であり、それが、人間の「生きられる意識」だ。たとえ競争社会に身を置いても、われわれはそういう関係も確保しておかないと生きられない。
いまどきの若者が「ほっこり癒される」というのは、そういう関係のことだ。
競争から解放されることのカタルシスがあるから人は、競争の中に身を置いてしまう。
競争だけがあって解放されることがないのなら、心はどんどん病んでゆく。
誰もが多かれ少なかれ病んでいるから、癒される体験を欲しがる。
人間にとって働くことは競争することであり、病んでゆくことだ。
今やもう、われわれにとって生きることそれ自体が病んでゆくことかもしれない。
生き物にとって集団の中に置かれることはストレスであり、さらにそこで体をぶつけ合いながら行動していれば、なお大きなストレスになる。現代社会を生きることは、生物学的にはそういうことかもしれない。
だからイワシやフラミンゴのような大きな群れをつくる生き物は、競争して体をぶつけ合うことを避けて同じように動くことを心得ている。
チンパンジーは競争する意識が強すぎるから、大きな群れはつくれない。その部分では、人間はむしろイワシやフラミンゴの仲間なのだ。原初の人類は、競争することを避けて二本の足で立ち上がっていった。
人間は、根源的には競争を避ける習性を持っている。だから、こんなにも大きな集団をつくることができるようになった。だから、自然に大きな集団になってしまう。
大きな集団になってから、閉じようとして競争が起きてくる。
競争するから大きな集団になるのではない。大きくなりすぎた集団を収拾しようとして競争が起きてくるのだ。
競争の衝動は、閉じようとする衝動である。
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現在のグローバルな企業の経済活動は、競争してつねにライバルを振り落としてゆく。それは、閉じようとする衝動の上に成り立っている。最終的には、市場を一社で独占してしまおうとする。
競争することは、人と人をつなげない。そんなことは当たり前だろう。フェアな競争であればあるほど、人と人の関係は壊れてゆく。
フェアな競争で負ければ、もう文句は言えない。抹殺されても文句は言えない。
フェアじゃない方が、相手も生き残る余地が残される。たぶんそのようにして階級制度が生まれてきたのだろう。
現在の企業が大学生の新人を採用するとき、大学4年間の成績よりも入学時の成績だけで決めたりすることがあるらしい。つまり、入学後に努力していい成績になったということなどどうでもよく、持って生まれた頭の良さだけを見ようとしているのだろう。
それは、アンフェアかもしれない。しかし現実の競争社会を生き抜いている企業にしてみれば、フェアな競争がいかに欺瞞的で非生産的であるかをよく知っている。
どうせ会社に入れば、仕事のことは一から覚えてゆくしかないのだ。たいして頭がよくないのに努力していい成績を取ったことなんか参考にならない、企業がわざわざ頭の悪い学生を採用しなければならない義理はない……そういう論理は、必ずしも否定できない。
しゃかりきに努力していい成績を取ろうとするものは、そのぶん他人を振り落とそうとする意欲も強い、そういう人間がいいチームワークをつくれるのか、ということもある。
企業は、対外的にはフェアな競争をしかけて相手を振り落としてゆき、内部的にはアンフェアな非競争で結束してゆこうとする。フェアな競争をしていたら、チームワークなんかつくれない。
若い社員たちが、俺たちがいちばん働いているのだから俺たちにたくさん給料をよこせ、というわけにもいかないだろう。
「フェアな競争」とか「健全な競争社会」と言われても、そんなことに答えがあるわけではないし、正義にもならないし、それが人間の本性であるのでもない。
現在のグローバル資本主義は、「健全な競争社会」を叫んで世界を荒らしまくっている。
「健全な競争社会」こそ、人間の心や歴史をゆがんだものにしてしまっている元凶なのだ。
競争は、なるべくアンフェアな方がいい。その方が競争の軋轢が少なく、競争する前からあきらめてしまうこともできる。
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「競争」することは、人間の本性でもなんでもなく、制度性=共同幻想なのだ。
人は、競争を無化する関係をせつに求めている。その関係において、はじめて生きてあることのカタルシスが体験される。
フェアな競争よりも、競争を無意味なものにしてしまうアンフェアな競争の方がまだいいのであり、この世にそういうアンフェアな競争が存在するということは、競争は人間の本性ではない、ということを意味する。
市民(=主人)であろうと悪あがきする奴隷と、奴隷のままでいいと思っている奴隷と、いったいどちらが幸せで、どちらに人間性があると、あなたたちは決めることができるのか。
市民になろうとする奴隷も、奴隷になるまいとする市民も、けっきょく同じ穴のムジナだろう。彼らは「市民VS奴隷」という「競争」の図式から永久に逃れられない。
現在の「萌え=かわいい」のムーブメントは、「にせもの=コピー」の文化である。つまりそれは、「市民=オリジナル」VS「奴隷=コピー」の競争ではなく、「奴隷=コピー(にせもの)」のままでいいという文化にほかならない。そこにおいて、競争が無化されている。
「奴隷=コピー」だからといって、「市民=オリジナル」になろうとしているのではないのだ。
盆栽の松はオリジナルの自然のコピーにすぎないが、オリジナルの自然になろうとしているのではない。盆栽であること、すなわち「にせもの=コピー」であることそれ自体にアイデンティティ(素性)があるのだ。
「競争を無化する文化」、これが日本列島の伝統である。現在の若者たちの生きにくさもアイデンティティ(素性)も、日本列島の伝統に遡行してこの文化を持ってしまったことにある。
「強者が弱者を救う」といっているかぎり、「強者VS弱者」という競争の図式から逃れられない。「救ってくれなくてもいい、弱者のままでいい」という態度にこそ「競争を無化する」かたちがある。
人は、弱者であるときにこそ、人間であることの根源に触れ、生きてあることのカタルシスを体験しているのだ。
「奴隷であることの素性」、「弱者であることの素性」、「にせもの(コピー)であることの素性」、この「素性」をたしかに持つことこそ、「競争を無化する」日本列島の文化の伝統にほかならない。
人は「競争を無化する」体験がなければ生きられない。何はともあれ人類は、競争を無化して二本の足で立ち上がっていったのだ。
「健全(フェア)な競争社会」などと安っぽいことばかり言ってくれるな。
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